LOVE STORY〜4つの愛の事件〜

夫婦喧嘩は犬も食わないし、男女の諍いは時にそれ自体が二人を盛り上げるただの前戯のことも多い。

しかしそうならなかったら。そう思っているのは片方だけだったとしたら。

一度は愛し、愛されたはずの人たちがそれぞれを、或いは取り巻く人を傷つけ殺すハメになった、4つの事件。

ケンカをやめて

平成6年9月11日、病院に運ばれた男がいた。腹部に刃物による重傷があり、その刃物は柄が折れ腹部に刺さったままだった。
その状況からも、非常に強い殺意が見て取れた。

その頃、病院の待合では一人の男が所在投げに佇んでいた。
衣服には血液が付着、疲労困憊といったその男は、腹部に重傷を負った男を自らの自家用車でこの病院に担ぎ込んだ人物だったが、その様子は「人助けをした善意の人」とは程遠いものだった。

病院から通報を受けた警察が双方に事情を聴くと、思いもよらない答えが返ってきた。
「おれたちは決闘をした」
その答えは、けがをした男性の口からも、同じように語られた。

決闘

ケガをしたのは佐藤要次さん(仮名/当時35歳)。左腹部刺創による胃損傷、中結腸動脈損傷および左前腕切創の全治一か月の重傷だったが、命に別状はなかった。

佐藤さんを運んできたその決闘相手の男は、二宮亮平(仮名/年齢不明)。
二人の話によれば、9月11日の夜にとある事情から口論となり、佐藤さんから罵倒されたことで頭にきた二宮は、
「お前、俺と命を賭けて勝負するか?」
と申し向けた。
同じく頭に血が上っていた佐藤さんもそれに応じ、
「上等だ、すぐ来いよ。待ってるからな。」
と鼻息が荒かった。

その後、自宅から文化包丁(刃渡り18,3センチ)を持ち出すと、自家用車で佐藤さんを迎えに行った。
佐藤さんを助手席に乗せ、決闘場所に選んだ中央自動車道国立府中十二番通路に赴き、
「どっちがやってもやられても警察には言わない」
ことを約束した上で、ここに決闘する意思を確認しあった。

時刻は午前7時15分、頭上を出勤の車がごうごうと通りすぎるガード下で、男ふたりは朝日に照らされていた(想像)。
「これを真ん中に置くからよ」
二人の距離はやく3,5m。二宮は持ってきた包丁を、佐藤さんと自分の間に放り投げた。

そしてふたりはその包丁めがけて駆け寄ると、その包丁を奪いあった。先に包丁にてをかけたのは、二宮だった、ズルい。
しかし、すぐさま佐藤さんが上から抑え込む形となり、互いに組み合ってしばし奮闘したが、組み伏せられていた二宮が隙をついて包丁を突き上げたのだった。

裁判

警察には言わない、そう約束した二人だったが、決闘に勝ったはずの二宮は佐藤さんを車に乗せるとそのまま病院へ直行した。
病院に担ぎ込めばおのずとその決闘は露見するわけだが、もうこの時点でふたりにそんなことはどうでもよくなっていたのか。

病院の通報で駆け付けた警察に、二宮は決闘罪と殺人未遂の容疑で逮捕された。

裁判では、決闘罪と殺人未遂が両立するのかといった法律の議論も交わされた(※両立する)が、二宮は懲役3年、執行猶予が4年ついた。
決闘という性質上、結果的に被害者となった佐藤さんにも相当な落ち度が認められると判断されたことには異論はないだろうし、そもそも被害者の佐藤さん自身が二宮に対し寛大な処分をという嘆願書的なものを出していた。
二宮自身が佐藤さんを放置せず病院へ運んだことなども考慮された。

なんだか殺し合いの決闘に至る割に、ふたりの間に友情というか固い絆というかそういうものが見て取れるような気がしないでもないが、そもそもこのふたりが決闘に至ったその原因は何だったのか。

男が命を賭けると言えば、もうこれしかあるまい。
ご想像の通り、女の取り合いだった。

愛と友情

二宮には妻子がいた。その夫婦関係がどうだったかはわからないが、二宮には10年来の「13歳年下の愛人」がいたという。
この二宮については、事件自体がさほど大きくなかったからなのか、新聞等の報道がない。そのため二宮の年齢が分からないのだが、13歳年下の10年来の愛人がいるということで、少なくとも40歳以上かと思われる。
10年も不倫関係を続けてきたということで、さぞや愛し合った二人かと思いきや、実際はひどいものだった。

二宮はこの愛人に対し、10年間で4度妊娠させ、そのすべてを中絶させていた。

女性も女性だ、という意見はごもっとも、それは本人も同じだったようで、ある時別の男性と親密な交際を始める。それが、佐藤さんだった。

佐藤さんは二宮と友人であり、二宮との関係を承知のうえで女性に結婚を申し込んだ。女性も、佐藤さんとの結婚を望み、二宮との不毛な関係に終止符を打つと決心。
8月、佐藤さんは女性を同席させたうえで二宮を呼び出し、自分たちが結婚することを告げた。佐藤さんとしては友人である二宮に対し、本来通す必要はない筋ではあるが、通した形をとったのだ。

二宮は面食らった。長年、自分とは友人だったはずの佐藤さんと、10年も自分の言いなりだった愛人女性に裏切られた、その思いだけがこみあげた。自分が不誠実だったことは全力で棚の上だった。
散々女性にひどい仕打ちを繰り返してきたにもかかわらず、二宮は女性に執着し続けたという。
無理やり連れだしたかと思えば心中を持ち掛けたり、佐藤さんと二人きりで会わないという誓約書を書かせようとするなど、言動は常軌を逸していた。

事件当日、二宮は女性の自宅に電話をかけて復縁を迫ったところ、「会いたくもないし、話もしたくない」と邪険にされてしまう。すると、背後から佐藤さんの声が聞こえてきた。
この日、佐藤さんは女性宅に泊まっていたのだ。
さらにしつこい二宮に業を煮やした佐藤さんは、電話をひったくると「お前、いい加減にしろよ。しつこくするな!」と怒鳴りつけた。

