思い込みPart2~千葉市・6歳男児殺害事件~

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昭和62年、東京で母親が当時13歳と9歳の我が子を刺し殺すという悲惨な事件が起きた。
母親は当時とある病気にかかっていると思い込み、それが家族に感染したと考えていた。それは完全な妄想だったのだが、支配された母親は一家心中へと突き進んだ。
裁判で母親には心神耗弱が認められたが、それでも懲役5年の実刑が下った。

2年後、千葉市で小学校に入学したばかりの6歳の男の子が、母親に殺害されるという事件が起こる。
この母親もまた、ある妄想に取り憑かれていた。

平成元年4月14日

母親はふと、息子が失禁していることに気づいた。息子の衣服を着替えさせ、汚れをふき取ると布団に寝かせた。
夫に書置きを残し、必要なものが入ったバッグを机に置くと、夫に頼まれていた3000円の振り込みをするために家を出た。
午後7時15分、マンションの階段をのぼり、母親は10階までやってくるとそのまま廊下の手すりを乗り越えた。下を見れば、通行人らが見える。

あとは、一歩踏み出すだけだ。

しかし通行人らが通報したのか、すぐに消防署のレスキューがやってきた。あぁ、どうしよう。このままじゃ、お父さんに怒られる。捕まっちゃう。

結局、母親は駆け付けた消防隊員らに保護された。

同じ頃、千葉市真砂4丁目のマンションから110番通報が入った。帰宅した男性が、6歳になる息子の意識がない状態で寝かされているのを発見、通報したものだった。
男児は救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。

死亡が確認されたのは、そのマンションで両親と暮らしていた瀬野真吾くん(仮名/当時6歳)。真吾くんは首を絞められた痕跡があったことから、警察では行方が分からない母親を捜した。
そして、自宅近くの別のマンションの10階から飛び降りようとして保護された女性が、真吾君の母親と判明。事情を聞いたところ、母親が真吾君を絞殺したことを認めたため、殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは瀬野玲子(仮名/当時42歳)。玲子は保護された際、泣きじゃくっており、息子を殺害して自分も死のうとしていたと推測された。
真吾君はこの4月から市立真砂第三小学校(現在は休校または廃校)に入学したばかり。マンションの住民らも、仲が良い親子だったと話しており、玲子や夫の評判も温和な印象しかなかった、としていた。
ただ、真吾君については、活発でときどき一人でどこかへ行ってしまい、そのたびに玲子が探し回っていたという話があった。

新聞各社報道は、親が虐待などではなく子供を殺したケースではその精神状態などに配慮が必要なことがあるため、いずれも被害者加害者の実名は避けた。

そして、事件から1か月後には、一切の報道はされなくなった。

家族

玲子は昭和21年生まれ、特に大きな病気もせずに成長し、短大の国文科を出た後は国会図書館の非常勤職員や団体職員などを経て、昭和56年に結婚、翌年3月には専業主婦となり、7月に真吾君が誕生した。
時代的に少し遅めの結婚、出産ではあったが、経済的な基盤もできた上での家族の暮らしは安定し、親子3人、平凡に幸せな日々がこの先も続くと玲子のみならず誰もがそう信じていた。

真吾君が1歳6か月の時、千葉市の保健師が指導する「親子で遊ぶ会」に玲子は参加した。そこで、真吾君の様子を見ていた保健師から真吾君の発育に気になる点がある、と指摘された。
真吾君は見た目には特に問題はなかったが、発語が遅れていた。また、他人と視線を合わそうとしない、呼びかけにも応えないという特徴があったという。
玲子は保健師の指摘を受け、自宅近くの小児科でそのことを相談した。小児科医師の紹介で今度は千葉市療育センターへ1年ほど通ったものの、真吾君の発育は変化がなく、玲子は自分でも情報収集を始めた。
そして、聖マリアンナ医科大学の「ことばの治療室」の存在を本で知り、月一の割合でカウンセリングを受けるようになった。

玲子はこの時点で、真吾君の特徴が「自閉症」に似ていると感じており、小児科医にもその旨相談するなどしていたという。

昭和63年、4歳になった真吾君を保育園に入所させたが、この頃真吾君には「多動」が現れていた。
今でも多動傾向の強い子供はどこの保育所でも、ということは難しいという話も聞くが、今から30年以上前であればただの「しつけができていない子」「変わった子」という認識が強かった可能性が高い。
保育所からは保育士が真吾君にかかりきりにならざるを得ず、また危険な行動もとることがあると言われてしまった。
しかも家での真吾くんは睡眠障害や偏食、奇声をあげるなどの行動が顕著になっており、玲子は保育園へ通わせることを半月で断念せざるを得なかった。

ノーベル賞学者との出会い

玲子のみならず、この時代の一般人で自閉症について正しい知識を持っている人は多くはなかったと思われる。今でこそ自閉症児の親がSNSなどを通じて情報発信しており、またYouTubeなどでもリアルな生活や行動などを発信しているため、昔ほど間違った知識を持つ人は減ってはいると思うが、それでも理解を得られなかったり、時には差別的な待遇に悩まされる当事者や家族もいる。

玲子は自分でも本を中心に知識を得、少しでも親として理解を深めようと努力していた。
そんな時、一冊の本に巡り合う。オランダの有名な動物行動学者でノーベル医学生理学賞を受賞したニコ・ティンハーゲン氏の著書「自閉症児・治癒への道」である。
ティンハーゲン氏は1970年代以降、自閉症に関心を寄せており、1987年に出版されたのがこの本だった。
当時、自閉症児らには教育が不要(やっても意味がない)であるという放置するしかないといった風潮があり、ティンハーゲン氏はそれを否定し、早期の療育教育によってその可能性は広がるといった主張をしている(多分)のだが、その中に「自閉症は親の行動に起因する」というものがあったため、現在でも間違った受け止め方をしている人々もいるという。

玲子もその、間違って受け止めた一人だった。

おそらくだが、ティンハーゲン氏の著書の中で「自閉症児は精神薄弱児施設でゆっくり過ごすのが良い」「自閉症児には税金をかけて教育しても無駄」という当時の常識というか、そういった現実に触れる個所があったのだろう。
ただそれはあくまで現状を述べたにすぎず、ティンハーゲン氏はそれが正しくないことであるとしていたにもかかわらず、玲子にはその部分だけが印象に残ってしまったようだった。
そして、自閉症児は閉ざされた施設で一生を過ごすのが良いとするのがティンハーゲン氏の主張であると思い込んでしまった。

玲子はこれまで必死で病院を渡り歩き、ありとあらゆる努力を重ねてきたことがすべて無意味になってしまったと感じた。
親として取り返しのつかないことをしたと思い込んだ玲子は、この頃から自殺したいという思いを抱き始めたという。
昭和63年暮れ、翌年に小学校入学を控え、玲子はますます思いつめるようになっていた。

「おもちゃの会社のぶんちょう。」

真吾君の行動はますます理解不能になっていた。
家にいても突然思い出したように泣きだす、大声で何ごとかを叫びながら部屋中を走り回る、夜突然起きて寝なくなる、食事を拒否する、ある時、アイスクリームを買いに行くと出かけて行ったきり、帰って来ないことがあった。
捜索願を出したところ、なんと保護されたのは東京都内ということもあった。体の発育は順調だったこともあり、もはや真吾君をひとりで行動させることは無理だった。

