🔓Motherly Love~今市市・主婦協力殺人事件~

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平成9年夏

栃木県今市市(現・日光市)。
雨が降りしきるその夜、家のガレージ前で佇む女がいた。
通りがかった近所の人が不審に思い、声をかける。
「どうしたの?こんな雨の夜に…」
「夫がまた暴れてるの。落ち着くまでここにいようと思って」
ああ、またか。この家の夫は家族、特に妻に対して暴力を振るうと聞く。かわいそうに。
お大事にね、そう言うしかない近所の人に女も力なく笑った。

特集:こどものじけんぼ

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まえがき

現在、少年法では14歳未満の者は刑罰を受けない。刑事責任能力のある年齢に達していないからであるが、11歳以上になると少年院送致が可能となる。
したがって、「子どものしたことだから」が通用するのは10歳以下、となる。

14歳以上18歳未満の者は、死刑を科すべきときは無期刑にしなければならないため実質18歳未満のものへの死刑執行は有り得ない。
無期刑を科すべきときは、成人同様に処罰も可能だし、10年以上20年以下の有期刑にすることもできる。

18歳、19歳の場合はご存じの通り死刑、無期懲役は有り得る。

昭和49年生まれの私が少年事件で思い起こすのは、なんといっても、綾瀬の女子高生監禁殺人(コンクリ事件)である。
しかしその後、神戸の連続児童殺傷事件が起き、犯人が14歳の少年だったことは理解の範疇を超えた。

ただ、インターネットが普及し、いろいろな事件を調べていくうちに度肝を抜かれた14歳~15歳の殺人者は過去にも山ほどいたこと、もっと年少者が起こした事件もあることを知る。
ようは、少年事件だから埋もれていただけだった。

前回、仰げば尊しスペシャルで少年(18歳以下)事件をいくつか取り上げたが、今回は中学生以下に限定して、こどものじけんとしてお届けしたい。

兄弟の事件

福岡県那珂川町。
冬の夕暮れ時、各家庭からはそろそろ夕餉の支度にとりかかる時間。
コンビニの店長は、深くため息をついた。
「あんまり飲まないほうがいいよ」
常連客の女は、赤ら顔ですでに酔っていたが、またカップの焼酎を1本だけ買って、店長に微笑むと店を出ていった。

その数時間後、女は自宅で命を落とした。

自宅にて

那珂川町のマンションから、「母親がぐったりしている」と春日大野城中川消防本部に119番通報が入ったのは平成12217日の午後5時半ころだった。
救急隊が駆け付けると、部屋で母親とみられる女性が吐血し、倒れていたという。母親は病院に搬送された際すでに心肺停止となっており、その後死亡が確認された。

亡くなったのはこの部屋で暮らしていた山中優子さん(仮名/当時49歳)。優子さんは14歳と13歳の息子、10歳の娘との4人暮らしだった。
救急隊が優子さんを搬送する際、玄関の前で長男は呆然と立ち尽くし、傍らでは次男が泣きじゃくっていたという。

その後の調べで、長男と次男が母親に暴行を働いたことが判明、筑紫野署は傷害致死容疑で長男を緊急逮捕、次男を補導した。

優子さんの死因は、胸部圧迫による呼吸不全と見られた。

事件の一報を聞いた学校関係者らは衝撃とともに、無念の思いを抱かずにいられなかった。
この家族の苦しい状況は、ずっと前から学校関係者や行政、民生委員など多くの人がかかわって知っていたのだ。

母親とも、子どもたちともずっと連携を取っていた。にもかかわらず起きた最悪の事態だった。

酒浸りの母

優子さんは夫と離婚後、子供たち3人を引き取り生活保護を受けて暮らしていた。
しかしアルコール依存の問題を抱えていた優子さんは、生活保護費を酒に費やし、さらには日々の子供たちの世話も徐々に放棄するようになっていた。

学校が一家の問題を把握したのは昨年の6月。
中学校に、優子さんから「次男に暴力を振るわれる」という相談があった。
担任や校長らが話を聞くと、次男は母親に暴力を振るったことを認めたという。しかし、その理由として、優子さんが酒に溺れ、食事すら作らないという事実が発覚、学校側もまず優子さんに対し、母親としての役割を果たすように諭した。
そのうえで、次男に対しても「お母さんのお酒のことはみんなでやめさせるよう努力するから、もう暴力はいけないよ」と話し、次男も素直に納得したという。

その後も、弁当が必要な学校であるにもかかわらず、毎日学食でパンを買う兄弟を担任は見ており、この担任は何度も家庭訪問しては優子さんを励まし、県福祉事務所、児童相談所にも相談していた。
実際、2週間後を目途に優子さんをアルコール依存治療も含め入院させる手はずも整っており、あとはその日をいつにするか決めるだけだったという。

優子さんが夫と離婚したのは昨年の3月。わずか1年の間にみるみる崩壊していったこの家庭には、厳しい試練がのしかかっていた。

試練の日々

事件後、この家を取材した西日本新聞社によると、外から見てもこの家の凄まじい日常が垣間見えたという。
家の裏手には焼酎、日本酒の空き瓶が無造作に転がり、台所のテーブルにはカレーを食べたとみられる器が汚れたまま積み重なっていた。
窓ガラスはあちこちが割れ、北風が吹きつけるたびに音を立てたという。茶の間とみられる場所には、洗っているのか汚れているのかすらわからない衣類が散らばり、布団や毛布もそのままだった。

この荒んだ家を、10歳の妹は飛び出した。家出を繰り返すようになったことから、児童相談所で保護されていて、事件当時も家にはいなかった。

一家はちょうどその娘が生まれた10年ほど前にこの場所へ越してきた。父親が働く型枠工事の会社に、母親の優子さんも一緒にパートで勤務していたという。
小さな子供を抱え、共働きでやっとという生活だったというが、家庭は円満、子どもたちの友達を招いて食事をすることもあった。

ところが平成10年ころ、突如歯車が狂いだす。

父親がなんと自宅の前で車に撥ねられてしまったのだ。重傷を負った父親は入院、しかも、足には後遺症が残った。
当初は保険金などでなんとかなったが、その間に父親の勤務していた会社は倒産してしまう。優子さんも職を失った。

自暴自棄になった父親は昼間から酒を飲まずにいられなくなった。年齢や後遺症のこともあって、仕事が見つかる可能性は低く、それもあって職探しの意欲も失われていた。
当初は励ましていた優子さんも、現実を見たときにふと虚しさに囚われたのだろう、自身も酒に逃げ場を求めるようになってしまった。

父親は平成11年の春に家を出、そのまま離婚となった。

優子さんは子供たちを引き取り、月24万円の生活保護費を受け取っていた。
24万円と言えば、親子4人ある程度の生活は出来ると思えるが、この頃優子さんが飲む酒の量は尋常ではない状態になっており、生活保護費の多くも酒代に消えていた。

兄弟

年子の兄弟は、妹をかわいがっていた。その妹が、施設で暮らすようになってからも、何度も電話をかけては妹を気遣っていたという。
ただ、面会は保護者同伴でなければできず、そのために兄弟は母親の優子さんに対し、一緒に妹のところへ行こうと、何度も何度も働きかけていた。

事件当日も、兄弟が学校から帰ったら、妹に会いに行くことになっていた。
しかし兄が帰宅すると、優子さんはすでに泥酔状態。それでも、弟とともに優子さんを連れ出し、施設へと向かったという。