そして、二人の決闘へと発展したのだ。

長年の泥沼にはまった女性は、佐藤さんに救われただろう。4度の妊娠中絶など、考えただけでも許せない。
が、女性とて二宮に妻子がいることを知らなかったわけはないだろうし、自分の不倫の後始末を新しい男にさせるというところに、言葉を選ばずに言えば「嫌な女だな」と思うのも事実である。

二宮と佐藤さんはその後どうなったのだろう。
誰にも言わない、命を賭けた男同士の決闘のはずが、結局、勝ったはずの二宮は法廷に引き出され、佐藤さんによる嘆願書が情状酌量となった。佐藤さんと女性とは縁を切ると、法廷でも誓った。
負けた佐藤さんは二宮に命を救われ、その後どうしたのだろうか。
命を賭けたその女は、以前と同じように守ってやりたい女に思えたろうか。

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参考文献
東京地方裁判所八王子支部 平成6年(わ)936号 判決

女々しくて女々しくて

男は女の言葉を待っていた。いいよ、帰っておいでよ。そう言ってくれると信じていた。
しかし女の口は動かない。期待している言葉は、いつまでたっても発せられないまま。
ふと、女が思い出したように手紙を差し出してきた。そこにあった文字は、「謝罪文」。以前、男が書くように要求したものだった。
「…これがお前らの答えなのか。」
謝罪文を読みながら、男の心はズタズタになっていた。そんな男の心を知ってか知らずか、女は身支度を整えるために洗面所へと消えていった。

男はバッグに手を忍ばせた。

ホテルマリオン

平成13年11月16日午前11時、川口市のラブホテルから川口署に通報が入った。
「女性のお客さんが死んでいる」
清掃に入った従業員が、ベッドにあおむけで倒れて動かない女性を発見、その状況から通報してきたのだった。
女性は後頭部を二か所、鈍器のようなもので殴られておりひどい出血をしていた。そして、遺体のそばには直径約20~30センチの血がついた石が転がっていた。

ホテルによれば、女性は男と二人で15日の夜9時ころにチェックイン、その後男だけが翌16日の午前10時半ころにチェックアウトしたのだという。

警察では、この男が何らかの事情を知っているとみて行方を追っていた。

同日午後8時45分、蕨署下戸田交番に一人の男がやってきた。
「西川口で人を殺した」
警察ではすぐにこの男がホテルの事件に関係しているとみて事情を聴き、容疑が固まったことから殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、川口市青木の無職、磯山清徳(仮名/当時49歳)。殺害されていたのは、磯山と内縁関係にあったというパート店員の滝下智美さん(仮名/当時36歳)だった。
智美さんは離婚歴があって、二人の子供を女手一つで育てていたという。ところが、いつのころからか磯山が智美さん方へ入り浸るようになった。二人の間には、女の子も生まれていたが、正式な夫婦ではなかった。
事件が起きた15日も、保育園に末っ子を迎えに来た智美さんは「今日の夜、西川口で(内縁の)夫と会うことになっている」
と話していたという。

警察は、現場に残された石が凶器であると断定していたが、その石はホテルの室内にあったものではなかった。ということは、磯山が外部から持ち込んだということである。
磯山は、その日最初から智美さんを殺害する気だったのか。

ふたりのそれまで

磯山は昭和27年生まれだが、6人兄弟の末っ子ということもあってか、1歳の時に養子に出された。
昭和34年にその養父母が離婚したため、実姉夫婦の養子として育つという、複雑な成育歴を持っていた。

中卒で働き始め、工場勤務や配送の仕事を転々とし、昭和55年に結婚、その後娘二人に恵まれた。
妻はスナックを経営し、磯山はタクシー運転手などをしていたが仕事は長続きしなかったという。家計は妻が支えた。

智美さんは昭和59年に結婚、長女と長男がいたが平成3年に離婚。その後は保険外交員をしたり、時に生活保護を受けるなどして女手一つで子供たちを育てていたという。

磯山と智美さんの運命が交錯したのは、お互いの子供たちを通してだった。
磯山は娘が通う小学校でミニバスケットボールのコーチをしていた。そこに、智美さんの長女も通うようになり、コーチと保護者という関係で知り合ったのだ。
このころ、磯山は既婚者だったがスナック経営の妻とは生活リズムが合わず、その関係はうまくいっていなかった。
若くて独身の智美さんとはウマが合い、やがてふたりは不倫関係へと陥った。

平成9年に磯山の離婚が成立、子供たちは妻が引き取ったことで磯山は一人になった。
その後はタクシー運転手をしながら一人暮らしをしていたというが、平成10年にタクシー会社を辞めるとたちまち家賃の支払いに窮することになってしまった。
そこで、とりあえず市内の健康ランドの会員となってそこで寝泊まりするようになる。わずかな生活費はパチンコ代に消え、自堕落な生活を送っていたが、智美さんとの関係は継続していた。

そして、智美さんが妊娠する。

平成10年12月に智美さんが出産したのを機に、磯山は再びタクシー運転手の職を得たが、アパートを借りる資金が追い付かずに健康ランド暮らしからは抜け出せていなかった。

磯山との間の子供は智美さんが育てていたが、そのころ智美さんの経済状況も思わしくなかったようだ。
ある時、智美さんがサラ金に借金していることを知った磯山は、不意に、生まれたばかりの娘のことが気になり始めた。
智美さんに任せておけない、自分の自堕落は棚に上げて、智美さんの経済状況を大義名分にして半ば強引に智美さんのアパートへ転がり込んだ。

お互い独身同士、しかも二人の間の子供もいるわけで、これを機に結婚するとか、そういう選択もあったと思われるが、そうはいかない事情があった。

智美さんの前夫との間の二人の子供は、磯山のことが大嫌いだったのだ。

嫌われる男

当時磯山はタクシー運転手としての稼ぎはあった。転がり込んだ当初こそ、その給料からいくらかのお金を智美さんに渡すなどしていたようだが、子供たちとの関係は最悪だった。

順序だてて、ごく常識的に考えれば自分がしていることが子供たちの理解を得るにはほど遠いことは分かりそうなものだが、焼け石に水程度の生活費を入れただけで、磯山は智美さんと同居する理由があると思い込んでいた。