小学校への入学のための健康診断があった日は、帰宅するなり泣き喚き、家の中のクローゼットにこもり、「おもちゃの会社のぶんちょう」と繰り返し大声で叫んでいたという。それが3日続いた。

玲子は以前読んだ本の中で、自閉症の中にはいわゆる精神分裂病(当時の表現)があると記載されていたことを思い出した。
これをきっかけに、それまでに相談してきた人々の言葉の中にも、精神分裂病という言葉があったことを思い出していた。
小児科医からは、自閉症の酷いのは分裂病と言われたこと、捜索願を出した際、警察官に息子は自閉症と伝えたのに、書類には「精神不安定」と書かれたこと、その他、精神分裂病という言葉が繰り返し思い出されるようになった。
が、これは玲子の記憶違いや受け止め方の違いが多かったようで、この辺から玲子が思い込むそれらはどうも事実と違うこと、何でそうなったといいたくなるような極端な解釈が目立ち始める。

ある時、玲子は百科事典の精神分裂病の項目を熱心に読んだ上で、これを間違って解釈した。
そして別の本から仕入れた知識として、ある病気の症例と真吾君の特徴が似ていることから真吾君がその病気に侵されていると思い込んだ。
その症状とは、目がとろんとしていて鼻水が多く出、よく鼻血が出るといったもの。幼い子供の多くが当てはまるようなものとしか思えないこれらから玲子が導き出した病気は、梅毒。
真吾君は先天性梅毒による進行性マヒに違いないという結論だった。なんで。

暴走する妄想

玲子はとにかく、なぜか悪い情報のみを拾い集めているかのように物事を曲解しまくっていた。
過去に聖マリアンナ医科大学のカウンセラーから「真吾君はしつけや教育が要らない子」「なんでもしてあげなさい」と言われたことを、真吾君の余命がないことを知っていたからこその発言だと決めつけた。
おそらくカウンセラーは、自閉症は治す、問題行動を矯正するといった意味でのしつけや教育はいらない、だけど親として真吾君のためになると思うことがあればなんでもしてあげて、という程度の言葉だったと思われるし、普通は意味がよくわからなければその場で「どういう意味でしょうか?」と確認するだろう。
玲子も、その場では意味が解らないのではなく、まともな意味に受け止めていたと思われる。それが、ふとしたきっかけで「実はそういうことだったのでは?」というある種の気づきを得ては、それに沿った答えをこじつけてでも導き出していた。

玲子の暴走は止まらなかった。

小児科医院で看護師が複数真吾君の診察を見ていたことを、実際に意味などなかったにもかかわらず、
「母子感染による梅毒の症例を看護師らに見学させていた」
と決めつけ、その小児科医の自宅に診察のお礼に行った際、普段は繋がれている犬が放されていたのは、梅毒患者である自分と真吾君を医師の家族に近寄らせないようにするためのものだと決めつけた。
玲子は関係者の言動を過去にまでさかのぼって、自分の妄想に沿う形で無理矢理こじつけた。しかもそのほとんどが、玲子の間違った認識や誤った記憶に基づいていたというから手に負えなかった。

夫はどうしていたのか。

平成元年3月、玲子は夫に、真吾君は先天性梅毒による進行性のマヒに侵されていると話した。自閉症だと思っていた夫は面食らう。ていうか、それなら自分たちも梅毒に感染しているはず……
その感染経路についても、玲子はとある記憶を確固たる証拠として夫に話して聞かせた。
それは真吾君を出産した際のこと。帝王切開で真吾君を取り上げた産科医がゴム手袋を外した際、その手がひどく荒れていたのだという。玲子の主張は、その産科医が梅毒にかかっており、その産科医に出産を受け持たれたことで自分と真吾君に梅毒が感染した、というものだった。

夫は当然、そんなことは有り得ないと一時間に渡って説得したというが、玲子は頑として夫の話の一切を聞き入れなかった。

玲子はその後、カウンセラーに対して「先天性の梅毒だと知りつつ、なぜ保育園入所しても良いなどと指導したのか」と詰め寄ったりもしているが、夫や関係者は当然のことながら血液検査をすればはっきりすると主張し、自分も梅毒であると信じていた玲子は当然血液検査に応じた。
結果は陰性。玲子が梅毒にかかったことはないと証明されたが、玲子はその結果から自分の考えの根拠が崩れたと思うのではなく、
「やはり産科医が手袋を外して真吾を触ったから真吾だけに梅毒が感染した」
という妄想を補強する材料としてしまった。

安楽死

ところで玲子の親族には医師がいた。叔父にあたるその医師(K医師)は北海道在住だったが、ある時玲子から電話を受けた。
真吾君のことを相談する内容だったが、その際、叔父から従兄弟にあたる医師(R医師)が聖マリアンナ医科大学にいることを聞き、叔父を通じて連絡先を聞いた玲子はR医師に連絡し、カウンセラーに会ってほしいと頼んだ。
その後、北海道のK医師が上京することになったと聞き、真吾君のことで上京するのだと思った。
玲子はR医師にも、真吾君は先天性の梅毒であると話したというが、その際、R医師が、「あ、これでY先生(聖マリアンナのカウンセラー)に会える」と言ったという。

同じ頃、新聞でおそらく外国の話だと思われるが看護師による患者安楽死事件が報道され、玲子もそれを目にしていた。
4月、真吾君は小学校に入学。しかし玲子は梅毒が学校給食を通じてほかの児童に移ると信じ、それを心配していた。
ここでふと、R医師の「これでY先生に会える」との発言を思い出した。

そして玲子の中で、この発言は、真吾君を安楽死させる計画が進められている証拠だという確信になってしまった。なんで。

4月10日、玲子は梅毒が移ることを心配するあまり、義務教育である小学校をやめさせようと考えた。そのためには医師の書類がいると考え、カウンセラーに書類を書いてもらおうとしたり、12日には真吾君が発熱したことでいよいよ症状が進んでいると確信した。
13日、かかりつけの小児科医院を訪ねた際、普段と何ら変わらない医師の態度がおかしいと思い込み、何かを隠していると思い込んだ。
さらにはカルテが分厚いのは、カウンセラーからの情報を書き込んでいるからだとし、ひいてはこの小児科の医師も真吾君の安楽死に関わっているのだと思い込んだ。
その日の診察料金を支払った時、玲子はいつもより安いと思った。そしてそれは、この小児科医がK医師から安楽死の件を聞かされ、特別に安くしてくれていると思い込んだ。ちなみに、診察料金はさほど普段と変わってはいなかったという。

玲子はそれらを確信しつつも、本来安楽死などというのは内密に行われるものであって、たとえ医師とはいえその事情を知る人間が多いことが気になっていた。
14日、小児科医がどこまで関与しているのかを探ろうとしたのか、玲子は小児科医に電話し、「真吾は進行性のマヒではないか」と尋ねた。
小児科医の反応は「ただの扁桃腺炎で、進行性マヒの症状はない」とのものだったが、玲子はこの答えから、小児科医は真吾君が進行性マヒであることを知りながら安楽死させる計画を知っているためにその事実を隠していると思い込んだ。