「おなか痛い」

突然、優子さんはお腹を押さえてうずくまった。優子さんが体調不良を訴えたことで、この日妹との面会は叶わなかった。
しかたなく帰宅した3人だったが、夕飯時にもかかわらず優子さんが食事の支度にとりかかる気配はない。
業を煮やした長男が、「酒ばかり飲まんで、ご飯作ってくれ」と言ったところ、優子さんが「からだがきついけん、作りきらん」と返した。しかし口論となり、そのうち優子さんが激怒。
「お前たちは何か!!」
と兄弟に食って掛かった。

そして子供たちに殴られた。優子さんは「わかった」といい、台所に立ったが、直後に血を吐いて昏倒した。この時、裕子さんの肺は致命的な損傷を受けていたという。

学校や関係者らは、入院を急がなかったことを悔やんだ。事件を知った有識者らも、こぞって「孤立した家族」「不安と寂しさから酒に逃げた母を救えなかった」「社会の無理解」などと書き立てた。

こどもになったおかあさん

確かに、入院を急いでいれば事件はこの日は起こっていなかったかもしれない。
しかし、入院を拒んだのは優子さんではなく、次男だった。
優子さんに暴力を振るっていたのも次男だったが、入院を急ぐ関係者に対し、「今、家で薬飲んでるから、入院はもうちょっと待って」と頼んでいたのも次男だった。

別れた夫も、気にかけていないわけではなかった。
今も入院中という夫は、子どもたちのことも、優子さんのことも気にはかけていた。
兄弟は別れて暮らす父親を見舞い、事件の一週間前にも会っていた。
優子さんが家事も育児もしていないことを、子どもたちから聞いていた。自身も職にありつけず、入院中の身とあって、子どもたちに何もしてやれないと歯がゆい思いを抱きながら、せめて、と、一万円を手渡した。

近隣の人らも、皆がこの家族に無関心だったわけではない。
優子さんが行きつけにしていたコンビニの店長は、優子さんが来るたびに世間話をし、時には諭すようなことも言っていた。
次男に殴られる、と話す優子さんに対し、「酒ば飲むけんたい」と叱った。優子さんも苦笑いを浮かべて、「それはわかってるんだけど」と答えた。

長男は静かでまじめな子だったといい、活発な次男とは対照的な印象だった。
コンビニでは、長男が優子さんに対して
「お母さん、もう酒はやめて!」
と懇願する姿が何度も見られていた。

あの日、最初に母を殴ったのは長男だった。物静かで、弟や妹を守って、母までも守ってきた14歳の長男が、この日は手を挙げた。
優子さんは驚いたのではないか。同時に、長男の心の傷の深さも、優子さんはこのときはっきりと気付いたようにも思う。
しかし、遅かった。

次男は病院で母が死んだことを告げられると泣き崩れた。酒を飲んでないときの母を、次男は大好きだったと話した。それは、長男も同じだったろう。

優子さん自身も、酒が入っていないときは自己嫌悪に嘆き、なんどもなんども立ち直ろうとしていた。だからこそ、家庭訪問も拒まず、ケースワーカーとの面談や行政の立ち入りにも心を打ち明けている。
「なんとか高校に進学させたい」
優子さんの思いを、ケースワーカーは何度も聞いていた。

事件が起こる20日前、長女が保護されている福祉施設を、優子さんは訪ねていた。
しかし泥酔に近い状態だったという優子さんが差し出した、「一緒に帰ろう」という手を、娘は無言で払いのけたという。

この時、優子さんは自ら入院を申し出る。娘の無言の抗議がよほど堪えたとみえた。
さっそく準備が整えられたが、二日後、優子さんから入院を拒否する電話がかかってきた。
優子さんの我が儘というより、おそらくこの時、次男が優子さんの入院に難色を示した可能性が強い。
ご飯も作ってもらえず、家も荒れ放題、妹は愛想をつかして家出したこの母親であっても、兄弟にとっては守るべき大切な人だったのだろう。

長男は逮捕後、「立ち直ってほしいという、体罰のつもりだった」と話した。

母はいつからか、子どもになってしまっていた。

兄弟はその後、自立支援施設への入所が決まった。

友達同士の事件

「このまま待ってて」
そういわれたタクシーの運転手は、今しがた降りた客が団地へ向かうのを横目で追った。
場所は浦和市の市営住宅。金を持たずにタクシーに乗って、家族に払ってもらうというのはままあることだが、そのまま払わずに逃げる客もいる。
が、この客は年寄りと孫、といったところか。家に財布でも忘れてきたのか。

しばらくして、先ほどの子供たちが戻ってきた、が、様子がおかしい。
運転手が外に出ると、子どもは泣いていた。
「おじいちゃんの様子がおかしい、見てほしい」

市営住宅にて

平成10217日。浦和市辻八の市営住宅「辻水深団地」の無職、吉田起己(たつみ)さん(当時69歳)方で、吉田さん方を訪れたタクシー運転手が室内で倒れている吉田さんを発見、119番通報した。
救急隊が駆け付けたが、すでに死亡していた。

吉田さんの顔などには暴行された跡があったことから、浦和署員がその場にいてタクシー運転手に助けを求めた14歳と15歳の市内の女子中学生に事情を聞いたところ、ふたりが暴行したと供述したため、同日夜、ふたりを傷害致死容疑で逮捕した。

ふたりは市内の同じ小学校を卒業した友達同士で、現在中学3年生だった。

吉田さんの死因は、肋骨骨折による肺の損傷と判明。少女らは吉田さんに殴る蹴るの暴行を働いたといったが、それとも合致するものだった。

タクシー運転手はその日のことをこう話した。

「団地の吉田さんに呼ばれて、吉田さんと子供たちをタクシーで銀行へ送った。その後、再び団地に戻った直後に、吉田さんの様子がおかしいと聞かされた」

女子中学生らは、警察の調べに対し、
「吉田さんに貸していた金をなかなか返してくれず、腹が立って蹴ってしまった。」
と答えていた。

ひとり暮らしの老人が、女子中学生に金を借りているという理解しがたい構図だったが、この3人に一体何があったのか。

先に結論から言うと、お金を貸していたというのは嘘だった。逆にふたりは、吉田さんから金を奪っていたのだ。

惹き合う孤独

吉田さんは独身で、長いこと警備員などの仕事を転々としていた。若干知的障害があったといい、親しい友人もいなかった。
そんな吉田さんが唯一、相手にしてもらえるのは子どもたちだったという。

一方の女子中学生はどうだったか。
ふたりとも市内の私立高校に合格しており、ひとりはこの後本命の公立高校の入試が控えていたという。ここでは15歳の少女を彩海、14歳の少女を梨奈と呼ぼう。

彩海は銀行員の父がいる家庭で育ち、特にこれまで目立った問題もなかったために彼女が通う中学では大騒ぎになった。

梨奈については、いささか印象が違う。そもそも梨奈が小学生の頃から吉田さんと知り合いで、その後、友人の彩海も梨奈と一緒に吉田さんと関わるようになったのだという。
梨奈の家庭環境はあまりよくなかったようで、中学校でも「浮いた存在」だった。両親は梨奈を放置していたといい、コミュニケーションは全く取れていなかった。
そのため、寂しい思いを抱えた梨奈は外に温もりを求めるようになり、無断外泊やいわゆる非行グループとの交際もあったようだ。