智美さんの子供たちは長男が当時17歳。妹の父親であるだけの磯山が大きな顔で居座ることは理不尽だと思っても当然である。
子供たちは再三にわたり磯山に出て行ってくれと頼んだという。しかし、磯山にしてみれば、母親の借金を減らす協力までしている自分に対し、出て行けとは何事か、という身勝手な思いがあり、子供たちと磯山の関係は悪化の一途をたどる。

そのうち、磯山の中で「ここまで自分が協力しているのに子供たちが懐かないのは、そもそも智美がきちんと説明していないからだ」という思い込みが膨らみ始める。
タクシー運転手としてもそんなに稼ぎがあるわけではなかった磯山は、家に帰っても居心地が悪いことから次第に働く気持ちも失せていった。

平成13年の年明け、些細なことで智美さんと子供たちを相手に口論となった磯山は、仕事を辞めると宣言。お金も入れないし、これまで渡した金も返してもらうと一方的に宣言した。なにこのおっさん、中身は子供?

以降、昼間から家に居座り酒を飲み、時には智美さんや子供らに暴力まで振るうようになった磯山は、これまで以上に忌み嫌われるようになる。

そしてその年の11月、決定的な事件が起こる。

どうぞどうぞ

智美さんの長男の友人が遊びに来ていた時のこと。虫の居所が悪かったのか、理由は定かではないが磯山はその友人を突然蹴ったという。
当然長男は怒り、二人の間で激しい口論となったが、その際思わず
「2~3日中には出ていく」
と啖呵を切ってしまう。
磯山としては、すでに智美さんや子供らへの責任感や愛情というよりは、行くあてがないことであらゆることに理由を見出して居座っている状態だった。
引っ越ししようにもその費用すらなく、かといって必死に働きその費用を作るというのもバカバカしいという思いでいた。

加えて、磯山には大きな勘違いがあったようだ。

子供たちにしろ、智美さんにしろ、出て行ってほしいと口では言うが内心は違うのでは、という希望的観測があったのだ。
子供まで作った相手であり、現に今だって性的な関係も持っているのだ、いざ出ていくとなれば翻意するのではないか。哀れな男は、その期待にすがるしかなかった。

しかし、子供たちは磯山の口から出ていくという言葉が出たことでそれは言質を取ったかたちとなり、一方の智美さんも、磯山の期待とは裏腹に「今日までに出ていくんでしょ?」などという始末。吐いたつばを飲むこともできず、磯山は追い詰められていく。
それでも、磯山には智美さんに金を「貸している」という思い込みがあったために、それを持ち出せばまだ何とかなると考えていた。

そのうえで、子供たちにしっかりと金銭的援助を磯山がしてきたことを伝えさせ、これ以上子供たちが横着な態度をとらないよう智美さんを説得しようと考えた。
智美さんを説得するためには、強い態度に出なければ、とも。

11月15日、磯山は待ち合わせた公園で智美さんを待っていた。ふと、公衆電話ボックスのそばに、大きな石が落ちているのが目に留まる。磯山は吸い寄せられるようにその石塊を拾うと、そっとバッグに入れた。

愛と憎しみ

検察は、智美さんの子供たちが自分に懐かないのは智美さんがきちんと説明していないからという身勝手な思い込みから、殺意を持って智美さんの後頭部や顔面を石で殴り、その後絞殺に至ったとして、懲役15年を求刑。

平成14年7月16日、さいたま地裁は磯山に懲役13年を言い渡した。

確かに、磯山は一時期智美さんの生活を助けるために、金を渡した経緯はあった。中絶費用を工面したり、借金の返済を手伝ったこともあった。
また、智美さんとの間に子供が生まれた際も、その出産費用を工面していた。が、出産経験のある人は分かる通り、基本的な分娩費用は健康保険から一時金が支払われるため、実際には何十万もかからない。智美さんはそれを隠していたのだという。
自身も苦しい生活の中で、なんとか愛する人とまともな生活を作ろうとしていた節も、見えなくはない。

こういった面からみれば、智美さんにも相応の落ち度があるように思えるが、そもそも二人(磯山と智美さん)の子供を出産したわけで、父親である磯山が、お金を貸したも何もないはずだ。支払って当たり前の費用ともいえる。

加えて、磯山が智美さん宅へ転がりこんだ経緯を考えれば、その磯山の献身がどれほどのものだったかは疑わしい。
結局は、智美さんを見下し、その子供たちをあたかもいうことを聞いて当たり前の相手だと見くびっていたのだ。
娘のことが心配だと言いながら、自分の住む場所を手っ取り早くつかもうとしただけだ。

智美さんとて、子供を作った相手である磯山を憎んだり、顔も見たくないほど嫌っていた、という風ではない。
現に、殺害されることも知らずホテルに行っている。さらに、その場で磯山に対し、小銭をかき集めて5000円を手渡したという。それまでも、なんども磯山に小遣いをせびられていた。

決して、磯山を無碍にしたわけでもない。ただ、子供たちとうまくいかない以上、一緒に暮らすことは無理だと、そう言っていただけなのだ。
それを、磯山が求めていた「謝罪文」に、他人行儀な言葉が並んでいたというだけで磯山は智美さんへの思いを憎しみに変えた。
石で何度も殴りつけ、挙句首を絞めて殺害し、その遺体の横で朝まで寝ていた。

その時見た夢はどんなものだったのか。そして、目覚めて何を思ったのか。

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読売新聞社 平成13年11月17日、12月8日東京朝刊、
朝日新聞社 平成13年11月18日東京地方版/埼玉

翳りゆく部屋

「やっぱりやるわ。今、包丁持ってる。」

電話口の女は落ち着いていた。先程までの興奮が嘘のように、淡々とこれから自分が何をしようとしているのかを、電話の相手に告げた。

「親から、一番大事なものをとってやるから。」

電話相手の友人は必死で女を呼び止める。電話を投げたら、やる合図……
友人は電話の向こうの様子を聞き漏らさまいとぎゅっと受話器を耳に押し当てた。

事件

平成3年1月21日午後7時半頃、「夫を刺した」という119番通報が入った。川口市内のアパートの一室に署員が急行すると、そこには住人の男性が腹部から大量に出血した状態で倒れていた。
都内の病院へ搬送されたものの、男性はその後死亡が確認された。