さらに、この日は北海道から叔父のK医師が上京する日であり、K医師が来れば安楽死の計画が粛々と進められると考えた。同時に、K医師は親族であり、親族から梅毒患者が出たなどとなれば親族にも迷惑をかけるし、その親族であるK医師に安楽死をやらせるというのはそれはそれで大変なことであると考えるようになる。

そして玲子が出した答えは、「私と真吾が死ねば、皆に迷惑をかけずに済む」というものだった。

その日

決意を固めた玲子は、心中した後すぐに身元が判明するよう、自分あてのハガキやスナップ写真などを持ち、その日の午後4時ころ真吾君を連れて家を出た。
そして近所の高層マンションの最上階まで行くと、真吾君に対し
「二人で死のう」
と告げた。
ところが真吾君は反発。「いやだ!家に帰る。」はっきりとそう意思表示した真吾君に玲子は怯んだ。
それでも死ななければ多くの人に迷惑がかかるため、こうなったら真吾君を無理やりにでもここから突き落とそうか、とも考えた。
が、さすがにそれは出来ず、とりあえずこの時は無理心中を諦めその場から去った。
帰り道、真吾君は「今日は死なないよ」と何度も口にしていたという。

午後5時前、自宅に戻った玲子は真吾君に「二人で寝ようか」と声をかけた。が、真吾君は寝ようとせずに一人で遊び始めた。
それを見た玲子は、首を絞めて殺害することを思いつく。怖い思いをさせるより、その方がまだいい。
玲子はビニールひもを手に、機会をうかがった。少しでも警戒されたくなかった。
背後から真吾君に近づくも、真吾君の目の前に姿見があり、そこに今まさに子供を殺そうとする玲子の姿が映っていた。
それを見て躊躇したものの、真吾君がやがて姿見から少しずれた場所で遊び始めたことで、玲子は一気に背後からその首をビニールひもで絞めあげた。

妄想のはて

報道では最初から最後まで息子の発育や行動に問題があるのは自閉症のせいだと「思い込んだ」というものだった。
しかし実際には、思い込んだのは自閉症であるということではなかった。むしろ、自閉症ではなく先天性梅毒による進行性マヒだと思い込んでいた。

検察は玲子の身体的検査や脳波検査、それらに異常がないこと、IQも問題なく、逮捕後に行われた鑑定の結果でも記憶や知的な問題もなく、意識もはっきりしており、犯行当日、真吾君に反発されいったんは心中を思いとどまったこと、屋上から突き落とすのはかわいそうだと考えたこと、その帰り道で真吾君が「今日は死なないよ」と何度も口にするのを他人に聞かれるとまずいと考えたこと、そしてなにより梅毒にかかって余命いくばくもない我が子のことで親族に迷惑をかけられないとする動機が思い込みだったとしても了解可能なこと、逮捕後の言動から自己の行為の善悪の判断がついていたとして、玲子の起訴に踏み切った。

弁護側は、玲子は少なくとも平成元年1月ころには重度の妄想性障害の状態にあったとする鑑定をもとに、犯行当時は心神喪失の状態だったとして無罪を主張した。

妄想性障害とは、一つまたは複数の間違った強い思い込みがあり、それが少なくとも1か月以上持続する場合をいう。

特徴として、日常生活は比較的問題なく遅れている人が多いといい、玲子もそうだった。
また、その思い込みにはタイプがあり、ストーカーによくみられる被愛型、自分は特別だと思い込む誇大型、身近な人間が裏切ったり浮気していると思い込む嫉妬型、見張られている、中傷されているなど自分が被害者だと思い込む被害型、そして何の異常もないのに自分の体に異常がある、病気だと思い込む身体型に分けられる。

玲子の場合はどうか。身体型が当てはまるようにも思えるが、実際に真吾君には発達面で気になる点があったわけで、しかもそのあと自分で梅毒からの進行性マヒだと思い込み、医師や夫らから有り得ないと説得されても信じ込んだあたりを見ると、自分の発見に固執しているような印象も受ける(誇大型)。

しかもそれならば血液検査ではっきりすると言われ、実際に血液検査をして玲子が陰性だったにもかかわらずその考えを曲げなかったばかりか、梅毒に感染しているという思い込みを改めるのではなく、母子感染でないなら出産時に真吾君が梅毒にかかったと考えただけで、梅毒に感染していることは確定として扱っているなど、その思い込みは強固なものに違いなかった。

裁判所はその責任能力をどう解するかにおいて、玲子がその妄想性障害であるとしてもその妄想から攻撃の幻覚を抱き、それに反撃するための犯行というものとは違うとし、妄想に直接的に支配されたものではない、と判断した。
しかし、その妄想自体が動機の形成に密接に関係していることは否めないとし、その妄想自体が突飛で、素人が見ても医学的に有り得ないことを根拠としているため、医学的法的見地から何度もそれを訂正するに足りる客観的資料を与えられ、あらゆる説得手段で臨んでも微動だにしないその思い込みは相当強固であり、通常では了解できないものである、とした。

また、一見冷静で善悪の判断がついていると思われる一連の言動についても、それ自体は了解可能であっても、動機を形成したその前提が了解不能な妄想である以上、それを切り離して考えることは適切とは言えず、すべてをひっくるめて考えた場合には「了解不能である」と判断した。

玲子は殺人という行為そのものは違法であると認識はしていたとしても、動機は極めて理解しがたく、不合理で、全体として妄想という精神障害により物事の善悪を弁識する能力を欠いていたと結論付けた。

要するに、玲子は無罪だった。

判断の難しさと、ある疑問

この事件はその前に起きたエイズ思い込み事件とかなり似ているように思う。が、エイズ思い込み事件の場合は本人の元来の神経質な面などから、妄想性障害とまでは言えないとされたのか、言及されることもなかったし、実際に心神耗弱どまりだった。

妄想性障害は、その判断基準に「統合失調症ではない」というものがある。ということは、妄想の部分以外は「正常」なのだ。
そしてそれは、裁判所の判断も難しくさせる。鑑定人ですら、どこまでが健常でどこからが病理的かの判断は非常に困難としているからだ。

そのため、同じ妄想性障害であっても、死刑判決が確定する場合もあるし、心神耗弱や玲子のように心神喪失が認められることもある。

永山基準のように、大きな判断が行われるとそれは判例や枠組みとして引き継がれるようになるが、この精神鑑定の結果と裁判所の判断においては合致しないことは少なくない。
鑑定結果がすべて同じではないし、たとえ同じであってもそれを裁判所が採用しないという場合もある。それは、精神鑑定の結果だけを見ても事件の背景などの全容が解明されるわけではないこと、動機の解明などに関係する心理的分野はそもそも精神医学の本分とは言えないといった事情があると思われるが、この精神鑑定の取り扱いについても、昭和58年、59年、平成20年、21年と、最終判断は裁判所、という決定をそれぞれを補強する形で最高裁判所が出している。