吉田さんの存在は、梨奈と彩海が小学校の頃から有名だった。
吉田さんは団地や公園で子供たちに声をかけ、話し相手になってもらっていたというが、その子どもたちとの関係にはいつしか「お金」が介在するようになる。
子供たちの間で、漫画を買い取ってくれるおじさんがいる、そんな話が聞かれるようになった。
梨奈も、吉田さんに漫画や雑誌を買い取ってもらったり、時にはお小遣いをもらうこともあった。

家にいたくない梨奈が外で時間を過ごすには当然、金が要る。言い方を考えずに言うと、梨奈は「味を占めた」。
公園で会うだけだった吉田さん方へ梨奈と彩海が出入りするようになるのは、中学2年の頃だった。

年金

吉田さんには2か月に1度、15日に27万円の年金が支給されていた。吉田さんは必要な金額を通帳から降ろし、自宅の箪笥の中などに保管していたようだったが、家に出入りするようになった梨奈はある時その金を見つけた。

年金の仕組みを知らない梨奈は、彩海とともに吉田さんのたんすから無断で金を抜いた。そのうち、15日に年金というものが口座に振り込まれることを知り、その15日に合わせて吉田さんに小遣いをせびるようになっていく。

吉田さんも最初は軽い気持ちでいくらかを渡したのだろうが、それはエスカレートし、吉田さんは十数万円を渡すこともあった。
吉田さんの年金があまりに早く減ることを不審に思ったのは、吉田さんの妹だった。
問い詰めても吉田さんの返答は要領を得ないため、妹が年金の管理をし始めた。15日には妹が預かった通帳から口座引き落とし分だけを残してあとは引き出し、必要に応じて吉田さんに渡すことになっていた。

そんなことは知らない梨奈と彩海は、いつものように15日を過ぎた頃に吉田さんを訪ね、小遣いをせびった。
しかし家のどこにも現金はなく、苛立ったふたりは吉田さんを問い詰めた。
銀行に行けばある、と吉田さんが言ったため、ふたりはタクシーを呼び吉田さんとともに銀行へ向かったのだが、カードは妹が持っていたため降ろせなかった。

事件は通帳を取りに家に戻った時に起きた。

「ふざけんじゃねぇ、どこにあるんだよ!」

その日、タクシーを呼び銀行へ回り、再び自宅に戻った時、吉田さんは金を出さなかった。
それに激昂したふたりは、以前にも金を出し渋った吉田さんを蹴ったことを思い出した。
ふたりが吉田さんに殴る蹴るの暴行を加えると、吉田さんはお金を出してきたことがあった。
そこで今回も、同じように吉田さんを蹴った。どちらが先に蹴り始めたのかは、わからなかった。

本当は吉田さんを心配した妹が預金を管理していたために吉田さんの手元にも口座にもお金がなかったわけだが、そんなことを知らない二人は、吉田さんが金を隠していると思い込んでいた。
「ふざけんじゃねぇ、銀行からおろした金はどこにあるんだよ!!」
仰向けに倒れた吉田さんを、厚底ブーツで蹴りあげた。胸や腹を踏みつけられ、吉田さんの肋骨は折れた。

動かなくなった吉田さんを見て、ようやくふたりは我に返り、その事態にパニックになってタクシーの運転手に助けを求めたのだった。
タクシーのメーターは、1万数千円になっていた。

強盗少女

傷害致死で逮捕された彩海と梨奈だったが、浦和地検は310日、容疑を強盗致死に切り替えて浦和家裁へと送った。

ふたりが当初、吉田さんが金を返してくれなかったと話していたことは事実ではなく、実際には吉田さんから金を奪うことが目的の暴行だったと明らかになったからである。

しかもふたりが金を奪ったのは吉田さんだけではなかった。

25日、吉田さんと同じ団地に暮らす68歳の女性に対し、「人に追われている」と助けを求め、その女性宅に入り込んで現金6千円を盗んでいたのだ。
女性が後に被害届を出していて、証言などから彩海と梨奈の犯行と判明した。

吉田さんについても、家に入れてくれないときにはベランダなどを伝って部屋に侵入していたこともわかった。

43日、浦和地裁で個別に開かれた最終審判において、彩海は初等少年院へ、梨奈は医療少年院への装置を言い渡した。
処分決定の理由について、鈴木秀夫裁判官は、
「(彩海は)主体性に乏しく周囲の影響を受けやすいなどの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとし、梨奈については「事件の重大性や情緒不安定などの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとしている。

梨奈の付添人の弁護士は、この事件は「老人(吉田さん)が安易に小遣いを与え続ける『ゆがんだかかわり』という環境に問題があった。少女が不良グループから金を脅し取られていたという事実もある」とし、梨奈は在宅での試験保護観察が適当、と主張した。

梨奈の家庭、両親に受け止める器量があるかどうかはなはだ疑問ではあるが、年齢的に考えても少年院送致は保護処分の中でも一番重いわけで、それを回避したいという思いからの発言だろう。

吉田さんに事件の要因があるかのような言い分はいかがなものかと思う一方で、大きく見た場合、この吉田さんの行為は大人が未成年者を金で買う、その行為と変わりはないようにも思う。
そこに性的な搾取がなかったとしても、金で子供を意のままにする、というのはやはりよくない点であろう。

しかし、小遣いを渡して子供たちの笑顔が見たい、その吉田さんの思いも痛いほどわかる。孫のような年齢の子供たちに、吉田さんは癒されていた。
吉田さんも、終盤は彩海や梨奈の要求を拒むようになっていた。それでもやってきては金を奪い取っていくふたりを、吉田さんは警察に告発することも、妹に訴えることもなかった。

大人になった彩海と梨奈は、吉田さんを思い出すことはあるのだろうか。

11歳の事件

平成13415日午後7時。尼崎北署に、一本の通報が入った。
発信場所は管轄内の交番。交番に警察官がいないときには、警察署につながる電話が交番には置いてある。そこからの電話だった。

「お母さんを、殺した」

電話の主は確かにそう言った。しかも、かなり幼い声の主だった。
駆け付けた尼崎北署の署員は、交番の前にじっと立ち尽くしている男児の姿を確認。
「君が電話くれたんか?」
男児は頷いた。彼は市内の小学校の6年生、11歳だった。

男児は付き添っていた署員に対し、
「お母さん、どないなったんやろ」
と言って涙をこぼした。

マンションにて

414日、男児は自宅で自分自身と向き合っていた。手には包丁。すでに人差し指を試しに切っていた。
もう、死のう。そうは思ったものの、逡巡しているうちに玄関のドアが開いた。

「なにしてるの!!」

戻ってきたのは母親だった。とっさに、男児は包丁を振り回す。母親はそれでも刃物をよけながら、息子に少しずつ近づいていく。

刃物が刺さったのは、偶然だった。

よろめき、倒れこむ母親。呆然とそれを見下ろす男児。
男児はそのあと、交番まで歩いて行った。

男児は保護され、警察で事情を聞かれた。
「転校したのが嫌だった。友達と別れたくなかった」
そう話したという男児は、この4月に尼崎市内の別の小学校から転校してきたばかりだった。
始業式では全校生徒に紹介もされ、新しくできた友達を家に連れてきたこともあったという。

父親は、息子の様子からまったく悩みに気付いておらず、放心状態だった。それでも、保護された息子に対し、「一人で背負うな、ずっと待ってるから」と手紙を書いた。

が、男児は父親との面会を拒否した。

思いあう家族

男児の家庭は表面的に見れば非常に立派な家庭だった。
阪神淡路大震災で被災し、家を失いしばらくは伊丹の仮設住宅での生活を余儀なくされたが、その後尼崎市内の武庫川に近い住宅地に、立派な3階建ての家を再建したという。