死亡したのは、川口市在住の塗装工、垣内拓海さん(仮名/当時21歳)。拓海さんは腹部を包丁で一突きにされており、腹部盲管刺創による臓器損傷に伴う出血性ショック死だった。

現場の状況から、通報者であり拓海さんの妻である幸子(当時20歳)を、拓海さん殺害容疑で逮捕した。幸子は妊娠6ヶ月の身重だった。

若く、子供にも恵まれた前途のある夫婦の間に何があったのか。

そこにはありがちな浮気や嫉妬、経済的な問題などということのみならず、幸子の過酷な人生と、直前の出来事が影響していた。

二人のそれまで

幸子と拓海さんの出会いは中学時代。その頃から交際をしていたという二人だったが、とにかく拓海さんは幸子にとって恋焦がれた最愛の人物であった。

平成2年6月に二人は若くして結婚。できちゃった婚でもなく、そこには愛し愛される若い幸せな二人の絆を感じられた。
しかし若い二人の経済観念は乏しく、結婚しても趣味の車いじりをやめられなかった拓海さんが幸子に渡す家計費は月6万円ほどだったという。

それでも愛する人と結婚できた喜びが遥かに勝っていた幸子は、不満を口にすることもなく、時折実母から食料の援助やお小遣いをもらってそれなりに慎ましい生活を送っていた。

その年の秋、幸子の体に変調が現れる。生理が来なくなったのだ。
ただ幸子自身、虚弱体質で小柄だったということで、おそらくそれまでにも生理不順などあったのだろう、その時は特に何も気にしていなかったようだ。

ところが平成3年になって、胎動のようなものを感じたことから幸子は産婦人科を受診。そこで初めて、自身が妊娠5ヶ月目であることを知る。
エコー写真を見せられ、幸子はいたく感動した。愛する人との、それこそ愛の結晶だった。私も母になるのだ。お腹の中ですくすくと育っている赤ちゃんに愛おしさを感じ、その喜びを夫である拓海さんとも分かち合いたいと帰路を急いだ。

しかし、帰宅した拓海さんの口からは信じられない言葉が発せられた。

面罵する義母

「いや、無理。まだ遊びたいし、やりたいこともあるし。」

おさらいだが、この二人は正式に結婚しており、確かに貧しい暮らしではあったようだが拓海さんは職も持っていた。
その状況で妊娠を告げた時、まさか夫からこのような言葉が出ると思うだろうか。
健康な男女が結婚し、同居しそれなりに夫婦生活を健全に行なっていれば妊娠は自然なことである。もちろん、諸事情で妊娠を先延ばしにしたい夫婦もいるだろう、それならば避妊するなどして家族計画をしていくのだ。

しかし拓海さんは特にそのような、「妊娠してほしくない」という様子もそれまで見られなかったし、妊娠しても不思議はないSEXをしていた。

にもかかわらず、「いや、無理」とはどういうことか。

混乱した幸子が縋っても、拓海さんの態度は変わらなかった。それだけではなく、拓海さんの両親らまでもが幸子の出産に猛反対してきたのだ。

拓海さんの両親による出産への反対は熾烈を極めた。
言葉で翻意させるにとどまらず、幸子は義母に産婦人科へと強制的に連れていかれる。そして、中絶手術を強要されたのだ。
さらにはあまりの事態に仲裁をしようとする産婦人科医を前に、中絶に同意しない幸子を罵倒したという。
当然、幸子本人の同意なしでの中絶などできるはずもなかったが、あまりの屈辱と恐怖からショックを受けた幸子は泣きながらやっとの思いで自宅アパートへと帰った。

そして、唯一の友人である女性に電話をすると、事の次第を話したという。

その女性は、拓海さんの実家が経営する塗装店の従業員で拓海さんとも親しい人物と交際しており、かねてから幸子の悩みを聞いていた。
その日も、幸子をなだめ、慰めながら話を聞いていたというが、この日幸子はいつもと違っていた。
普段は少々わがままで依存体質ではあるものの、凶暴な面はなかったというが、この日の幸子は興奮冷めやらずといった体で、
「寝ている間に拓海を刺して自分も死ぬ」
などと物騒なことを口にした。

そして電話を切った幸子は、その言葉を裏付けるかのように金物店へ出向いて刃渡り16.7センチの文化包丁を一丁購入し寝室のベッドの下にしのばせた。

懇願と絶望

それでも幸子は最後までどうにか出産を拓海さんに認めてほしいと強く願っていて、何度も何度も、拓海さんに出産への思いを切々と訴えていた。
実家へと戻って実母に状況を説明した際も、あまりにむごい仕打ちに実母が直接拓海さんを諭すこともあった。その甲斐あってか、拓海さんも「もう一度考えてみるから待ってほしい」といい始めたことで、幸子は一縷の望みを託していた。

1月21日、この日こそは拓海さんから良い返事がもらえると期待して拓海さんの帰りを待っていた幸子だったが、やはり不安もあって、友人女性に電話して心を落ち着けようとしていた。
5時半ころ、仕事から帰宅した拓海さんが食事を始めたため、電話をいったん保留にしたうえで幸子は拓海さんに恐る恐る、聞いてみた。

「一緒にやってくれる(出産し結婚生活を続けていく)ことになったの?」

しかし、拓海さんの返事は無情なものだった。

「やっぱりだめだ。親もだめだと言っているし、俺もやりたいこともあるし、遊びたいから駄目だ。」
「おれの気持ちはもう変わらない。冷蔵庫、たんす、テレビは置いて行ってやるから」

この時拓海さんは、出産はおろか、幸子との結婚生活にも終止符を打つと、断言したのだった。

幸子の胸の内はいかばかりだったろう。
電話をとり、ふたたび友人女性と話をし始めた幸子は、もはや正常な判断が下せるような状況になかった。

「拓海が子供を生むなら別れると言って全然賛成してくれない。拓海が自分以外の人と結婚したら嫌だから別れない。あんな男をこの世にのさばらせておくのは許せないので殺す。」