玲子の事件の場合は、鑑定結果と裁判所の判断は合致していた。エイズ思い込み事件もほぼ、合致とみていいと思うが、それでもその事件には有罪と無罪という越えられない壁があった。
が、素人的にはその差が正直わからない。
エイズ思い込みの母親も、どれだけ医学的に有り得ないと根拠を示されてもその考えは微動だにしなかった。玲子もまた、同じだった。

ただ、この玲子の事件にひとつだけ気になるところがあった。

玲子は梅毒を否定する夫や医師の説得で自ら検査を受けている。そして陰性だった。そこで玲子は、母子感染ではなく出産時に医師から真吾君に直接感染したのだと、感染経路を変えた。真吾君が梅毒であるという前提は崩していない。

しかし、肝心の真吾君の血液検査をしていないのだ。これはどういうことか。

…わかっていた、ということはないのか。梅毒などではないことを本当は。けれど玲子には梅毒でなければならない理由があったのではないのか。だから、真吾君の血液検査をあえてしなかったのではないのか。梅毒が強烈で忘れかけていたが、当初は自閉症と考えていたはずではないのか。言い換えると、自閉症ではないという理由が欲しかった可能性はないのだろうか。
この時代、自閉症には玲子がそうであったように間違った知識、偏見もあったろう。むしろ梅毒を疑ってそれが否定されるとさらに重篤なエイズだと思い込んだあの母親の方が突飛だし、妄想の度合いが強すぎる気がする。

自閉症は命にかかわるような、余命云々という障害ではない。それはいくら偏見があった昭和の終わりから平成でも同じだろう。梅毒や進行性マヒと自閉症にどう考えても共通するような症状はない。そしてなにより、余命いくばくもないとか安楽死とか、死を意識するような妄想になぜ取り憑かれたのか。
突飛だと言われたその思い込みは、玲子にとって真吾君は自閉症ではなく、この子はもうすぐ死ぬのだというある種の「願望」だったような気もしないでもない。

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参考文献

朝日新聞社 平成元年4月15日東京朝刊、5月3日、28日東京地方版/千葉

妄想性障害と刑事責任能力  本庄武『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第 21 巻第 3 号 2022 年 11 月

平成2年10月15日/千葉地方裁判所/刑事第一部/判決/平成1年(わ)415号

FUNNY MONEY~あるふたつの家族の結末~

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家庭の悩み事のほとんどは現預金が解決してくれる、とは真理で、多くの問題は解決されると私は思っている。
すべてではないにしろ、とにかく一家心中みたいなことは避けられるんじゃないかと思うのだ。
現預金さえあれば生まれなかった悲劇は山のようにあって、格差社会や貧困問題が事件につながることは少なくない。

が、同じ金がない、でも、登場人物に問題があって、さらにはそれを解決する手段を講じない、現実を見ないという場合もある。

ある二つの家族がたどった破滅への軌跡。 続きを読む FUNNY MONEY~あるふたつの家族の結末~

酔醒~いくつかの不倫事件始末~

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日本において、不倫自体は刑事的な犯罪ではない。不法行為ではあるとしても、刑務所に入ったり顔と実名を晒して糾弾されることも基本的に、ない。
しかし過去には不義密通、姦通罪として死罪同等、発見者(妻もしくは夫)がその相手方を殺害しても下手人討として処罰を免れた時代もあった。
旧刑法、旧民法においてさすがに死罪はなくなったが、その罪自体は残ったし、たとえば不倫して離婚した者がその不倫相手と婚姻することはできないとする法律もあった。
ちなみに外国、アフリカやイスラム圏の一部では現在でも最高刑は石打ち、実際の映像を見たことがある人もいると思うが、日本の絞首刑など石打ちの苦しみに比べれば……と思わざるを得ないほど、強烈である。

しかしそれでも、不倫をしてしまう人は世界中にいて、そして家庭は崩壊し、時に事件が起き、当人が殺しあうならまだしも、家族、さらには無関係の人を巻き込む大事件に発展することもある。

失われた理性と果てしない欲望、酔醒、逃げる者と噴きあがる復讐心その顛末。

危険な情事~千葉の愛人殺し~

昭和59年夏。横浜市在住の看護学校の女性教員が行方不明になって2カ月が過ぎていた。
北九州市出身のその女性は、5月15日以降の足取りが全くつかめずにいて、同僚や友人、故郷の家族らはその安否を心配していた。

ところがある時、女性の銀行口座から出金があったことに実家の父親が気づく。引き出された額は40万円。行方不明になった後のことで、不審に思った父親は警察に届けを出した。

銀行の防犯カメラには、女性ではなく男の姿があった。男は2度にわたって女性の口座から金を引き出しており、警察はとりあえず窃盗事件としてこの男を逮捕した。

妊娠していた愛人

行方が分からなくなっていたのは、横浜市戸塚区在住の三隅理津子さん(仮名/当時32歳)。北九州の県立高校を卒業後、地元の看護学校で看護師資格を得ると山口県内の病院で勤務していたが、昭和47年に東京の病院へ移った。
その後、神奈川の看護専門学校の教員として3年間勤務していたが、この年の4月末付で「自己都合により退職」していたという。
三隅さんの勤務態度はまじめで、勤務していた3年間で有給休暇もほとんどとらなかった。

一方で窃盗の容疑で逮捕された男は千葉県袖ケ浦市在住の会社員、岡野洋平(仮名/当時32歳)。
実は岡野は三隅さんと同郷、同じ県立高校の出身で、しかも高校時代には交際していたという。
逮捕当時岡野には妻子があり、海外出張などもこなしその生活は順調に思われたが、実は岡野と三隅さんは高校卒業後もずっと交際を続けていた。

三隅さんは独身だったが、看護学校をやめる際、友人らの話によれば妊娠していたというのだ。それも、もう5か月くらいになっていたのではないか、という話だった。
それについて岡野は、「彼女とは確かに交際していた時期もあったが、今年の二月に別れた。」と供述。
しかし一方の三隅さんは、北九州の両親に対し、「結婚して千葉で暮らす」という話をしていた。

警察はその後も岡野を追及したところ、8月の終わりになって「別れてからも結婚を迫られ、このままではだめになると思った」と話し、その後、三隅さんを殺害して」山林に埋めたことを自供。
供述通りの千葉県君津郡袖ヶ浦町久保田の山林から、女性の遺体が発見された。
その後の司法解剖の結果、遺体は三隅さんであると確認された。

知らなかった結婚

岡野は昭和45年に三隅さんと同じ高校を卒業、大学受験に2度失敗していた。大学を諦めた岡野は昭和47年に川崎市にある工場設備の検査会社に就職。
三隅さんはすでに看護師として働いていたが、時期を同じくして東京に移っていた。
ところが岡野は昭和51年ころに別の女性と結婚していた。子供も生まれたが三隅さんとの関係は続いており、二人の関係はどこからどう見ても「不倫」だった。

昭和59年2月、岡野はアブダビの石油プラントの検査のために出張した。同じころ、三隅さんは国際電話を何度もかけていた。
警察では、この頃に三隅さんが岡野に対して妊娠を告げたのではないかとみていた。