母親はきちんとした性格で、伊丹で暮らしていた時ももともと暮らしていた尼崎市内の小学校に入学した男児を、母親は自転車に乗せて送り迎えをしたという。

そんな母親のしつけがよかったのか、男児はあいさつのしっかりできる子に育った。背の高い男児は、少し大人びても見え、子どもたちの間ではリーダー格だった。

そんな家庭に暗雲が立ち込めたのは、事件が起こる一年前の3月。しっかり者の母親を病が襲った。
簡単な病気ではなく、手術も必要なものだったようで、母親の入院、通院も長引いた。
その間も、母親は病床から息子の担任に対し、クラス替えや学校での様子を聞くなど、息子の様子を心配していたという。

平成1210月、ようやく退院にこぎつけたが、体の負担は大きかった。
3階建ての自宅はそんな母にとって生活しづらく、家族は思い切って別のマンションを借りた。
元の家はそのままに、母親の通院や家事の負担を減らすためのことで、男児も一緒に越したものの、学校はそれまでと同じところへ父親が車で送迎した。

家族がそれぞれの事情を抱え、それぞれを思いやって物事を決めている。そしてそのためには、家族は出来る限りの協力をし、親は子供の意思を尊重しており、いわば理想の家族、そんな風にも思えた。

ただ、当初は卒業まで元の小学校へ通う、としていたのを、平成13年の1月になって男児の転校の話が持ち上がった。
あと1年で卒業であり、なんとかこのままこの小学校に通わせられないか、学校側は男児の意向を知っていたこともあって話し合いがもたれたようだが、2月、結局転校することになった。
この時担任が男児を気遣ったところ、男児は
「ええねん、僕もう決めたんや。」
と話したという。

その後行われたお別れ会でも、男児は笑顔だった。

しかしそのわずか1か月後、事件は起こってしまった。

神に救いを求めた母

母は自身の入院中、聖書に触れた。
病気になっても希望を持って生きていきたい、そう考えた母親はキリスト教徒となる。

7か月におよぶ入院生活を終えた後も、母親は継続的な治療が必要だった。マンションへの転居も、その通院に便利という意味もあった。
通院のほかに針治療なども行っていた母親は、性格がそうさせたのか、家事もきちんとこなしていたという。
洗濯物は毎日行い、家の掃除も行き届いていた。
「病気で家が汚れるのは嫌」
そう話したという母親は、しつけにもその几帳面さとともに、少々「やりすぎ」な面も見えた。

心配性な面もあったのか、男児が友達とケンカをしたと聞けば菓子折りを持って飛んで謝りに行き、些細なことでも男児はきつく叱られたという。

自分を奮い立たせ、病気に立ち向かう強い母。
しかしその母は宗教に、神に救いを求めなければいられないほど、実際には弱っていたのか。
それを間近で見ていた男児にとって、母はどんな風に映っていたのか。

そしてその心配性な面が、この事件のとっかかりになっていた。

消し忘れたホットカーペット

突然に、妻と息子の両方を失った父親の嘆きと困惑は想像を絶する。
父には家庭内の問題など、全く見当もつかなかった。なんでも家族で話し合ってきた。母(妻)の病も全力でサポートし、その上で子の環境にも配慮した。意思を尊重したからこそ、元の小学校へ通うための校区外通学申請をし、その送迎も父が担った。
病身の妻も、母としての責務をこなし、病気だからと言って甘えていられないと日々努力していた。
その妻を支えるための、家族で合意の上での引っ越しだった。
息子も納得し、友達を家にも連れてきた。

しかし、事件後の息子の取り調べや、報道などを見れば「転校と引っ越し」が大きな要因となっているというではないか。
父はわからなくなった。さらに、息子は父に会いたくないという。

それでも父は息子に手紙を書いた。

「泣かんでもいい、全部お父さんの責任や。話を聞かせて欲しい。いつまでも待っている」

男児からの返事はなかった。

父は毎日新聞の取材の中で、ある「事件」について話している。

転居した後、尼崎市内の3階建ての家はそのままにしていた。学校が終わった後、その家なら男児は歩いて帰れた。いずれまた戻ってくる家。マンションの賃貸契約期間は、2年だった。
その元の家で、父が迎えに来るまでの時間を男児は過ごしていた。ここなら、放課後友達と遊ぶこともできた。だから、引っ越しも男児は受け入れていた。

しかし、ある時男児がホットカーペットを消し忘れたことがあったという。両親は事故につながるかもしれないと、当初の話とは違って転校に向けた話をし始めた。
手続き上のこともあったのだろうが、それはやけに急がれた。突然の転校の話に、担任は驚き男児に確認する。転校していいのか、と。
男児は納得している、と答えた。

断言してもいい。両親は最初から転校させたかったのだ。それが日々の送迎の負担なのか、真剣に事故を心配したのか、もともと男児をこの家、この地域に置いておきたくなかったのか、理由はなんでもいい。
しかしあと1年ちょっとで卒業できるこの時期に転校、しかも親の都合でとなればさまざまな見方もされるだろう。当の男児も、転校などしたくないのは聞くまでもなかった。

息子を納得させられる理由を見つけることが、理解してもらえるよう話をすることができなかった両親は、おそらくずっと「転校させる正当な理由」を自分ではなく、息子に作らせたかった。
ホットカーペットの消し忘れは確かに危険である。が、その時は何事も起こらなかったし、気になるのであれば迎えに来た際に親が自分の目で確認すればよい話だ。ホットカーペット自体を取り外せばよいだけではないか。なんならブレーカー事落としておけばいい。
なぜ、そういった簡単にすぐ出来る解決策をとらずに「転校」なのか。

男児にしてみれば、自分が消し忘れたことが原因なのだから、と言われ返す言葉もなかったろう。

男児の幼い心は、理不尽さであふれていたのではないか。

会いたくない家族

11歳という、罪に問えない年齢もあって、母親を刺した細かい順序のようなものは報道されなかった。
「おそらく」という前置き付きで、刃物を振り回す男児をなだめようとするうちに、誤って刺さってしまった、というようなものがほとんどだった。
その中で、毎日新聞は「母は子を、全身で受け止めたかったのでしょうか」「最後は包丁ごと男児を抱きしめた」と書いた。

もしそれが本当なら、なぜ男児はどれだけ父が手紙を書いても、待っていると伝えても家族と会うことを拒否し続けたのか。さらに、事件直後県警が児相に通告した際、「すぐ家庭に帰すのは適当でない」という意見を付けたのか。

詳しいことはわからないが、少なくとも両親らの見る男児と、男児本人の心には溝があるように思える。

男児はその後、児童自立支援施設への入所となった。

幼児の事件

最後に取り上げるのは、あまりに有名すぎるものの、古すぎて事実関係がよくわからないことで、広島のガード下サンルーフ事故とともに都市伝説化している、幼児による嬰児殺害事件である。

昭和50818日。鹿児島県出水郡長島町の民家では、家族総出で家業である養蚕のまゆの出荷作業に追われていた。
この日は親せきに不幸があり、この家の主人と妻、17歳の長女はその葬式に行っていて留守だった。ただ、一か月ほど前に大阪で暮らす長男夫婦(ともに二十歳)が、出産のためにこの長島町の実家へ帰省していた。
731日にはかわいい女の子も誕生し、そのまましばらくは夫の実家であるこの不知火海に浮かぶ風光明媚な島で、若夫婦は新しい生活を謳歌していた。