話は拓海さんを殺害する内容が繰り返され、友人女性が思いとどまるよう諭すことで幸子もいったんは落ち着いたようにも見えたが、拓海さんが風呂に入ったころ、幸子は友人女性に決意を伝えた。

精神遅滞と、二律背反

裁判では幸子の生い立ちのみならず、その精神年齢や事件直前の幸子の精神状態も審理された。
弁護人は、確定的な殺意に基づくというよりも、幸子の命そのものと言ってもいい最愛の夫への信頼が崩れたこと、裏切られたことによる異常行動であるとし、犯行動機そのものを否認した。

検察はこれに対し、幸子の嫉妬深い性格が、中絶か離婚かの選択を迫られた挙句無理心中に走らせたとし、事前に包丁を準備し、その旨友人女性に話すなどしていたことから計画性もうかがわれるとした。
加えて、確かに妊娠中でありその責任能力もかなり減弱していたことは否めないとしながらも、弁護人が主張する、心神耗弱は認められないとした。

鑑定を行った医師によれば、幸子のIQは55(数字上では軽度の知的障害)で、加えて精神遅滞もあったという。精神年齢は9~10歳程度だった。
幸子は日ごろから口が重く、問われたことに対しても即答するようなことができなかった。
幼いころから両親は不仲で、父親の暴力のせいで両親は別居していた。そのため、母親が不在の時は鍵のかけられた部屋で過ごさざるを得ないなど、極めて不遇な幼少時代を送っていた。

さらに、虚弱体質や知的な問題で小学校の途中からは勉強についていけなくなり、両親の状況からもそれを気にかけてくれる大人にも恵まれず、幸子自身勉強への意欲が失せたという。
それだけが原因ではないだろうが、幸子は友達もできず、したがって健康的な社会性やコミュニケーション能力も育つことなく成長せざるを得なかった。

一方で、幸子に対して理解を示したり、優しくしてくれる人に出会うと極端に依存し、それは執着へと変わった。
その中の一人が、拓海さんだった。

人とのかかわりの中で、孤独に生きてきた少女は自分を愛してくれた拓海さんに全人生を賭けてもいいとさえ、思っていた。
しかし、幸子の中にもう一つのかけがえのない大切なものが、しかも愛してやまない拓海さんとの大切なものが宿ったことで、「それまでの」唯一無二の存在が幸子を苦しめることになってしまう。

鑑定した医師は、幸子の状態を「二律背反」とした。
二律背反とは、二つの命題、願望がそれぞれ両立しうると同時に、それらを達成させるためにはそれぞれの命題が致命的なネックになる状態をいう……幸子の場合でいえば、愛する人との結婚生活を継続することと、その愛する人との子供を出産することは本来両立しうることだが、結婚の継続のためには中絶が必須となり、出産を望めばそれを望まない拓海さんとの結婚生活は継続できなくなる、こういった状況にあった。

究極の二択というには、あまりにも乱暴かつ幸子の感情を著しく踏み躙っていた。

幸子は妊娠自体を5か月まで知らず、その事実を認識した直後から心身ともに疲弊する日常に直面していた。
不眠、下痢、頭痛などに悩まされ、おそらく妊娠による体調、心理面での変化もあっただろう。

浦和地方裁判所(当時)は、確定的殺意はその程度は弱いとしてもあったと認定、そのうえで、精神的な動揺が激しい状態であったこと、元来悩みや問題を適切に処理する能力が劣っていたこと、事件当日の拓海さんからの最後通牒を受けた以降の記憶が脱失していること、電話の相手の友人女性が「事件直前の電話の内容は支離滅裂だった」と証言していること、そして、友人女性に対し殺人の予告を行うこと自体が異常な状態であり、普段の幸子の人格からは考えられないということなどから、「本件犯行直前において、心因性意識障害に基づき、是非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力が著しく減弱した状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったもの」として、懲役3年執行猶予5年の判決(求刑懲役6年)を言い渡した。

輝きは戻らない

幸子は事件後、無事に子供を出産していた。しかし、その子の父親である拓海さんはこの世にもういなかった。
愛する人を失いたくないと必死だった幸子は、それでも拓海さんと引き換えに子供を産んだ。
裁判所は、拓海さんが一人っ子であり、しかも子供のなかった拓海さんの両親が特別養子縁組で育てた大切な大切な存在だったことや、拓海さん自身の無念さに思いを寄せつつも、量刑の理由のそのほとんどを幸子への同情を禁じ得ないと綴った。

幸子は拓海さんとの結婚をこれ以上ない幸せだと受け止めていて、それは「拓海と一緒にいられれば、おなかがすいても耐えられる」と話していた通り、何にも代えられないものだった。
しかし、その延長線上といえる妊娠が、何にも代え難い存在だったはずの拓海さんを上回った。というか、そもそもこんな理不尽な二者択一をせざるを得なくなるなど幸子でなくてもだれも思わない。
愛してやまない人との子を、なぜ、その愛する人と一緒にいるために天秤にかけなければ、諦めなければならないのか。

裁判所は、それを「不可能な選択」とした。

また、産婦人科に幸子の首根っこをひっつかんで連れて行き、医師の前で面罵した拓海さんの母親も、事件後は反省したのか幸子に対し厳しい処罰を望まないと述べていた。

そして何よりも、幸子がその命を守ったといってもいい子供が、幸子が収監されれば養育者を失うということになり、それこそ子供に不測の悪影響が懸念されるとして執行猶予がつけられた。

その名の通りの、幸せを願わずにいられない。

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読売新聞社 平成3年1月22日東京朝刊

信濃川エレジー

昭和40年5月9日、新潟県小千谷市高梨町。そこを流れる信濃川は、雪解け水が流れ込み増水していた。
5月とはいえ、まだまだ早朝は肌寒いこの日、その夫婦は朝からくるみの木を伐採するために家を出た。