三隅さんの妊娠は限られた友人らしか知らなかったようで、お腹が目立つ前に看護学校の職も辞していた。
しかし岡野には妻子がいる。岡野は大学進学をあきらめたのちに入社したこの会社で、精力的に働いていた。資格も独学でとり、アブダビの石油プラントを一人で任されるほどの信頼を会社からも得ていたという。

三隅さんは、岡野に結婚を迫った。というか、三隅さんは不倫だという自覚がなかった。岡野は三隅さんに対して、結婚の事実を隠していたのだ。
推測になるが、岡野の結婚と第一子の出産の時期から見て、いわゆる出来ちゃった結婚だったのかもしれない。三隅さんと交際しながら、ほかの女性と結婚せざるを得なくなったものの、岡野は三隅さんにはその事実を隠し、交際を続けていたのだ。
しかし三隅さんの妊娠によって、岡野は抜き差しならない状況に陥ってしまう。
三隅さんは最終的に岡野が結婚していたことを知り、それでも子供は産んで一人で育てる、認知だけしてほしいと迫った。岡野にとってそれは、自分の結婚生活を破滅に追い込まれるという脅迫としか受け取れなかった。

4月、岡野は三隅さんに、「妻とは離婚することにした。千葉で一緒に暮らそう。」と告げる。三隅さんは喜び、九州の両親にも報告した。
5月15日、岡野は三隅さんに新居へ案内すると言って誘い出し、その夜、東京湾を見下ろす自宅近くの高台で、三隅さんの首を絞めた。

岡野は離婚する気など毛頭なかった。三隅さんの妊娠を知って以降、どうやって三隅さんを殺すか、そればかり考えていた。推理小説を読み漁り、海に突き落とす、駅のホームの雑踏に紛れて突き落とす、しかし結局、確実さを選んで自ら首を絞めたのだった。

雑木林に三隅さんの遺体を埋めた後、岡野は何食わぬ顔で日常を送っている。通勤で毎日その雑木林の横を通りながら、子供たちのイベントや学校行事に参加した。8月の逮捕直前、会社の海水浴に妻子や親せきの子を連れて参加し、子煩悩ぶりを発揮していた。

「彼女のことがばれれば、みんなダメになる。どうしていいのかわからなくなった。」

そう話した岡野だったが、三隅さんとの10年に渡る交際については、「からかい半分だった」と言った。
昭和60年2月21日、千葉地裁の太田浩裁判長は、岡野に対して懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。

この子のななつのお祝いに~伊達市の母子殺し~

それは凄惨な現場だった。
北海道伊達市の市営新末永団地の一室、ここには35歳の女性とその幼い娘が二人、肩を寄せ合い暮らしていた。
平成9年11月15日、この日七五三のお祝いに記念撮影をする予定で親族と会う約束をしていたが、ふたりは約束の時間になっても待ち合わせ場所に来なかったという。
そこで家を訪ねた女性の実母が、家の中で変わり果てた二人を発見したのだ。

二階建てのその部屋に入った実母が見たのは、階段付近で血を流して絶命している孫娘の姿。そして二階の六畳間では、同じく頭から血を流して娘も死亡していた。

亡くなっていたのはこの団地の部屋で暮らしている佐々木瑞穂さん(仮名/当時35歳)と、娘の萌香ちゃん(仮名/当時6歳)。状況から二人は殺害されたとみられた。
瑞穂さんは当時伊達市の臨時職員として水道局に勤めていた。離婚歴があったが職場での評価は高く、いつもニコニコと笑顔の美しい女性だったという。
萌香ちゃんも挨拶のしっかりできる子どもで、事件の知らせを受け通っていた保育園の職員らは言葉をなくした。

捜査本部は現場の状況から殺害されたのは前日14日の夜と断定、二人とも頭部を鈍器で複数回殴られた後で首を絞められていたことも分かった。犯人像については、外部から無理やり押し入った形跡や荒らされた形跡もなく、二人の着衣に乱れもなかったことから、顔見知りの犯行も視野に入れて捜査を進めた。

一方、地元の北海道新聞では夜討ち朝駆けで捜査員らから何か情報を聞き出せないかと奮闘していた。
七五三の日に、そのお祝いをする予定の女の子が母親ともども殺害されるという何ともむごたらしい事件に、記者らも辛い取材をしなければならなかった。
そんな中、瑞穂さん宅には頻繁に男性が訪れていたという情報を掴んだ。瑞穂さんは市役所の臨時職員になる前、伊達市内の建具販売会社で勤務していたことがあり、その際に会社の取引先の男性と親密になったという。
記者らはこの男性がなにか関係しているのではないかと思いつつも、慎重に取材を続けたというが、結果から言うとある意味この男性は事件に関与していた。

11月16日夜、伊達署の捜査本部は瑞穂さん、萌香ちゃん殺害の容疑で、この男性の妻を逮捕したのだ。

逮捕されたのは伊達市の隣、虻田町在住の保養所従業員、山村美枝子(仮名/当時55歳)。美枝子は夫が瑞穂さんと不倫していることで家庭が壊されると危惧、夫が持っていた瑞穂さん宅の合鍵を使って侵入し、ふたりを殺害したことを認めた。
美枝子はそれまでに瑞穂さんと直接会ったこともあったという。
不倫相手のみならず、その幼い娘まで殺害したことで、検察は「近年まれにみる凶悪」として美枝子に無期懲役を求刑したが、札幌地裁室蘭支部の田島清茂裁判長は懲役18年という判決を言い渡した。

犯行自体は計画的で狂暴かつ卑劣、としながらも、殺意を持ったきっかけは偶発的な側面が否定できないこと、また、事件後美枝子が深く反省していることなどが量刑の理由だったが、それにしてもかなりの減刑に思える。

瑞穂さんは最初の夫も当時52歳と、かなり年上の男性に惹かれる傾向があった。年上となるとどうしても既婚者である確率は高くなるわけで、その点で瑞穂さんにはいろいろと批判的な評判もあったという。最初の夫とも、萌香ちゃんが生まれてすぐに別居しており、美枝子の夫と交際を始めたのはその離婚が成立して間もないころだった。

美枝子は長年連れ添った夫がまるで人が変わったように自分を蔑ろにし、人目もはばからず瑞穂さん母子のもとへ足繫く通うようになって心を痛めていた。
50歳半ばの自分と、30代で若く美しい瑞穂さん。温泉施設で働く「おばちゃん」でしかない自分が、みじめだった。
事件直前、長男夫婦の結婚式のビデオを見て、美枝子は自分たちにもこんな時代があったと夫に対話を持ち掛けたという。しかし、それに対する夫の態度は冷淡なものだった。
悪いのは自分の夫だというのは分かっていたはずだった。しかし、どうしても瑞穂さん母子の存在がなくなればという思いが消せなかった。美枝子は瑞穂さんと萌香ちゃんが憎かった。

事件が起きた平成9年のベストセラーは奇しくも「失楽園」だった。
しかし現実の失楽園の結末は、久木と凛子の愛の最高潮での心中ではなく、幼い子をも巻き込んだ血まみれの怨念だった。