夫は15歳になる妹と、そのまゆの出荷作業をしていたが、午後になって赤ちゃんが寝就いたことから、妻も手伝いにやってきた。
倉庫は母屋から100メートルほど離れていたが、いつでもすぐに帰れることもあり、赤ちゃんを寝かせた八畳間の障子を閉めたうえで、夫婦は出荷作業を急いでいた。

午後4時、妻は赤ちゃんの様子を見に母屋に戻ったが、その時も不審な点はなく、すやすやと良い子で眠っている娘に目を細め、最後の作業を終えるため倉庫へと戻った。

午後4時半。作業を終えた夫婦と末の妹が母屋へ戻った時。目の前に現れた光景に全員が言葉を失った。

さっきまですやすやと寝ていたはずの娘が、庭の物干しの柱に、犬の鎖で縛りつけられていたのだ。
体は前にくの時に折れ、泣き声も上げずぐったりとしていて、真っ白だったガーゼ生地のベビー服は泥や血がこびりついている状況に、母親は半狂乱となった。

あまりの光景に気付かなかったが、その庭には近所の幼い子供らの姿があった。みな、キャッキャキャッキャと奇声をあげている。
全員、隣の家の長男と次男の子供たちだった。
一番小さなよちよち歩きの女の子が何やら手に持っていた。
それは、血塗れの包丁だった。

子供たちは5歳と3歳の男の子、そして2歳の女の子だった。夫婦がなんとか包丁を取り上げたが、子どもたちはケロッとしていたという。
可哀そうに、赤ちゃんはその後町の病院に運ばれたが処置ができず、阿久根市内の病院に運ばれるもそこでも手の施しようがなく、その後運ばれた鹿児島市内の病院でわずか19日の生涯を終えた。

赤ちゃんには足首に深さ3センチの切り傷、頭部や顔面への打撲による痕など、正視に耐えない傷跡が残されていた。死因は、頭部打撲による頭がい骨骨折だった。

状況から、この隣家の子供3人が赤ちゃんを死に至らしめた可能性は高かったが、調べるまでもなく、この3人がやったことは早々に断定された。子供たちは悪びれることも、動揺して泣き叫ぶこともなく、むしろ自慢げに赤ちゃんへの暴行を話して聞かせたのだ。

その日、隣の家に赤ちゃんがいると聞きつけた子供たちは、そっと障子を開けたという。
眠っていた赤ちゃんをしばし眺めた後、3歳の男児が「包丁で切ってみよう」と言い出した。
ほかの二人も同調し、台所から包丁を持ってきたかと思うと、赤ちゃんの足首に突き刺した。
泣きわめく赤ちゃんを、今度は庭の棒きれで叩いた。さらに、バケツに水を汲んできて赤ちゃんに浴びせかけ、その後傍にあったベビーパウダーをまるでおしろいを塗るかのように塗りたくったのだ。
そして、虫の息の赤ちゃんを引きずって庭の物干し台の柱へ縛り付けたのだった。

どうしてこんなひどいことをしたのか、と聞かれたこどもたちは、刑事ドラマの真似をした、と話した。
にしてもあまりに酷い仕打ち。それにはさらにわけがあった。

こどもは隣家の長男と次男の子供たちだったが、特に次男の子供たち(5歳の男の子と2歳の妹)はそれまでにも小動物を殺したり、母親が父親に包丁を向ける場面を目にしたりしていたという。
こどもたちの親も、自分の親に子育てを任せきりのところもあった。
あまりにも小さな集落の隣同士の家で起こった子供がやらかした事件。加害者の子供の家の祖母は、死んで詫びなければと思い詰めるほどで、双方をよく知る住民らはどちらにも同情を寄せたという。

こどもたちは当然罰せられることはなく、事件の翌日から近所の駄菓子屋へ菓子を買いに来るなど、いつも通りだったという。

娘を殺害された夫婦は、悲しみにひたることすら許されず、無邪気そのものの子供たちの嬌声にやり場のない怒りをどうすることもできなかった。

この事件が起きた昭和50年には、4月にも大阪の岸和田で3歳の女児二人が勝手に他人の家に侵入し、寝ていた生後17日の赤ちゃんをままごと遊びの人形にし、殺害したという事件が起きている。
女児らは、2階で寝ていた赤ちゃんの足を持って階段を引きずり下ろし、家の前の路上に転がして遊んでいたという。
近所の人が発見したが、赤ちゃんは頭蓋骨陥没骨折で死亡。全身には擦過傷があった。

3歳や5歳の子供に責任能力はない。誰しも、幼い頃には多少、限度を超えたことをし、親からぶっ叩かれて二度としない、してはいけないと覚えることもある。
オタマジャクシやトンボを何の気なしに殺したことがある、という人は少なくないだろう。私もある。

けれど、それをした後にそこはかとなくこみ上げる不快感、罪悪感も、忘れることはない。そうやって、様々なことを学んでいくのだ。

しかしそこに、不快感や罪悪感ではなく、快感を覚えた場合は。

彼、彼女たちがその後どういった人生を歩んでいるかは知る術はない。

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参考文献

少年事件データベース
少年法

朝日新聞社 平成12218日西部朝刊、315日西部朝刊、45日西部朝刊、平成13421日東京夕刊
読売新聞社 平成10218日朝刊、311日東京朝刊、平成12218日西部夕刊、219日西部朝刊、310日西部夕刊、322日西部朝刊、平成13415日大阪朝刊、416日大阪朝刊、529日大阪朝刊
毎日新聞社 平成12218日西部朝刊、西部夕刊、226日西部夕刊、平成13415日大阪朝刊、418日大阪朝刊、419日大阪朝刊、421日大阪朝刊
熊本日日新聞社 平成12220日朝刊、39日夕刊
西日本新聞社 平成12229日朝刊
日刊スポーツ 平成10218日、219
産経新聞社 平成1032日東京朝刊
四国新聞社 平成13416日朝刊、529日朝刊

「テレビのまねをした」鹿児島5歳・3歳・2歳の隣家嬰児メッタ刺し 新潮45/福田ますみ 著 平成188月号

 

 

🔓嗤う霊能者~酒田市・男性傷害致死死体損壊遺棄事件~

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平成13年9月20日午前4時

秋田県由利郡象潟町の原野で女がひとり佇んでいた。
しばらくすると、女は自分が乗ってきた自動車に火を放ち、立ち去った。

「一緒に死のうと思ったが、死にきれなかった」

後に女はこの時の心境をこう供述している。
女が火を放った自動車には、女が長年連れ添った夫の遺体が載せられていた。

【有料部分 目次】
事件
横山家
狂気
長男の妻と、山形の女霊能者
やるせない結末
思い出の原野

親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~

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昭和62年11月5日

「あれ、奥さんたちどうしたの?」
杉並区下井草の住宅街で、住民が顔見知りの男に声をかけた。
その男はこの辺りでも名の知れた会社の次男坊で、父親である社長と育ての親である内妻、若く美しい妻にかわいらしい娘とともに5人で暮らしていた。この日、いつも姿の見える妻や娘がいなかったことから、住民は軽い気持ちで声をかけた。

「親父らと一緒に秋田の実家へ行ったんですよ。」

男はそう答えると、自宅のほうへ戻っていった。

しかし数日後、この男の家が全焼し、家の中からは家族4人の遺体が発見される。
その遺体の中に、この男は含まれていなかった。さらに、4人にはそれぞれ他殺をうかがわせる証拠が残っていた。

