誰が父を殺したか~足立区・尊属傷害致死事件~

平成3年5月25日

足立区花畑の第四都営アパート付近で、必死で何かを捜している女性がいた。
女性が捜していたのは、飼っていた一匹の猫。朝から行方が分からなくなっていたのだ。
どれくらい捜したろうか、女性はいったん自宅アパートへと戻った。
狭いアパートの三畳間にいた父に対し、「猫を捨てたでしょう!!」と詰め寄った。
老齢の父親はあいまいな返事に終始し、女性の苛立ちは頂点に達した。

女性は、父をその拳で殴りつけ、そして、目に留まった空のビール瓶を手に取った。

事件概要

平成3年5月25日、綾瀬署に女性の声で通報が入った。
「自宅で父が死んでいる」
駆け付けた綾瀬署員が部屋に入ると、三畳間においてこの家の主で、通報者の父親である高橋功さん(当時60歳)が倒れているのを発見。すでに死亡していた。

綾瀬署は、通報してきたこの家の長女で無職のあおい(仮名/当時23歳)に事情を聞いたところ、父親と口論になって殴りつけたと話したことから、あおいを尊属傷害致死の疑いで逮捕した。

あおいや家族らの話によれば、この日高橋家で飼っていた猫の姿が見えなくなったことで、朝からあおいと母親が周辺を捜していたが見つからず、冒頭の場面の通り帰宅して父に問いただした。
実は功さんは猫が嫌いだったといい、以前にも猫を勝手に捨てていたことがあったからだ。

その後、口論となったあおいと功さんだったが、あおいが一方的に手や物を使って殴り、功さんを死亡させた。

功さんは頭部、胸部、腹部など体中を殴られており、多発性肋骨骨折に加え無数の皮下出血の傷を負っていた。死因は多発性肋骨骨折による呼吸障害と、広範囲の皮下出血がもととなった外傷性ショック死だった。

家族のそれまで

昭和6年生まれの功さんは、妻・広江さん(仮名)と結婚後、昭和42年にあおいが、昭和44年には長男・康介さん(仮名/当時21歳)が生まれ、家族4人で生活していた。
あおいが生まれた当時は岩手県水沢市で生活しており、その後、東京へと上京したようだった。
あおいが高校を卒業した昭和61年ころまでは、特段大きな家庭の変化はなかったようだが、昭和62年、広江さんが交通事故に遭う。
一命は取り留めたものの、頭部に大きな怪我をしたことから記憶障害等の後遺症が残ることになってしまった。
当時、大学受験のための浪人生活を送っていたあおいは、そんな母の様子を見て、漠然とではあるものの、この先家事など家庭内のことは母に代わって自分が担わなければならない、と考えていた。

受験勉強の傍ら、日本料理店などでアルバイトをし、意思の疎通がうまく図れなくなった広江さんの世話などもあおいが担当していた。

長男の康介さんも、かなり内向的な性格だったといい、この頃はほとんど家の中から出ない、そういった生活ぶりだった。
ただ、この時点ではまだ功さんが現役で働いていたこともあり、家庭内には外の風も持ち込まれ、なんとか社会とのつながりも保てていたようだ。

しかし平成3年、功さんが退職して以降、高橋家には不穏な空気が立ち込める。

もともと仲が良くなかったあおいと功さんが顔を突き合わせている時間も増え、一方で母親と長男は意思の疎通もままならない状態ということで、あおいの負担もおそらく増えていたのだろう。
しかも康介さんは猫を拾ってくる癖があった。猫好きというわけではなく、拾ってきてしばらくはかわいがるものの、そのうち飽きて、時には虐待のようなことまでしていた。この時、猫の数は7匹にまで増えていた。

あおいは、そんな猫を弟から取り上げ、世話をしていたという。この頃、あおいの中では、「猫のようなか弱い動物の命はどうしても自分が守ってやらなくては」といった考えが生まれていた。