あちらにいる鬼~吾妻の殺人未遂と、近江八幡の女性殺し~

吾妻の殺人未遂

平成11年3月30日深夜。吾妻署に母親に付き添われた男子高校生が出頭してきた。その直前、男性から「息子に刺された」という110番通報が入っており、警察は少年の行方を追っていた。
少年は父親を刺したことを認めたため、殺人未遂の疑いで緊急逮捕となった。

しかし、少年が刺したのは父親だけではなかった。

110番通報があったのは吾妻郡内の49歳の女性宅からで、少年はこの女性も刺し重傷を負わせていたのだ。
この女性は、少年の父親と不倫していた。

少年は兄二人と両親の5人暮らしだったが、兄が平成10年の春に自立して家を出た後は両親との3人暮らしだったという。高校の関係者によれば少年は非常にまじめな性格で、中学校時代には生徒会長も務めていた。同時に、正義感も強い少年だった。

両親の間に亀裂が入ったのは、事件の2~3年前。父親が勤務していた吾妻郡内の食品販売会社で同僚だった女性と不倫が始まったのだ。平成11年に入ると父親は自宅に戻らなくなったという。
両親は離婚を話し合うようになり、事件の前日も夜遅くまで少年を交えて家族の今後が話し合われていた。

「相手の女の人に会わせて」

何を思ったのか、少年は父親に不倫相手の女性と会わせるよう要求。正常な判断が出来ればこの時点でかなりヤバいことは分かりそうなもんだが、父親はそれを承諾。自宅から1キロほどしか離れていない女性宅へ父親と出向いた少年は、玄関先で女性と父親の三人で話していたが、突然隠し持っていたナイフで二人を次々に刺した。

その後、父親から連絡を受けた母親が親戚らと少年の行方を捜していたところ、自宅近くに戻ってきていた少年を発見。少年は「止めないで、止めないで」と言いながら橋のたもとに立っていた。自殺する気だった。
母親らの説得で自殺を思いとどまった少年は、「怖かった」とつぶやいたという。

少年はその後家裁送致となり、中等少年院へ行くことが決まった。

「死ぬと言っていた、頼む、見つけてくれ」

刺されながらも父親はこう言っていた。しかし、家庭を崩壊させておきながら、少年の心を壊しておきながら、この時父は何を思うたか。
母は「結局、私たちの犠牲になって、子供が苦しまなくてはならないなんて」と言って泣いた。

一方の女は、どうだったろうか。ご近所ともいえるほど近い場所でのうのうと不倫をし続けた己の罪深さを恥じたろうか。今もその体に傷痕は残っているか。
少年の心の叫びを、どう受け止めたのだろうか。

近江八幡の女性殺し

仲の良い夫婦だった。店を切り盛りするそのひとは、病気がちな夫とその高齢の母親の世話をしながら、明るい性格で皆から好かれていた。

近江牛をふるまう飲食店を営み、介護と店を両立させ、体を心配する知人らには「病気になんかなってる場合じゃない」と笑っていた。
10人の従業員を抱えていたが経済的には安定しており、飲食店を法人化するなどその経営手腕も見事なものだった。時間に追われ、自宅の家事をする余裕もないほどの生活だったが家の中のことは清掃のサービスを頼んでいた。

平成26年10月14日、いつものように清掃の担当者が自宅を訪れると、いつもは閉まっているはずの玄関の鍵が開いていた。また、飼い犬がやたらと吠えていて不穏な気配を感じずにはいられなかった。
中に入ると、廊下で横向きに倒れ、腹部から大量に出血している女性を発見、110番通報したが、女性はすでに死亡していた。

亡くなっていたのは近江八幡市の飲食店経営、岩永聡子さん(仮名/当時52歳)。状況から殺害されたとみられ、県警捜査一課は殺人事件として捜査を開始。
しかし、いつも明るく快活な人柄で知られる聡子さんの周辺に人間関係、仕事関係のトラブルはなく、また物色された形跡もなかったことから強盗の線は薄いとみられていた。が、当時聡子さんの夫も義母も入院や施設入所で家におらず、家の中でなくなっているものがあるのかないのかの判断がつかなかったことで、県警は強盗殺人の線も完全には消せていなかった。
その夜は台風の影響で雨が降り、室内に残された靴跡もそれがいつついたものかの判断が出来なかった。

ただ、司法解剖の結果、聡子さんには30か所以上の刺し傷があり、その一部は深さ10センチ以上、犯人には聡子さんに対する強い殺意が感じられることは、事実だった。

しかしその後2年経っても、聡子さん殺害の犯人は判明していなかった。自宅前には防犯カメラがあったが、容量が少なかったのか、一番古い映像が事件後救急隊員らが出入りする場面で、肝心の犯行時刻はすでに上書きされていたという。

事件から1年後に、自宅内の引き出しが一か所不自然に開けられていたことが判明したが、それでも県警は強盗というより怨恨の線の可能性が高いと感じていた。

「聡子さんの素敵な笑顔は一生忘れません。」
自宅の玄関には、メモと共に花束が置かれ、知人らが事件後、泣きながらお供え物をしに来ることが後を絶たなかった。
悪い評判など一つもなく、とにかく老若男女誰からも好かれていた聡子さん。

事件から2年以上経過した平成29年2月8日、滋賀県警は聡子さんを殺害した容疑で、44歳の女を逮捕した。
女は聡子さんと顔見知りだったが、誰からも好かれていた聡子さんに対し、30年以上にわたる積年の怨みを抱えていたのだ。

女は、聡子さんの夫の「前妻の娘」だった。

裁判で検察は、「滅多刺しで強い殺意があった。人目に付きづらい台風の日を選んでおり、計画性もある」と指摘。懲役18年を求刑した。
一方の弁護側は、「30年に渡る長年の怨みには相当の理由がある」とした。
その怨みとは、実父と聡子さんの不倫だった。

女の実父と聡子さんは、平成9年に結婚。しかし、二人はそれ以前から長年の不倫関係にあったという。平成9年に女の実母との離婚が成立した実父は、その3か月後に聡子さんと再婚。
女は当時24歳だったというが、実母は家を去り、入れ替わるようになんと不倫略奪婚をした聡子さんがその家に入ってきた。
女はその後、結婚して4人の子をもうけたが、事件があったころには生活保護を受けながら暮らしていたという。一方で、実父の不倫相手だった聡子さんに対し、金銭を要求するなどしていた。
聡子さんも後ろめたい思いがあったのか、女の要求に度々応じていたようだ。

先にも述べたように、聡子さんは経営者としても確かな手腕を持っており、経済的には余裕があった。宝塚などの観劇を楽しみにしており、そういった充実した日々を送る聡子さんに対して、女は自身や実母の境遇を比べて怨みを募らせていた。

警察はどうも早い段階から女の存在を把握していたようだ。が、決定的な証拠がなかったことから、2年の月日がかかってしまった。
その間も事情聴取は度々行われていたというが、女は一切を否定していた。
そして逮捕されて以降も、20日間にわたって否認し続けていたが、その女の心を溶かしたのは、実母の言葉だった。