事件

昭和62年11月8日午前4時すぎ、東京都杉並区下井草の三階建てビルから出火、同ビルの一部と敷地内にある無人の木造住宅の一階部分が焼けた。
二時間後に消し止められたが、焼け跡からは大人3人、幼児一人の遺体が見つかった。

荻窪署の調べによると、亡くなっていたのはこのビルと住宅の所有者で会社社長の伊藤正之助さん(当時69歳)、内妻の笠井節さん(当時65歳)、正之助さんの次男の妻・香芳さん(当時27歳)、そして次男夫婦の娘・玲ちゃん(当時2歳)と判明。
さらにその後の調べで、玲ちゃんを除く大人三人には首をひものようなもので絞めた形跡があること、現場に灯油が撒かれていたことなどから殺人、放火事件と断定、警視庁捜査一課が特捜本部を設置した。

正之助さん方は三階建てのビルで、1階で正之助さんと節さんが暮らし、2階の一部と3階をマンションにしており、次男夫婦は2階のマンションの一室で暮らしていたという。

捜査本部では自宅にいない次男の行方を探したものの、車もなく、その行方が分からないままだったが、冒頭の通り、5日には家族で秋田に行っている、と近隣住民に話していたことがわかった。しかし、その事実はなかったこと、次男が7日の夕方近所のガソリンスタンドで灯油18リットルを購入していたこと、出火はしなかったが次男の部屋にも灯油が撒かれていたことなどを併せて、この次男が何らかの関与をしているとみて次男の行方を追った。

さらに、正之助さんの銀行口座から現金1300万円が引き出されていたことも判明。部外者が押し入った形跡もなく、そもそも正之助さんの印鑑や預金通帳を持ち出すことは他人にはできない事から、やはりこの次男の関与が濃厚となった。

捜査本部は次男が多額の現金をもとに長期逃亡を視野に入れている可能性を考え、車のナンバー、人相、着衣などを全国に指名手配し、殺人容疑で逮捕状を取った。

その後の展開は早かった。
事件発覚の翌日、次男は宮城県仙台市内の東北自動車道・仙台南インターに進入しようとしたところで、たまたま行われていた宮城県警の一斉検問に引っ掛かり、免許証不携帯だったために身分照会をされた。
この時点では宮城県警は事件との関連に気付いていなかったが、車のナンバープレートが折り曲げられていたり、そもそもたかが免許証不携帯のわりに顔面蒼白で狼狽える男の様子が気にかかり、何か隠しているのではと追及。当初、本名だけを名乗っていたという次男は、その後「東京で家族4人を殺した」と自供したため、駆け付けた警視庁の捜査員によって逮捕された。

逮捕されたのは正之助さんの次男で、殺害された香芳さんの夫である伊藤竜(当時29歳)。
調べに対し、香芳さんとの間で娘の教育方針をめぐりたびたび衝突しており、激高して妻の首を絞め殺害してしまったと話した。玲ちゃんについては、母親を亡くして父親が殺人犯となればあまりに不憫だと思って殺害、正之助さんについては、事件を起こしたことを相談したものの、冷たくあしらわれたことで逆上し殺害し、節さんについては「ヤケになって殺した」と話した。

検察は11月29日、殺人、非現住建造物放火、死体損壊の罪で竜を起訴した。
当初は上記のように夫婦喧嘩、親子喧嘩の挙句の殺人と見られていたが、実際には、生々しい夫婦、親子間の情の縺れがあったことがわかっていた。

それまで

殺害された正之助さんは、秋田県の出身。高等小学校を卒業後、終戦までは旧満州で憲兵隊として任務に就き、昭和22年ころに日本に引き揚げた。
その後は埼玉県内で不動産関係の仕事をし、昭和33年に「矢留建築」を設立した。昭和45年には株式会社へと組織変更し、5階建ての自社ビルを建設した。
現場となった自宅マンションビルのほか、下井草駅近くにも4階建てマンションを所有し、仕事では農地売買なども手掛け、順調な経営状態だったという。

借金はなく、下請け業者らへの金払いも良く、その仕事ぶりは非常に手堅いと評判だった。

一方で、その家庭はというと、少々問題があったようだ。

正之助さんには、竜のほかに長男もおり、当然その子らの母親である妻もいた。
しかしこの妻は、子供たちに手を上げたり、家事を疎かにすることが度々あったことで、次第に夫婦仲は冷え込んでいった。
昭和41年ころまでには、正之助さんもよそに愛人(殺害された節さん)を作り、それらが原因となって正之助さん夫婦は別居することとなった。長男は母親とともにそれまでの住居で暮らし、竜と正之助さん、そして愛人だった節さんと3人で昭和45年5月、事件現場となった階建てビルに転居し、新しい暮らしを始めたのだ。

当時竜は中学生で、都内の大学付属の中学校で学んでいた。竜にしてみれば、父親とその愛人との生活は辛かったのではないかと思うのだが、竜にしてみれば実母から愛情をかけられた経験が少なく、竜自身も実母への執着がなかったことに加え、我が子のように親身に接してくれる節さんのことをむしろ「母親」と思うようになり、「おふくろ」と呼んで慕っていた。

父、正之助さんとの関係はどうだったか。

父親として、正之助さんは常々、
「友人は会社に役立つ人間を選べ」
と口にしていた。しかし竜はまだ中学生であり、損得勘定で人間関係を構築するようなことは難しかった。
それでも父の教えを実践するうち、友人は減り、その生活は空虚なものとなっていた。
さらに不幸な出来事がそれに追い打ちをかける。
昭和46年、実兄が交通事故でこの世を去ってしまったのだ。
長男を後継者にと考えていた父は落胆したが、すぐに竜を後継者に育てるべく動き始め、高校卒業後は建設を学べる大学へと進学した。
しかし正之助さんは実務も行うよう強い、大学在学中でありながら半ば強制的に矢留建築に入社させた。
結果、学業についていけなくなった竜は、退学せざるを得なくなってしまった。

正之助さんのもとで修業を始めた竜だったが、その働きぶりは頼りなかったという。
仕事ができる人間を重宝する主義だった正之助さんは、実子であっても竜に容赦はなかった。大正生まれ、職人気質の正之助さんからは時に理不尽な𠮟責も飛んだ。
それでも竜は、正之助さんの性格や生き方を理解している自負もあり、従順な態度で日々仕事をこなしていたという。

昭和58年、節さんがとある見合いの話を竜に持ち掛けてきた。節さんの知人の紹介だったという見合いで、竜はその女性に一目ぼれした。それが、香芳さんだった。
香芳さんは化粧品販売会社の店員だったというが、実は当時、交際している男性がいた。
しかし年齢的なことも考え、昭和59年に竜との結婚を決意、2月27日には挙式した。
新婚旅行から戻った若い夫婦は、自宅マンションをあてがわれてそこで新婚生活を始める。
すぐに香芳さんの妊娠が判明し、幸せが怒涛のように押し寄せていた……と思っていなかったのが、竜だった。

不可解な「受胎」

昭和59年3月28日、香芳さんから妊娠の事実を告げられた竜は困惑する。
出産予定日は11月中旬といって喜ぶ香芳さんを横目に、竜は疑問を抱いていた。

竜と香芳さんは2月27日に挙式後、数日かけて九州地方をめぐる新婚旅行に行っていた。
その時の、と思えば計算上おかしくはない気もするが、実はその時期、性的関係を持っていなかったのだ。
新婚旅行中はもちろん、東京に戻って以降も疲労やお祝いなどで飲酒が続き、実際に香芳さんと初めて性的な関係を持ったのは3月も終わりの20日頃だったと竜は記憶していた。