ただ、その優しさは、度を越していた。

あおい

あおいは小学生の頃から内向的な性格だった。感受性が強いというのか、周囲の言葉や態度に敏感に反応し、非常に傷つきやすい子供だったという。
その性格は成人しても変わらず、常にいじめの対象となり、また、他人から妬まれて嫌がらせを受ける、周囲が自分を傷つけようとしていると話していた。
が、実はこれはどうやらあおいの「何事も被害的に受け取りやすい」という性格が思い込ませた節があり、実際には単なる注意や指導までもが、嫌がらせ、いじめであると受け止めていたようだった。

高校生の頃、男子生徒からデートの誘いを受けたあおいは、なんとそれを「自分を侮辱している」と受け止めた。そして、担任教師に告げ口しかなりの騒動を引き起こしたことがあった。
とにかく自分の身の回りに起きることはすべて、自分を傷つけようとしている、貶めようとしているといった極端な被害妄想を割と早い段階からあおいは抱えていたとみられた。

それは母、広江さんへもむけられ、弟ばかり可愛がってあおいのことはむしろ傷つけようとしている、そんな風に思っていたという。
事件後、弁護士に対して出した手紙でも、母親と弟との関係を「異常なまでの執着を持って」書き綴ったという。

また、幼い頃から独り言も多く、高校卒業からはさらにひどくなってその症状は事件当時も治まっていなかった。歯磨きに1~2時間は当たり前、入浴や洗濯に半日を要することもあり、強迫様症状も認められた。

そう、あおいは精神的に全くの健康とは言えなかった。

ただ、あおいを鑑定した医師の診断によれば、この症状だけをもって統合失調症であるという判断は出来ないという。あおいには、幻覚や解離症状、思考障害といった統合失調症に欠かせない(?)症状は乏しかったのだ。
もちろんだからといって正常とはいえず、むしろ統合失調症に極端に近い境界線上、と診断された。

あおいは、家族に対してはぎょっとするほど強い言葉などで非難する一方、自身については「我こそが正義」という確信を持っていた。裁判ではこのあおいの独善的な考え方は「常軌を逸している」と評されるほどだった。

尊属傷害致死

この事件が起きたのは平成に入ってからのことであるが、この時点ですでに尊属殺は違憲である、という判断は下されていた。が、違憲ではないとする意見もあったことで、刑法から条文を削除するということまでは行わず、いわば裁判所の裁量で通常の殺人と同様の刑の範囲で裁く、そういった運用がなされていた(詳細)

この足立の尊属傷害致死事件についても、罪状は尊属傷害致死であり、裁判所としてはその運用について、当時のあおいの精神状態を注視するということで尊属傷害致死と通常の傷害致死との刑の均衡を図ったように見受けられた。

弁護側はあおいが事件当時、心神喪失であったとして無罪を主張したが、上記鑑定などから裁判所は心神喪失の訴えは退けた。
鑑定の結果以外でも、あおいは事件後、父の様子がおかしいことに気付くとすぐさま警察に通報、自らの行いもきちんと警察官に述べていたことや、暴行に使用したビール瓶のラベルに血がついていたことで、後に返却する酒屋に迷惑がかかるとしてラベルを剝ぐなどの行動もしていた。
このような点で、善悪を弁識する能力が喪われていたとは言えない、としたのだ。

が、一方であおいの極端に被害妄想的な性格や、強迫様症状、事件後においてもなお、父親を死に至らしめたその事の重大さよりも猫のことばかり気にするなど、弁識能力を疑うには十分だった。

尊属傷害致死事件であり、懲役3年以上無期懲役というのが刑法第205条2項であるが、心神耗弱で減刑というのが裁判所の判断となった。

平成4年3月25日、東京地裁はあおいに対し、心神耗弱を認め懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡した。