「やったのなら、認めた方がよい」

自分よりもはるかに苦しかったであろう母親のその言葉に、女はすべてを認めた。

平成29年9月29日、滋賀地裁の伊藤寛樹裁判長は、女に対して懲役15年を言い渡した。
「怨みの感情が影響していたが、あなたの支えになる出来事もたくさんあったはず。今後の人生では何を大事にすべきかをよく考えてください」
裁判長の言葉に、女は握りしめたタオルで何度も涙をぬぐった。

人を呪っても何も始まらないが、聡子さんはその罪を償った。今度は、女の番である。

怨焔~安城市の巻き添え焼死事件~

昭和63年11月22日の夕方。安城市の住宅で火の手が上がり、木造平屋建て150㎡が全焼した。
この家には40代の夫婦と10代の子供ら3人、そして、60代の祖母が暮らしていたが、出火当時は母親の明恵さん(仮名)、長男次男、そして祖母の4人が在宅していた。
祖母は一番奥の部屋にいたが逃げ出せて無事、明恵さんと息子の一人も手にやけどを負ったが軽傷だった。
しかし、17歳の長男は全身火傷で死亡、さらに、現場からは成人男性も全身大やけどで意識不明で運び出されていた。

この日、先にも述べたように40代の父親は外出していて留守だった。ではこの成人男性は誰なのか。

答えは母親の明恵さんが知っていた。
この男は、明恵さんの元交際相手であり、この家に火を放った張本人だった。

大やけどで意識不明となった男は、所持していた免許証から隣接する西尾市在住の無職の青木幸三(仮名/当時43歳)とみられた。
逃げ延びた明恵さんと次男の話によれば、この日明恵さんは台所で夕食の準備を、兄弟は玄関に隣接する和室でテレビを見ていたという。そこへ、突然青木が訪れた。そして、玄関わきの和室に丸めた新聞に火をつけを投げ込んだという。
驚いた兄弟が逃げ出そうとした時、青木はさらにバケツに入った液体をぶちまけた。それは、ガソリンだった。

次男は辛くも逃げ出したが、長男はそのガソリンをもろにかぶってしまった。そして、あっという間に火だるまとなってしまった。

台所にいた明恵さんは駆け込んできた次男によって事件を知り、急いで逃げ出そうとした。と、そこへ火だるまになった人が転がり込んできた。
それは、火を放った後自らも火だるまとなった青木だった。
青木は、「死ねぇぇぇっ!」と何度も叫びながら、明恵さんの腕をつかんで引き戻そうとしたという。明恵さんと次男は必死に腕を振りほどいて逃げ切った。

青木はその後意識不明となり、愛知医大病院に搬送された。

事件の発端は2年前、明恵さんと青木が同じプラスチック製造会社で勤務していたことに始まる。どこまで深い関係かは定かではないが、二人は親密な関係にあったという。
ところが、そのプラスチック工場が倒産した後、無職となった青木はことあるごとに明恵さんに金を無心し始めた。ちなみにこの青木にも妻がいた。
困り果てた明恵さんは、夫にすべてを話したうえで弁護士に相談、事件が起きる3か月ほど前から弁護士を立てての別れ話が進んでいたという。

その後、青木が乗ってきた自動車の中から遺書らしきものも見つかり、警察では別れ話に納得がいかなかった青木の無理心中に長男が巻き込まれたとした。

青木は事件から3年に渡ってやけどの治療を受け、平成3年12月、殺人と現住建造物放火の疑いで逮捕された。
青木は回復したとはいえ、両足切断という状態。生きて償うには過酷な人生が男の目の前に広がったいた。
青木の家族、そして被害者の家族のその後もまた、過酷なものだったろう。

酔醒

不倫をする人々は、どんなにきれいな言葉で繕ったとしてもその名の通り倫理に反している。
もちろん、中にはすでに夫婦が崩壊していて「もう別れた方が……」という夫婦もある。有責配偶者からの離婚請求も、諸条件によっては認められることもある。
しかしなぜか彼らはそういった手続きや法にのっとった方法を選ばない。割り切った大人の火遊びならばいいかもしれないが、そう思っているのが片方だけだったら、法片方にしてみればバカにされたと受け止めてもおかしくない。
千葉の愛人殺しの男は「からかい半分」で10年以上いいように遊んできたが、そのツケに対応する術は、持っていなかった。
吾妻の父親の目を覚まさせたのは息子のすべてをかなぐり捨てた抗議だった。伊達の母子殺し、安城市の無理心中では子供が犠牲になった。近江八幡の被害者は誰からも好かれる人だったが、普通の人はそうそう背負わないレベルの怨みを、たった一人からかっていた。

個人的な考えだが、そもそも不倫に耽ってしまう人々はロマンチストで激情型、とにかく現実を見ないタイプが割合として多いわけで、そうなってくると裏切られたり意に反する結末を迎えた時どうなるかはなんとなくわかりそうな気もするが。

責任は自分でとる、そんな男前なことをいくら言おうとも、無関係の人が巻き添えになる可能性もしっかり頭に入れてから耽っていただきたい。

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参考文献

NHKニュース 平成26年10月14日、
朝日新聞 昭和59年8月20日、21日東京朝刊、昭和59年8月23日、昭和60年2月21日東京夕刊、平成11年4月1日東京地方版/群馬、平成26年10月14日、11月13日、平成29年2月9日、2月11日、9月30日大阪地方版/滋賀
北海道新聞 平成9年11月16日、12月28日朝刊、
読売新聞社 平成3年12月7日中部朝刊、平成9年11月17日東京夕刊、平成11年3月31日、6月3日東京朝刊、平成26年10月15日、11月14日、平成27年10月14日大阪朝刊
中日新聞社 昭和63年11月23日、11月24日朝刊、平成9年11月16日朝刊、11月17日夕刊、平成26年10月15日、10月23日、平成27年10月15日、平成29年3月2日、9月26日、28日滋賀版朝刊、

毎日新聞社 平成9年11月17日、12月8日北海道夕刊、平成10年3月24日北海道朝刊、平成29年2月9日大阪朝刊

「あちらにいる鬼」 井上荒野/著
「失楽園」 渡辺淳一/著
「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪/著

🔓悲しみの果て~ある家族の事件~

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事故発生

平成17年6月26日午前2時すぎ、男性は会社のワンボックスカーに乗って東関東自動車道上り線を走行していた。
片側二車線のほぼ直線、深夜で周囲に車もいない。佐原香取インターを成田方面に、約1キロほど走っただろうか。
ふと前方の中央分離帯付近に不自然な車のテールランプが見えた。男性は事故車両の可能性が高いと考え、左車線へ移ろうとハンドルを切った。

その瞬間、前方になにか、いた。

避けることは不可能だった。右車線には約100m先に事故車両、それを避けるために左車線に移ろうとハンドルを切った直後、右の中央分離帯から走行車線上に移動してくるなにかが、いた。

段ボールか?自損事故を起こしていた車両から落ちた荷物が風で煽られ転がり出たのだろうか。そんな風に男性は考えていたという。
それにしては、衝撃が強かった。

ふと、後方から別の車が走ってくるのが見えた。後続車のヘッドライトに照らされた高速道路上には、毛布のような、段ボール片のようなものが散乱していた。
後続車は若干速度を落としながら大きな毛布のようなものを避けたが、いくつかの段ボール片らしきものの上を通った。