それが、なぜ一週間後に妊娠判明なのか。

ただ香芳さんが積極的にその週数の数え方などを竜にレクチャーし、竜もなんとなく矛盾を感じなかったため、その話はうやむやになったものの、竜の心にはしこりとして残っていた。

6月、産婦人科へ通うために中野区の実家へ戻っていた時、不審な電話を竜は自宅で受けた。
それは若い男の声で、ただ香芳さんの在宅の有無を確認するだけのものだったという。
中野の実家を訪ねた際、何気なくその話をしたところ、香芳さんの実母が
「あら、それはAくんじゃないの?」
と言った。Aくん?誰だそれ、と竜が訝しんでいると、それを聞いた香芳さんが慌てて実母を制止した。
その行動に引っ掛かるものを感じた竜は、自宅へ戻って香芳さんの私物を探ってみた。すると、まさにAと同姓同名の差出人からの「手紙」を発見したのだ。
しかもその内容は、ラブホテルへの誘いだった。

仰天した竜だったが、その手紙が出された時期がわからず、もしかしたら自分と結婚する前の話かもしれないと思い直し、それを見つけたことなどを含め、香芳さんには黙っていた。

竜の心の燻りは消えることはなかったものの、同年11月、予定通りに香芳さんは女児を出産、玲ちゃんと名付けられた。

玲ちゃん出産後は、周囲の皆が大喜びし、さらには玲ちゃんが竜とよく似ているなどといわれたことから、竜の中での不信感はなりを潜めていた。
竜も、あまりにも我が子が愛おしく、このような幸せを運んでくれた香芳さんに対してもいっそうその情愛を深め、一家はどんどん幸せになっていく、そう誰もが思っていた。

強烈な捨て台詞

玲ちゃんが一歳になったころ、竜は香芳さんのある変化に気付いた。
香芳さんが外出する際の服装や化粧の仕方がなんとなく派手になったように思えたのだ。

しかし香芳さんを愛していた竜は、直接問いただすことなど出来ず、香芳さんの外出先を探って男と密会しているのではないかなどと思い悩むようになった。
ただ、実際に香芳さんの外出先や行動、帰宅時間などを考えた時、男と浮気を楽しむような時間的余裕が見当たらないことから、思い過ごしだと自分を納得させつつ、それでも心にはずっとAのことがわだかまりとして残ったままだった。

昭和61年に入り、竜は任された仕事が思うように運ばず、苛立ちを募らせていた。
しかも、今回の施主は香芳さんの叔父であり、その叔父から工事内容にクレームをつけられるという事態が起きていて、日ごろから香芳さんの実家や親族らに対し思うところがあった竜は、自宅で香芳さんと口論になってしまう。

きっかけは、玲ちゃんに対する教育方針の違いだった。

竜は子供らしくのびのび育てたいと思っていたが、香芳さんは早期教育をすることを望んでいた。
意見はかみ合わず、次第にヒートアップしていく中で、話は玲ちゃんを中野の実家が独占している、というものへ発展した。
どうやら香芳さんは、実家にばかり玲ちゃんを連れて行き、同じビルで暮らしている正之助さんや節さんにあまり玲ちゃんを遊ばせようとしていなかったように思われた。竜はそれを香芳さんに問いただすと、香芳さんは途端にむくれ、口を利かなくなってしまった。

しばらくして、冷静さを取り戻した竜が、仲直りをしようと香芳さんのいる寝室へと向かうと、突然、
「竜ちゃんは、いつもお父さんやお母さんのことばかりで私のことなんか何にも考えてない」
と責められた。驚いた竜が売り言葉に買い言葉で、
「それなら子供を置いてお前だけ実家に帰れ!」
というと、香芳さんの口から驚愕の捨て台詞が飛び出した。

「この子はあんたの血なんか入ってない。私の子供なんだから、私が連れて帰る。わかってるでしょう、Aくんの子よ。」

香芳さんの性格はわからないが、これは絶対に口にしてはいけない言葉だった。いや、そうでもしなければ玲ちゃんを取られてしまうと恐れてのことだろうとは思うが、それでもこれは、相手を完膚なきまでに叩きのめす言葉である一方で、相手を見境を無くすほどに激昂させるには十分すぎる言葉でもあるのだ。

竜は、後者だった。

追い討ち

香芳さんの首を絞めて殺害した後、竜はその傍らで眠る愛娘の顔を見た。
自分の娘と信じて愛しんできた。今日この日までは。
何も知らずに安心しきった表情ですやすやと眠る玲ちゃんを見ても、もはや竜の心は憎しみしか浮かばなかった。

玲ちゃんを殺害後、竜は途方に暮れていた。しかしもう時を戻すことなど、出来ない。
心が決まらぬまま一日を終え、竜は自首する気持ちを固めていた。ただ、これまで自分を見守ってくれた父と節さんだけには、きちんと報告したうえで送り出してもらおう、そう考えて、4日夜7時半ころ、1階の正之助さん宅を訪れ、事の次第を説明した。

「香芳と玲を殺してしまった。何の親孝行もできずすみません。二人の遺体の供養をお願いします。これから自首します。」

そこで正之助さんから出た言葉は、打ちひしがれる竜をさらに奈落の底へ突き落すに等しいものだった。

「お前はやっぱりあの女の子なんだなぁ。お前など、俺の子でもなんでもないから、孝行されんとも何とも思わん。」

竜は意味が分からなかった。俺の子でもなんでもない?とは?パニックに陥る竜を、正之助さんは別の部屋へ連れて行き、そこにあった古いスナップ写真を見せられた。そこには、懐かしい実母の若かりし頃の姿があり、傍らには正之助さんではない男性の姿があった。

続けて、メモを書きつけたものも見せられ、実母が浮気をしていたことや、竜を妊娠したとされる頃は実母と関係を持っていなかったことなどを告げられた。
正之助さんは、竜が自分の子でないことを知りつつも、実の子である長男が動揺するのを恐れて知らん顔をしてきたのだと話したのだ。

自分は騙されていたのか?実の父だと思っていたからこそ、理不尽な思いにも耐え、会社を継ぐために努力してきたのはいったい何だったんだ。竜の心の中にはそれまでの不満や我慢が一斉に吹き出していた。

次の瞬間、竜は室内にあった果物ナイフを手に取ると、正之助さんの左胸を一突きし、正之助さんが倒れこんだところを浴衣の紐で首を絞めて殺害した。
正之助さんが絶命したことを確認すると、節さんのことを思い出した。
愛人とはいえ、長年母のように接してくれた節さん。しかし今の竜には、節さんへの感謝も愛情も消え失せ、正之助さんと一緒になって自分を騙してきた難い相手でしかなかった。

2階にいた節さんを見つけると、背後から先ほどの浴衣のひもを首にまわし、そのまま絞めて節さんも殺害。
4人の遺体を正之助さんの寝室へ集めるた。

その後、7日までの間、正之助さんらの姿が見えないことを不審がる従業員らに取り繕っているうち、家を燃やしてしまえば証拠もなくなると考え、敷地内で誰も使用していなかった木造住宅に灯油をまき、さらには正之助さんらの遺体のある寝室にも灯油をまいたうえ、火をつけたのだった。