閉ざされた家族

裁判所は、あおいの精神状態のみならず、この高橋家という家族についても言及していた。

あおいと功さんの折り合いが昔から悪かったことは先にも述べたが、単に口を利かないとか、そういったレベルではなかった。
あおいは小学生の頃から、父親である功さんに暴力を振るっていたのだ。
それはあおいの成長とともに激しさを増し、手拳での殴打にとどまらず、物を使っての暴行へと変わっていく。

事件直前にも、功さんが扇風機を処分したことが気に入らないという理由で、あおいは功さんを空きビール瓶で殴るなどの暴行を加えていた。

当の功さんは、そんなあおいの暴力にどう対処していたのか。

功さんはなぜか、そんなあおいの理不尽な暴力に抵抗することはなかったというのだ。

しかもその暴行は数時間に及ぶこともあり、事件があった日の暴行も、3時間に及んでいた。
にもかかわらず、口で言い返すことはあっても、功さんが力であおいをねじ伏せるようなことはなかった。

同居の母、広江さんと弟の康介さんは、そんな父娘の姿をどう感じていたのか。
実はこの二人にも、問題と言っていいかどうかは別にして理解に苦しむ面があった。

広江さんは交通事故の後遺症で意思の疎通がなかなかうまく図れないという事情はあったが、事故に遭う以前から、あおいの父親への暴行を止めたり、諫めるといったことはしていなかった。
事件当日も広江さんはあおいとともに猫を捜していたが、家に戻ったあおいが功さんに暴行を振るっている場面にも居合わせている。しかしこの時も、広江さんはぼうっとそこにいるだけだった。そして、救急車を呼んでほしいと懇願する夫を放置し、あおいとともに再び猫を捜しに出かけた。

康介さんも同様だ。事件があったその瞬間、康介さんも在宅していた。狭い都営アパートの中で、ふすまの向こうの暴行に気付かないわけはなかったが、止めることはおろか、あおいと広江さんが再び猫を捜しに外出したのち、苦悶にあえぐ父、功さんのうめき声を聞きながらなんら救護措置も取らなかった。

結果論ではあるが、もしもあおいが外出した後すぐに救急車を呼ぶなどしていれば、功さんは死亡しなかったかもしれない。しかし功さんの大切な家族は誰一人として、功さんを救おうとはしなかったのだ。

裁判所は、この事件とその結果は、「このような家族が情緒的な結びつきもなく狭い都営アパートの一室に閉じこもるようにして暮らしていたという異常な家庭環境と密接不可分に発生したと考えられる」としている。

おそらく一家のことは、都営アパートの中でも気にかけた人は少なからずいたようで、近くの教会の女性があおいに対して援助を申し出、高校時代の恩師もまた、同じ申し出をしたという。
このような近隣の人々らの支えも、裁判所があおいを社会の中で更生させようという判断を後押ししたとみられる。

保護観察付きの執行猶予を得たあおいは、刑務所に行かずには済んだ。が、裁判の時も、彼女の心を占めていたのは、残された母と弟への呪詛と、いなくなった猫の行方だった。

彼女がその後、どう暮らしたのかは知る術はないが、幼い頃から抱えてきた彼女の心の病はケアされたのだろうか。

溢れ出る憤怒を受け止め続けてくれた父は、もういない。

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読売新聞 平成3年5月26日東京朝刊
平成3年(合わ)176号 尊属傷害致死事件 東京地方裁判所刑事第11部

🔓殴り殺された父の「悪行」~四街道・実父撲殺事件~

取調室にて

「なぁ、本当のこと話してくれんか。」

四街道署の取調室では、刑事がこう問い続ける日がもう一週間以上も続いていた。
それでも、目の前の少年は頑として、当初の供述を変えようとはしなかった。

「人を殺しました。友人の父親です。凶器は近くの池に捨てました。」

捜査員らは納得しかねていた。この目の前の少年が、「友人の父親」を殴り殺したというのが、どうにも理解できなかった。そもそもの動機も、「友人の父親に冷たくされたから」。なぜそんな理由で人を殺そうという判断になるのか。