胸騒ぎがした。
安全な場所に車を止めてまず自分の車の損傷具合を確認すると、右のバンパーから車体上部にかけて血痕と豆粒上の白いものが多数こびりついていた。
先ほど通り過ぎた車も、前方で停車している。自分がはねたのは段ボールではないのか。後方の高速道路上には、毛布にしては厚みのあるものが風ではためくこともなく、そこにあった。

その毛布のようなものは、男性の、ちぎれてしゃげた上半身だった。

後部座席の妻

駆け付けた警察官らはその現場の惨状に言葉を失った。
高速道路上に散乱した遺体。それは成人と子供のふたり分の遺体だった。
路面には引きずられたのか、赤い絨毯のように血糊がついていた。

中央分離帯に衝突した状態で停車していた乗用車は、助手席側のドアが開いていたという。

車検証などから、車の持ち主は川口市在住の内装業・石川政春さん(仮名/当時32歳)と判明。遺体は、政春さんと息子の政宗ちゃん(当時3歳)とわかった。
事故車両の後方にはチャイルドシートが転がっていたことから、事故のはずみでドアが開き、政宗ちゃんが車外に放り出されたのを政春さんが助けに行った際に、通りがかった車にはねられたとみられた。
幼い息子を何とか助けようと危険を顧みずに高速道路上を70mも走って息子の許へ駆け寄った、その瞬間にはねられた…
2人をはねた運転手の車も、前方の下部が大きく損傷しており、また何かが座り込んでいるように見えたとも話していたことから、自損事故が招いた悲劇、と思われていた。

警察は業務上過失致死の疑いで、後続車両の江戸川区在住の男性(当時66歳)を逮捕した。また、そのあとに通りがかった板橋区在住の会社員の男性(当時33歳)にも二人を轢いた可能性があることから事情を聴いていた。

事態があらぬ方向へ向かったのは、自損事故を起こした政春さんの車を調べていた時だった。
後部座席に、毛布でくるまれた荷物のようなものがあった。衝突の衝撃で、座席からずり落ちるような状態になっていたそれを警察官がめくると、そこには女性の遺体があったのだ。

当初はこの自損事故で死亡した、と思われた。が、後方から激しく追突された形跡もなく、なによりその遺体は毛布に「くるまれて」いたのだ。そしてこれは誰なのか。

すぐさま政春さんの家族らに確認を取ったところ、妻の梨美さん(仮名/当時28歳)と連絡がつかないことが分かった。
そしてその後、後部座席の遺体は梨美さんであると断定された。

事情を知っているであろう政春さんが死亡しているため、梨美さんの死の真相は分からなかったが、死亡解剖の結果梨美さんは事故が起こる2~4日前に死亡しており、かつ、その死因は首を絞められたことによる窒息死と判明した。

【有料部分 目次】
読めぬ動機
支払われなかった保険金と賠償金
チャイルドシートと高速券
悲しみの果てに

🔓殲滅の焔~陸前高田・一家心中事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
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一本の電話

平成18年6月27日、陸前高田市役所に電話があった。
匿名のその電話は女性で、「家庭内にトラブルがある。相談できないだろうか。」という内容だった。
市役所の職員は人権擁護委員を紹介し、実際にその委員が匿名の電話の主と面談。内容は違法性があるものだったようで、大船渡署に伝えられた。

「何かあったら連絡します。」

大船渡署から確認の電話を受けた相談者は、詳しい内容は話さずにそう言って電話を切った。大船渡署も現時点で相談者が介入を望んでいない以上やれるべきことがないと判断し、経過を見守ることで対応を終了した。

その2日後の6月29日未明。
陸前高田の住宅から火の手が上がった。

4人死亡の住宅火災

平成18年6月29日未明、陸前高田市気仙町の住宅から出火、約3時間後に鎮火したものの、木造平屋建ての住宅126平方メートルが全焼。
焼け跡からは3人の遺体が発見された。

火が出たのは、左官業を営む熊野正博さん(仮名/当時56歳)方。正博さんは仕事で関東にいたため難を逃れたが、この家には当時正博さんの妻・瑞穂さん(仮名/当時49歳)、長男・邦彦さん(仮名/当時26歳)、二男・友信さん(仮名/当時23歳)、三男・誠さん(仮名/当時19歳)、長女・泉さん(仮名/当時13歳)、正博さんの母親(当時84歳)の計6人がいた。

邦彦さんは逃げ出して軽いやけどで済み、年老いた正博さんの母親は別棟にいて無事だった。誠さんも救出されたが大やけどを負って意識不明となった。
邦彦さんは調べに対し、「家族間でトラブルがあって、みんなで死のうと、三男の誠が油をまいて火をつけた」と話していた。
搬送時に意識があった誠さんも、救急隊員の「火をつけたのか」という質問に対し、頷いていたという。

誠さんはその後、病院で死亡した。

焼け跡から発見された3人の遺体は、和室にあった。長男の話から、遺体は瑞穂さん、友信さん、泉さんの3人と見られ、その後断定された。

近隣の人らは衝撃を受けていた。3世代の大家族で、子供たちも両親も皆仲が良さそうに見えていたからだ。歳の離れた妹の泉さんも、学校では野球の試合のアナウンスを担当するなど充実した生活を送っていた。

ただ、気になる話はあるにはあった。

火を放ったとされる三男の誠さんは、高校を卒業後一旦は木材工場などで勤務していたというが、4ヶ月ほどで退職。その後は仕事を探してはいるようだったが、無職の状態だった。
無職であっても、庭の草刈りをしたり、特に何か問題を抱えているという様子はなかったと近所の人らは口を揃えた。
母親の瑞穂さんも、道で会えば明るく気さくに話をする人柄で、近所で孤立しているとか、夫婦仲が悪いと言った話もなかった。
市内の別の場所で暮らす実母を気遣い、よく世話をしに通っていたといい、その実母も家族仲が悪いという話はなかったと話した。
ただ、誠さんを含む子供たちの就職のことで悩んでいるといった話はあったようだ。

あの夜、一体何があったのか。

唯一助かった邦彦さんによれば、和室で家族会議をしていた際、誰からともなく「もう、死のう」という話になったのだという。
そして、三男の誠さんが灯油のポリタンクを持ち込み、灯油を自らかぶり床にも撒き散らした後、火を放ったのだと証言した。
火は瞬く間に和室に燃え広がり、誠さんと友信さんと瑞穂さん、そして泉さんを飲み込んだ。邦彦さんも当初は一緒に死ぬつもりだったというが、咄嗟に恐怖心で窓を割って外へ出て助かったのだ。

現場で遺体となって発見された友信さん、瑞穂さん、泉さんには目立った外傷はなかったが、それぞれの体からも灯油の成分が出ていたこと、邦彦さんの証言などから、警察では高齢の祖母と出稼ぎ中の父親を除く家族5人が一家心中を試みたとした。

しかしこの一家を心中に駆り立てたのは一体なんだったのか。

【有料部分 目次】
 玄関先の遺書
 長男の事情
 取り立て
 裁判
 焔の正体