そして、正之助さんの預金を引き出し、逃走した。

この事件では、当初から竜について以下のような話が報道されていた。

竜はその年の4月に、交通事故を起こしていた。
乗用車で工事現場へ向かう途中、飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切り、土手下に車ごと転落するという大事故だった。
命に別状はなかったものの、その事故で竜は一時的な記憶を失ってしまったという。
事故後、竜を診断した東京女子医大病院によれば、逆行性健忘症とのことだった。

その後も、記憶がおかしくなったり自分の名前を言えなくなるなど、症状は時折出ていたといい、事件直前の1日も、杉並区内を一人でふらついているのを警察官に保護されるということもあった。

正之助さんも、周囲の人らに「竜はもう元に戻らないかもしれない」と涙ながらに話すことがあったという。仕事にもかなり支障をきたしていた。

東京大学病院精神神経科の平井富雄医長(当時)によれば、逆行性健忘症の場合、数日で記憶が戻ることが普通だが、再発を繰り返していることを考えれば心因性のストレスが事故を契機に記憶喪失という形で表れたと解釈できる、と読売新聞の取材に答えている。
また、心因性の記憶喪失の場合、感情的な爆発が起こり、突如暴れだすということもあるが、当の本人はその行動を覚えていないケースも多いという。

警察ではそれらの事情を踏まえ、当初は竜に対して精神鑑定も考えていたが、逮捕後の供述ははっきりしていたことや、他の証拠類との相違もなかったことから、検察も起訴に際し責任能力に問題はないと考えていた。

一方弁護側は、「通常人の理解を越えた事件で、当時、被告は心神喪失か心神耗弱状態にあった」と主張した。

検察は死刑を求刑、弁護側は上記を理由に無罪もしくは減刑を求めた。
裁判の中で、ひとつの事実が明らかとなる。
竜の逆行性健忘症は、詐病だったのだ。

竜は事故を起こしたころ、仕事に行き詰っていた。先にも述べたが、当時担当していた現場は妻の香芳さんの叔父が施主で、たびたび工事内容にクレームが来ていたという。
昭和61年3月、やけになった竜は、その自分が担当している工事現場に放火。一度では飽き足らず二度も放火し、ボヤ騒ぎを起こした。
当然、警察の捜査が行われるわけだが、その直後、先述の自動車事故を起こす。竜はそれを理由に、記憶喪失を装っていたのだ。

さらに、東京都から受けるはずの融資がうまくいかないことを正之助さんに叱責された際は、たまたま公衆トイレで転倒したことを理由に、またもや記憶喪失を装って仕事がうまくいかないことを取り繕うなどしていた。

こうなると、そもそもその自動車事故も何だったのか疑わしいではないか。
もっというと、やけになって後先考えず行動し、その方法が「放火」というのは、竜にとって家族殺害の時が初めてではなかったというわけだ。
そして、自己保身のために壮大な嘘をつくことを厭わなかった。

となると、はたして事件当夜、夫婦間で交わされた言葉、親子間で交わされたあの非情なやりとりは、本当のことなのだろうか?

真実の行方

裁判所は、竜が面倒なことにぶち当たると逃避行動をとること、その逃避行動の内容が理解可能なものであることなどから精神障害については退けた。
一方で、被害者らのあまりに無慈悲な言葉が事件を引き起こした要因の一つであることは認め、竜に対する酌量に値するとした。

さらに、正之助さんの遺産から数千万円を香芳さんと節さんの遺族にそれぞれ支払っている(竜本人ではなく、おそらく正之助さんの親族が支払ったと思われる)ことで示談が成立していること、それぞれの遺族が極刑を望んでいないこと、とりわけ、香芳さんの両親からは、
「被告人の家庭環境や生育歴を考えると、被告人も被害者であり、現在では被告人を宥恕(ゆうじょ=許す)しているので、寛大な判決を求める」
との申し出もあった。

竜の実母、正之助さんの兄をはじめ、親類、従業員、下請け業者らも多数が竜の更生に尽力することを約束していた。

ここまで言われてしまうと、もはや結果は見えている。

昭和63年3月18日、東京地方裁判所の島田仁郎裁判長は、竜に無期懲役の判決を言い渡した。
遺族のほとんどが竜を許し、同情まで寄せたことが死刑回避の大きな理由になったのは間違いないだろう。精神状態に問題がない以上、これ以上の減刑は求められないであろうし、被害者のうち節さんと玲ちゃんには一片の落ち度もないわけで、その二人を殺しただけでも死刑であってもおかしくないのだから、竜にとってはありがたい判決だった。

検察は量刑不当で控訴したが、その後確定した。

玲ちゃん、正之助さんとの竜の関係については、超有名サイト「無限回廊」によると、

事件後、血液型を調べた結果、R(竜)が正之助の実の子であることが法医学的に確認されている  ※()内は事件備忘録の補足

となっている、が、判決文の時点では言及はない。当時の新聞報道でもそこまで踏み込んだものは見当たらなかった。血液型だけではなかなか鑑定できない気もするのと、当時の親子鑑定のレベルで、焼損した遺体の血液でどこまでできるのかちょっと不明なため、この事件備忘録では断定は避けたい。
玲ちゃんについては、判決文の中で「被告人の子ではないとまでは認められない」としている。

ただ、いつもこういう事件で思うのだが、客観的な証拠が乏しい中での被告人と被害者しか知らない会話が、どこまで真実なのか、と思う。
もちろん、香芳さんについては他の男性の存在があったのは間違いなく、また実母についてもそうだろう。
しかし、本当にそんな言葉を発したのか?
正之助さんは、竜のことを叱りはしていたものの、それでも後継者にすべく教育してきた。それだけではなく、竜が事故に遭った後は何かと気にかけ、心配し、時には周囲に竜が不憫だと涙ぐむこともあった。

節さんにいたっては、まったく血縁のない他人の竜を、我が子同然に育ててきた。母の愛を知らなかった竜には、節さんこそが母親だった。

香芳さんがしたとされるその発言も、どこか竜の疑念に沿い過ぎているような気もする。確かに、香芳さんの実母も知るその別の男性の存在はあったし、事件の一週間前に香芳さん自らその男性に連絡して会っていたという事実もある。
しかしだからといって、玲ちゃんが実の子ではないというのは、竜が証言したこと「だけ」で成り立っている話だ。もう香芳さんの言い分は聞けない状況で、である。

しかも、その直後に正之助さんからも同様のことを言われるというのも、どこか出来過ぎているような気もする。

ともあれ、裁判ではこれらのことが認定され、それらはすくなからず竜にとって有利に働いた。
本当のことは、もはや竜しか知り得ない。

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参考サイト
無限回廊「杉並一家皆殺し放火事件」

参考文献
朝日新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月30日東京朝刊、昭和63年2月8日東京夕刊
読売新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月10日東京夕刊、昭和62年2月6日 東京朝刊、昭和63年3月18日東京夕刊

昭和63年3月18日/東京地方裁判所/刑事第1部/判決
昭和61年(合わ)258号
判例時報1288号148頁

D1-Law 第一法規法情報総合データベース

絶望の淵の先にあるもの~香川・父親撲殺事件~

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昭和50627

「主文、本件抗告を棄却する。」

高松高等裁判所の小川豪裁判長は、この日、ある少年事件の抗告を棄却する決定を出した。
加害者は17歳の女子少年。彼女は昭和50514日に、高松家庭裁判所において、中等少年院への送致が決定していたが、それを不服として抗告したものだった。
彼女の罪は、父親を手斧で殺害するという非常に重大なもので、高松家庭裁判所は本来ならば検察官送致も十分考えられるとしたが、その内容を考慮して中等少年院送致を決めた、としていた。

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