千葉県四街道市で起きた殺人事件。
この事件の裏には、というか、この事件は起こるべくして起こった事件でもあった。

【有料部分 目次】
事件発覚
報道
長男
父のそれまで
子供たち
父と子と、その友達
支配
審判
レイプ
少年たち

絶対私は悪くない~福井県あわら市・義母逆恨み殺害事件①~

平成14年8月21日

福井県芦原町(現・あわら市)。
この日、いつもは早起きの祖母が起きてこないことを気にかけた孫は、祖母が生活する離れに向かった。
納屋に隣接する離れの入り口は施錠されておらず、孫は祖母を起こしに部屋へ入った。

「ばあちゃん…」

最初は単に布団がはがれているだけかと思った。しかし、あおむけの祖母の顔に、すでに生気はなかった。 続きを読む 絶対私は悪くない~福井県あわら市・義母逆恨み殺害事件①~

絶対私は悪くない~福井県あわら市・義母逆恨み殺害事件②~

救いようのない女

夫や子供たちが暮らす家に戻ることができた満智子だったが、気に入らないことがあればそれはすべて周りに問題があるからだと決めつけ、あからさまに不満を嫌がらせという形でぶつけていた。

たとえば、食事の際に長女と久栄さんが仲良く話していれば、「娘を取られる!」と憤慨し、夫が高齢の母を気遣えば、自分をのけ者にしているとして機嫌を悪くしていた。
満智子は15年で何も学んでおらず、久栄さんに対して目の前で強くドアを閉めたり、久栄さんの食器をわざと荒々しく扱うなど、それは誰の目から見てもひどいものだったという。

それを見た賢さんと長男は、すぐさま満智子に強い態度で臨んだ。特に、長男は母親である満智子に対し、厳しい態度を崩さなかった。
久栄さんは満智子の機嫌を損ねないように、なるべく母屋へは顔を出さず、離れの自室で一人過ごすようになる。それを気にして、長男が離れへ行って久栄さんを気遣うことも、満智子は我慢ならなかった。
久栄さんは自分用の小型冷蔵庫を買い、さらには母屋の電話を使わないでいいように携帯電話まで購入した。とにかく、満智子の気に障らないようにするには、自分だけが顔を見せなければいい、そんな思いで心を痛めていた。

また、長男が久栄さんを庇って満智子に強い口調で迫った際には、
「母親になんてことを言うんだ、そんなことを言ってはいけない」
と、長男をたしなめ、満智子の肩を持つなどしていた。

しかし、そんなことで変わるほど満智子はやわではなかったのだ。

このころすでに夫の賢さんは満智子にほとほと嫌気がさしており、ほとんどかかわらない、口も利かないような状況になっていた。代わりに長男が満智子を諫め、時には激しくなじり、そのたびに久栄さんはハラハラしながら成り行きを見守るしかなかった。

せっかく帰ってきたのに、夫も息子たちも誰も私をいたわろうとしない。どうしてこんなに薄情な子供たちなんだろう。

自分を省みることを一切しない満智子には、子供や夫の態度の原因がどこにあるのか、全くわかっていなかった。
そのため、自分以外の家族が久栄さんを気遣うことに勝手に嫉妬心を燃やし、何度も何度も久栄さんに嫌がらせを繰り返した。
そればかりか、「すべて自分以外の誰かが悪い」と思うたちの満智子は、母親代わりだった久栄さんの教育が悪かったから、こんな風になったのだと結論付けてしまう。

満智子の久栄さんへの嫉妬心は、すでに憎悪の焔に変わっていた。

名案

平成14年8月19日、満智子は庭先で長男に叱りつけられた。
近藤家では犬を飼っていたが、家族内でドッグフード以外の食べ物を与えない、というルールがあった。
にもかかわらず、満智子は勝手に人間の食べ物を与えていたため、長男はことあるごとにそれをやめるよう言ってきていた。
この日、満智子は禁止されているのにまた犬に人間の食べ物を与えようとしたところを長男に見つかってしまい、素直に謝ることもできないため、
「私が食べようとしただけや!」
とわけのわからない言い訳をかましてしまう。これに激怒した長男は、思わず満智子の腰や足を蹴った。そして、満智子を旧姓の「南さん」と呼び、満智子は近藤家にいらないのだと明確に告げられた。