夜が開け始めた午前5時、夫婦は信濃川の中洲に渡るため、川舟に乗り込むと本流に向けて漕ぎ出した。
櫂を繰りながら、慎重に進んでいると、不意に夫が妻に声をかける。

「危ないから、ポットに掴まっとれ!」

水嵩が増して激流となった信濃川。もし誤って落ちてしまえばあっという間にのまれてしまう。妻は咄嗟に立ち上がると、及び腰で舟の近くの水制ポットに掴まろうとした。

あっという間のできごとだった。水制ポットを過ぎる頃、妻の姿は舟の上から消えていた。

仲人の直感

それは悲劇的な事故として扱われた。信濃川に転落した妻の行方は分からず、新聞報道でも仲の良い夫婦に起きた悲劇というものが掲載された。

行方不明になったのは、小千谷市の水島マスミさん(仮名/当時40歳)。夫と二人の子を持つ主婦だった。その後マスミさんは溺死体で発見された。

夫婦が一緒にいたときの不慮の事故ということに思われたが、どうしてもマスミさんの死を事故だと思えない人物がいた。

「新聞報道を見たとき、とうとうやったかと思いました。」

そしてその人物の疑念は、現実のものとなった。

マスミさんが死亡したのち、警察は夫で当時舟に一緒に乗っていた水島謙作(仮名)を、妻殺害の容疑で逮捕したのだ。
さらに、謙作を唆してマスミさんを殺害させたとして、小千谷市内の女も逮捕された。
二人は三年来の不倫関係にあり、女はこの年の3月に別の男性と結婚したばかりだった。
マスミさんの死が事故ではないと思ったのは、この女の結婚を取り持った仲人の男性だった。

契り

謙助と共に逮捕されたのは田辺典子(仮名)。世間的には新婚のごく普通の主婦だった。
しかし先に述べたとおり、典子には謙作という愛人がいたのだ。

二人の出会いは昭和37年。同じ職場で働いていたことから親密になり、やがて性的な関係を持つようになる。この時は典子は独身であったが、謙作にはマスミさんという妻も、二人の子供もいた。

昭和39年になると、典子に縁談が持ち上がる。この時代、まだまだ親や親せきが持ち込んだ縁談を「気に入らない」で無碍にできるほど、女性の立場は高くはなかったろう。
が、典子は烈火のごとく怒り、その縁談を全力で拒否したという。その際、謙作との不倫をぶちまけ、自分はこの人を愛している、いずれ結婚するのだと言い張って、父親らを仰天させた。

結局、不倫という状態では世間体もはばかられ、かつ謙作の職場にも迷惑がかかるということから、勤務先の工場長も交えての話し合いがもたれ、念書が交わされた。
その後、工場長は謙作を同行の上で典子の家に赴くと、典子の父親同席のもと典子に対し、「水島のことはあきらめて、嫁に行きなさい」と諭した。
同行した謙作も、典子と父親に対し、「典子さんとは別れます」と約束をした。

そして昭和40年3月、典子は婚約者の男性の許へ嫁いだのだった。

しかし、典子はこの結婚を受け入れた形をとりながら、謙作に対し一つの誓いを立てていた。

それは、たとえ結婚しても、謙作以外と肉体関係を持たないというものだった。

貯水池の密会

結婚した後も、典子は謙作と逢瀬を重ね、それまで同様肉体関係を持っていた。
一方の夫とは、あの契りのとおり、一度たりとも関係を持っていなかったという。典子が言うには、そもそもケチのついた結婚でもあり、事情は夫も承知だったとのことで、そもそも夫からの求めもなかったらしいが、これは後の公判において夫は否定していた。

4月15日、小千谷市にある旧陸軍の貯水タンク付近で典子は謙作に対し、
「私が夫と離別しても、あなたに妻がいたのでは一緒になんかなれない。後々未練が残らぬように、いっそ殺してくれ。」
と執拗に迫っていた。

謙作の心はどうだったか。

謙作は実にズルい男だった。不倫している時点でそうなのだが、謙作は3年間の不倫関係において、3度も典子を妊娠させ、そのたびに中絶させていたのだ。

もちろん、典子にも多大な非はある。しかし、謙作は典子を愛人にしておきながら、実はほかにも複数交際している女性がいたのだ。

典子がそれを知っていたかどうかはわからないものの、親に背いてでも、邪魔な妻を殺害してでも謙作と一緒になるのだという強い思いがあった(いいか悪いかは別です)。

典子の思いをこの時謙作は思い知ったとみえた。
以降、典子の「妻を殺してくれ」という願いが謙作の心をぼんやりとではあるが、捉えて離さなかったようだ。

そして前々から決まっていたクルミの木の伐採の日、濁流に揺れる木の葉のような舟の上で、事故に見せかけてマスミさんを殺害することを思いついたのだった。

告白

一審の新潟地方裁判所長岡支部では謙作に対し無期懲役、典子に対して懲役10年が言い渡された。
典子、謙作ともに控訴したが、東京高裁ではいずれも棄却。特に謙作に対しては、長年善き妻、善き母として尽くしてきたマスミさんを事故に見せかけて殺害するなど言語道断、極刑に近い厳罰を持って臨まなければならないと厳しく批難した。

一方で、謙作が殺意を持ってマスミさんを殺害したとする物的証拠はなかった。
典子がマスミさんを殺してくれと頼んだというのも、いわゆる寝物語でのことであり、言葉のあやとでもいうべきか、そこまでしてでもと思うほどの強い愛情を示しただけであると弁護側は反論した。

しかし裁判所はこれを一蹴。
実は典子は、あの貯水池での密会以外でも、謙作に対してはっきりと「奥さんを殺してもらって…」という教唆をしていたのだ。
それは、謙作にあてた恋文の中にあった。

また、典子がつけていた日記の中で、マスミさんが行方不明になったという新聞記事の切り抜きが貼られているのも見つかっていた。
そしてそれらの存在は、典子の夫と仲人も、事件発覚より前に知っていたことだった。

裁判では、典子の手紙が貯水池でのやり取りとあわせて教唆の証拠となり、典子の日記に貼られた新聞記事は、願いを叶えてくれた謙作への感謝と記念であると認定した。

二人は上告。そこでは弁護側から原審にはいくつかの違法な点を審理していないことなどが上告の理由として挙げられており、最高裁はそれら(被告人の知る権利を侵害したと思われる点)は違法であると認定したが、そのうえでその違法は判決に影響を及ぼさないとして上告を棄却、二人の刑は確定した。