他罰的な人ほど、自分がされたことをことさら強調するのはよくある話だが、満智子の場合もそうだった。
長男に絶縁ともとれる発言を受けたとショックを受け、深く深く傷ついたという。しかしこれもすべて、久栄さんの育て方が悪いせいであり、久栄さんが満智子のあることないことを子供たちに聞かせて育てたのだと思い込むことで、悪いのは自分じゃないと考えた。

翌日にも再度、長男から出て行けと言われた満智子は、賢さんと久栄さんとで夕食をとっているとき、久栄さんに嫌がらせをすることで自分の気持ちを伝えようという、ちょっと理解できない行動に出る。
賢さんが席を立った隙に、満智子は久栄さんにふきんを叩きつけ、さらには足元に落ちていた豆の皮を見つけて久栄さんがこぼした、汚いなどと難癖をつけ非難し始めた。
黙って耐えるしかなかった久栄さんの様子がおかしいことに気付いた長男が久栄さんに問いただし、夕食時の出来事を知るところとなり、我慢の限界を超えていた長男は満智子に対し、
「おめーはうちにはいらん。出て行ってしまえ。死んでしまえ。」
と怒鳴った。

満智子は被害者ぶって賢さんに愚痴をこぼしたというが、賢さんも全く相手にしなかった。
いつにも増して激しかった長男の怒りに、満智子はその夜眠れなかった。それまでのように、久栄さんの育て方が悪いんだと思いながら、あれこれと考えるうちに、久栄さんの存在自体が自分を苦しめているのだという答えを導き出す。
これは満智子にとって一筋の光のような、完璧な「答え」だった。

「ばあさんさえいなくなれば。そうしたら家族は私を大事にしてくれる!」

気が付けば、東の空が白み始めていた。

反省したら死ぬ人

警察の捜査では、事件後有力な情報は得られていないとされている。しかし、おそらくだが、家族はもとより周辺の住民らも、もしかしたら満智子が、という思いは抱いていたのではないだろうか。
もともと、いつ離婚となってもおかしくない状況だったうえに、満智子を一番気にかけていた久栄さんが死亡したことで、近藤家において満智子と家族でい続ける必要性がなくなってしまったため、その年の暮れには満智子は近藤家と完全に離縁となった。

春江町(現・坂井市)の実家へと戻された満智子は、逮捕されてもなお、全面否認だった。
2月5日に送検され、その後の検察での取り調べにおいて、しぶしぶ、久栄さん殺害を認めた。というよりも、久栄さんへの憎しみをぶちまけたというほうが正しいのだろう。
いかに自分がかわいそうで、いかに久栄さんが自分を虐げていたか、満智子は取り調べにおいても周りが、久栄さんが、ひいては夫の過去の仕事上のパートナーが悪いのだと、ただそれだけを訴えていた。
実際の犯行も、ひと思いに久栄さんを殺すのではなく、わざと苦しめるために胸を足で踏みつけ、肋骨を折り、そのうえで首を絞めて殺害した。

世の中には、絶対に自分の非を認めない、そういう人が存在する。どんなにわかりやすい加害行為であっても、何かしら言い訳や正当性を見出しては、まるで自分は被害者であるかのようなふるまいをする。
信号待ちで停車中の車に追突したにもかかわらず、その前方の車に対して「バックしてきただろう!」と言いがかりをつける人がたまにいるが、その絶対的な自信はどこから出てくるのか。
裁判で弁護側が申請した精神鑑定は却下されているが、じっくりと満智子のような他罰的思考の持ち主とはどういったものなのかを専門家に鑑定してほしかったなという思いは残る。

生まれついての性格、とも一概には言えないように思うが、ならばどのような出来事や要因がこのような思考を育てるのだろうか。

確かに、他人に対する妬みや嫉妬は、誰でもとらわれる感情であり、それ自体には問題はない。が、満智子のような思い込み、決めつけ、自分が信じる筋書きしか信じない、たとえそれが荒唐無稽で、自分にとってもつらい筋書きであったとしても、それ以外信じようとしないという頑なさは、結局、自分が絶対的に正しいという、究極の自己中心的思考なのだろうか。

こういった人が、もしも他人に対して「愛情」を持ったとしても、それは他者への愛ではなく、自分へのものなのだろう。

久栄さんは満智子を悪しざまに言うこともなく、むしろ満智子を嫌う家族を諫め、15年間心を痛めながらも満智子の子供たちを立派に育てた。それだけでなく、誰よりも満智子を気にかけ、また一緒に暮らそうとまで働きかけ、それを実現させた、普通で考えれば満智子にとっては唯一の味方であった。
なのに、よりにもよって満智子はその久栄さんを憎み、諸悪の根源だとして殺害してしまった。
今後久栄さんの冥福を祈っていきたいと話はしたものの、満智子は最後まで「私が間違っていた」とは認めなかった。
当然、元夫や実の子供らからの嘆願もなかった。

判決は懲役14年。すでに出所した満智子をふたたび家族は許しただろうか。

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🔓流浪の運命共同体~長野・山梨・静岡・男女殺害遺棄事件~

無念の記者会見

「なぜ母が殺されなければならなかったのか。そしてなぜ、姉がそれに加担したと言われるのか、まったく理解できません。
ふたりは仲の良い母娘でした……」

黒磯市役所で記者会見に応じた男性は、悔し涙をにじませた。
傍らには、妻の姿もあったが、この二人は一歩間違えれば今頃生きていなかったかもしれなかったのである。
ふたりは生き延びたが、入れ替わりに行方不明になった男性の母と姉は、壮絶な人生を送る羽目になってしまった。

平成一五年二月二六日

この日、とある傷害事件で男が逮捕された。
男は昨年に静岡県伊東市内の貸別荘で、当時行動を共にしていた男性とその妻、そして一歳の子供に暴力を振るい怪我をさせたとして、静岡県警から指名手配となっていたのだ。
男の名は、上原聖鶴(当時三五歳)。

ところが調べを進めるうちに、
「長野県内で仲間らとともに二人殺している。遺体は甲府市内のアパートにある」
と供述したため事件は違う展開を見せ始める。
甲府市飯田のウィークリーマンションを捜索したところ、供述通り、室内から男女と思われる遺体を発見した。
上原の供述では、自分以外の仲間もここへ遺体を運んだ行為にかかわっているとしていて、警察は、上原と行動を共にしていた女と、若い男二人も死体遺棄の容疑で逮捕した。

当然警察では二人の殺害にもかかわっている可能性が高いとして調べを進めたところ、男二人は殺害にかかわっていないことが判明。警察は、三月にはいって、上原と女を二人に対する殺人の疑いで再逮捕した。
上原と一緒に逮捕されたのは、高須賀美緒(仮名/当時二七歳)。美緒は、昨年の六月から上原と行動を共にするようになったというが、上原には妻子があった。しかも、その妻子もずっと行動を共にしていたようなのだ。
わかっているだけでも、上原と妻子、美緒、若い男二人、この六人が逮捕当時共同生活を送っていたとみられた。
さらに、上原は美緒と生活を共にし始める前、美緒の弟夫婦とその子供と一緒に生活をしていた。
そして、弟家族と離れた直後、今度は美緒とその母親を呼び出し、まるで入れ替わるかのようにその母娘と生活し始めていたのだ。