信濃川にも、ようやく夏の気配がしていた。

**************

昭和41年7月18日/新潟地方裁判所長岡支部/判決/
昭和42年11月13日/東京高等裁判所/第7刑事部/判決
昭和43年6月25日/最高裁判所第三小法廷/決定
昭和43年(あ)267号
最高裁判所刑事判例集22巻6号558頁
D1-Law第一法規法情報総合データベース

 

背後に地獄を従えて~納涼・怖い事件事故特集~

“And I heard as it were the noise of thunder
One of the four beasts saying come and see
And I saw
And behold a white horse”

人を殺した人の枕元に、被害者が立つという話は昔から聞かれる話だ。
もちろん、自責の念や良心の呵責にさいなまれた挙句の幻だったり、本気の妄想の可能性もある。

また、殺人現場や遺体遺棄の現場となった場所に心霊現象が起こる、幽霊が出るという話もよくある。
有名どころでいえば、秋田の連続児童殺傷事件現場において、誰もいるはずのない屋内の窓のところに人影が写った写真があるとか、秩父にある貯水槽付近で奇怪な現象が起きていたところ、実はその貯水槽から殺害され遺棄された妊婦が発見されたという話。
いずれも真偽のほどは私にはわからないが、実際にあったとする事件を絡めた怪談というものは掃いて捨てるほどある。ただその多くは、裏取りしてもそもそも該当する事件がない、という結末である。 続きを読む 背後に地獄を従えて~納涼・怖い事件事故特集~

🔓幻愛〜〜広島・小6教え子殺害事件〜

平成3年7月。
広島県豊田郡安浦町では、町内の小学校の教諭らが平成2年の春に卒業した元6年生の家々を回っていた。
その手には、卒業アルバム。しかし、教諭らの誰もが、厳しい表情を崩すことができなかった。

「現実を隠すわけにはいきませんから」

同じく厳しい表情の保護者らを前に、教諭らはそう言って卒業アルバムを手渡した。
修学旅行、音楽発表会、運動会、そして卒業式。楽しい思い出が詰まったはずの卒業アルバム。しかし、多くの元6年生とその家族は、アルバムを直視できずにいた。そのアルバムには、もう二度と会うことの出来なくなった友達と、その友達を殺した「先生」の写真があったからだ。

解体する人々~いくつかのバラバラ殺人~

まえがき

人を殺すこと自体、すでに普通ではない。
しかしそこからさらに、その被害者を解体する人々がいる。
理由は様々だろう、単に遺棄するために運びやすくするため、発見を遅らせたいため、というより、事件の発覚を防ぐため。

ほかにもある、あまりにも憎しみが深くただ命を奪うだけでは腹の虫がおさまらない逆に愛するがゆえにその肉体の一部を所有したいそして、解体したい欲求に抗えない場合。

昭和の時代から平成にかけて起きた様々なバラバラ殺人事件の背景。

バラバラ殺人の分類

Wikipediaのバラバラ殺人のページをみると、そのパターンは大きく分けて「廃棄・隠蔽型」「公開・挑戦型」「制裁・見せしめ型」の3つに分けられるとされる。
そしてそれらはさらに細かく分類され、海外では快楽殺人とみなされることが多いというが、ここでは日本国内のバラバラ殺人について考えてみたい。

バラバラ殺人の多くを占めるのはやはり廃棄・隠蔽型だろう。
そのまま遺棄してしまうより、解体すればするほど本人特定は困難になろうし、それは犯罪の発覚も当然遅らせることになる。
多くはないが、わずかな骨片や歯から犯罪が立証されることもあるし、被害者が発見されていない状態でも状況証拠によって犯罪が立証され加害者が罰せられるケースもある。
このケースとしては、姫路2女性殺害事件八王子ホスト殺害熊谷愛犬家殺人事件などが該当し、いずれもその身勝手で凄惨かつ、人間を人間とも思わない所業が注目された。

公開・挑戦型で思い浮かぶのは宮崎勤の事件と、神戸の連続児童殺傷事件である。犯行声明や遺骨を遺族に送り付ける、体の一部を校門に晒す、こんな恐ろしいことをやってのける人間がいた。

一方、制裁・見せしめ型というのは日本ではさほど聞かれない。性質上、暴力団などの反社会勢力が行うことがほとんどと思われるが、それでもせいぜい遺体が海に浮かぶくらいのもので遺体を見せしめの目的で損壊したうえ晒すという行為はなかなか聞かれない。
近いものでいえば、横浜港バラバラ殺人(通称チェーンソーバラバラ※細かいようだが実際には電ノコ)が思い浮かぶが、朝日に照らされた住宅街に生首が整然と並べてあるのがもはや日常の光景といっても過言ではないメキシコマフィアのようなケースは日本においてはほとんどない。

バラバラ殺人は時に異常性の象徴のようにも扱われる。
井の頭公園のごみ箱から発見された遺体は、臓器や骨を無視してほぼ同じサイズに解体され、指紋などが削り取られていたことから組織的な犯罪や宗教がらみの犯罪ではないかとも推測されたが、結果として未解決になった(時効成立)。
藤沢の悪魔祓い事件江東区のマンション神隠し殺人佐世保女子高生殺害事件なども分析した有識者の間からは全員一致ではないものの加害者の異常性に言及するものもあった。
日本人男性によるパリの人肉事件も、目的はバラバラにすることよりも食すことにあったが一応、人格的な問題(精神異常ではない)が根底にあったと思われる。

愛情のもつれも人を解体へと導く。古くは昭和7年の首なし娘事件(陰獣事件)。バラバラとは違うが、愛する男の局部を切り取り懐に収めた阿部定。その情念は彼女の足元にも及ばないが、平成に入っても妻の不倫相手の局部を切り取りトイレに流した男もいた。
大宮の看護師バラバラ殺人も、疑惑はいろいろとあるものの逮捕された看護師は被害者との間で抜き差しならない三角関係にあったのは事実であり、被害者を解体したのは犯罪行為の発覚を免れたいという思いだけだったかどうかはわからない。
一方福岡の美容師バラバラ殺人については、被害女性と加害女性との間に一人の男性をめぐる恋愛の邪推があったことで、加害女性の憎悪の感情によるものとみられたが、結果として解体に及んだのは非力な加害女性が運搬を容易にするためだけに行ったこと、だった。