では、亡くなった二人はいったい誰で、どんな関係の人間なのか。
遺体はそれぞれ男女一名ずつで、男性は二〇代、女性は五〇代~六〇代とみられた。
遺体の状況は、女性のほうが腐敗が進んでいたことから死亡時期が違うこともわかっていた。
その後の司法解剖の結果、男性は神奈川県厚木市の大学生、中里善蔵さん(当時二一歳)、女性は栃木県黒磯市(現・那須塩原市)在住の高須賀悦子さん(仮名/当時五三歳)と判明。

悦子さんは、美緒の母親だった。上原と美緒は、中里さんと悦子さんを殺害した容疑で再逮捕されたのだった。

発端

事件の始まりをたどっていくと、平成一三年に遡る。
当時、とび職関連の仕事をしていた美緒の弟・英治さん(仮名/当時一九~二〇歳)は、仕事関係で上原と知り合った。
五月ごろ、英治さんは上原からこう聞かされたという。
「俺とお前の名前が暴力団のリストに載ってる。俺が何とかしてやるから、一緒に逃げよう、お前も俺の言うことを聞け」

若い英治さんは、暴力団という言葉と、上原の入れ墨に恐怖を感じ、その言葉を信じてしまう。また、それ以前に上原から借金を申し込まれていた経緯などもあり、上原と行動を共にすることを決意した。
すでに妻子がある身だった英治さんは、驚く妻を説得して妻子とともに上原と合流、そこから一年もの間、車で各地を転々とする生活を余儀なくされていた。
生活は、主に貸別荘などを借りていたが、その費用は英治さんが消費者金融から借金をするなどして都合していたという。

逃亡生活は次第に英治さん一家にとって「何のために逃げているのか」わからないものへと変わっていく。
先に述べたとおり、金銭は英治さんに借金をさせ、足りなくなると英治さんの妻にも借りさせた。
食事は一日に一度となり、幼子を抱えた妻は自分の食事をわが子に与え、一〇キロ近く痩せていたという。
そこまでして英治さん一家を縛っていたのは、暴力団に追われているという嘘と、上原からの暴力だった。

上原は体重が一二〇キロ近くある巨漢で、英治さんは日ごろから暴力を振るわれていた。
ある時からそれは特殊警棒のようなものになり、時には妻にもその暴力は向けられたという。
さらに、英治さんの一歳の子供にも、上原は自分の子供に命令し、叩く、けるなどの暴力を振るわせていた。

また、英治さん一家は常に上原の妻に監視されていた。伊東市内の貸別荘では、窓のすべてに鍵がかけられ、外から粘着テープで目張りされて開けられないように細工されていた。
用事で家族に連絡を取る際も、常にだれかがそばにいて、余計なことを言わないよう見張られていたという。
英治さん夫婦に対しては、それぞれを別の部屋で過ごさせ、お互いに「相手は子供を愛してない」などと吹き込んで疑心暗鬼にさせていた。

平成一四年六月一五日、たまたま上原とともに外出していた英治さんは、今しかないと思い隙を見て逃走する。
妻子のことは気になったが、それでも助けを求めるには逃げるしかなかった。そしてこの判断は正しかった。
伊東市内から妻の実家がある栃木県黒磯市までヒッチハイクをしながら三日かけて英治さんは戻り、そのまま黒磯署に助けを求めた。
事情を知った妻の父と警察署員らとともに、英治さんの案内で伊東市内の貸別荘へ戻り、ようやく英治さんの妻子は救出されたのだった。
発見時の妻は、殴られたような痕が多数あり、全治三週間のけがを負わされていた。

妻子を奪還した英治さんは一八日、心配をかけた母親・悦子さんと姉・美緒にも連絡した。実は英治さん家族が上原と行動を共にし始めた直後、「お前の家族も危ない」と吹き込まれていたことから、黒磯市に暮らす悦子さんと美緒に連絡して、福島の親類宅へ身を寄せるよう伝えていたからだ。
しかし、一度は電話に出た美緒だったが、その日のうちに連絡が取れなくなってしまう。

そして、伊東の貸別荘からは、上原たちの姿も消えていた。

(残り文字数:7,783文字)

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