バラバラ事件の多くは猟奇的な印象をもって語られ、人々の記憶にも残る。
その中でも、北九州で起きた連続監禁殺人はその手口や、被害者と加害者に血縁があったこと、親子間での殺害、解体など想像を絶するような内情であり、今後も忘れられない凶悪事件として名を残すだろう。
ほかにも、練馬区の不動産売買トラブルによる一家5人殺害事件島根の女子学生バラバラ殺害、そして座間の9人殺害など、時代やその動機に関係なくバラバラ殺人は起きている。いずれも、人を人とも思わないその加害者らの人間性には言葉がない。

今回は、同じバラバラ殺人であるもののそこまで有名ではないいくつかの事件を取り上げたい。

遺体とともに

バラバラ殺人の動機としては真っ先に思いつくのが、遺棄するための運搬を容易にするため、であるが、中にはせっかく(?)解体した遺体の一部をなぜか手元に置いてそのまま生活してしまう人がいる。
遺体を捨てられずに自宅や敷地内に隠蔽してしまうケースは多いし、特に新生児など、遺体さえ見つからなければどこからも捜索願は出ないわけで、犯罪発覚を防ぐためにというケースは多い。もちろん、新生児の場合は母親の親心によるものもあるだろう。

しかしバラバラにしたからには隠蔽するにしてもどこかに運んで遺棄することが念頭にあってのことだろうし、普通の感覚でいえば一刻も早く手元から離したいと考えるのではないだろうか。なぜそのまま自分の手元に置いてしまうのか。

花繚れるプランターの秘密

平成元年8月15日。千葉県市川市の主婦が、葛南署に出頭してきた。
主婦の話では、「7年前に内縁の夫が人を殺した。私もそれを手伝った」というもので、供述に基づいて主婦の自宅を捜索したところ、裏庭のプランターから成人の遺体が出た。
遺体は5つに切断されており、それぞれビニール袋に入れられて埋められていた。
葛南署は、主婦の内縁の夫で無職の増岡諭(仮名/当時30歳)と出頭してきた内縁の妻で主婦・良枝(仮名/当時26歳)を殺人の容疑で逮捕した。

事件は7年前の昭和57年に遡る。
増岡は当時から交際していた良枝とともに、印旛郡富里町日吉台のアパートで生活していた。
そのころ、増岡は知人男性と共同でルーレットの遊技場を経営していたが、この知人男性に対して50万から100万円ほどの借金もあったという。
ある時、借金の返済を厳しく求められた増岡は、知人男性を自宅に呼び、借金についての話し合いをしていたところ口論となり、殴りかかってきた知人男性を組み伏せ、そのまま文化包丁でめった刺しにして殺害。その後、良枝と二人でノコギリを用いて遺体を5つに切断した。

それから増岡と良枝は婚姻届けを出し、正式な夫婦となった。実はそのころ、良枝のおなかには子供がいたのだ。増岡は逮捕後の取り調べで、「良枝のおなかの子のことを考えると、捕まるわけにはいかなかった」と供述しており、終始良枝をかばう様子だったという。
逮捕当時、その時のおなかの子は6歳になっていた。

当時未成年だった妻を巻き込んでおいてかばうも何もないわけだが、一蓮托生、ふたりはその解体した遺体を手元に置くことで事件発覚を防ごうとした。
大型のプランターを購入すると、遺体をその中に隠して土を入れ、そこに花を植えた。引っ越す時も、当然遺体の入った袋は引っ越しの荷物に忍ばせた。そして新居でまた、プランターに埋めて花を植えたのだ。
増岡家の庭には、いつも花々が咲いていた。

事件発覚のきっかけは、強い絆で結ばれたはずのふたりの仲が冷えたことだった。
昭和63年、ふたりは離婚していた。しかし、その後も同居は続けていたという。ただ増岡は良枝とよりを戻したかったとみえ、つい、こんな脅しをかけてしまった。

「復縁しなければ事件のことをばらす。」

このままでは逃げられないと悟った良枝は、すべてを告白する道を選んだ。

裁判では増岡の本性が晒された。
逮捕直後は良枝を庇っていた増岡だったが、公判では一転、刺したのは自分ではないと言い出した。
当初は合同で始まった裁判だったが、早い段階で増岡は刺したのは妻の良枝であると主張したため、分離公判となった。
良枝は殺害現場にいたことは認めていたが、被害男性を蹴ったりしただけで殺人ほう助の罪での起訴となっていた。
ところが良枝も「殺害するつもりだったとは知らなかった」として、殺人ほう助の事実を否認。

平成2年4月25日、千葉地裁は増岡に対して懲役10年の実刑判決を言い渡した。この一か月前には、妻の良枝に対して懲役2年6月の判決も言い渡されていた。

犯行の発覚を防ぐために隠し続けた5つのごみ袋。それを隠した場所には、花が咲き乱れていた。
死体損壊と遺棄の時効は6年で成立していたが、殺人の罪を免れるためには、ふたりの絆は弱すぎた。

21年後の伊勢湾事件

平成3年3月。名古屋市北区のマンションから「異臭のする衣装ケースがあり、中に死体のようなものが入っている」と通報があった。
愛知県警捜査一課と北署が捜査したところ、その衣装ケースからはたしかに、女性の上半身が見つかった。
遺体は下半身がなく、上半身は一部白骨化し、残りはミイラ化していたという。
県警捜査一課が通報者の夫であり、この部屋の借主である男性に話を聞いたところ、男性は衝撃の告白をする。

「20年前、交際していた女性を殺して両足を切断、下半身(足)は捨てた。」

同課が過去の事件を調べなおしたところ、昭和45年に伊勢湾内の二か所で女性の片足がそれぞれ発見された事件が未解決のままとなっていることに注目、鑑定の結果、発見された上半身と、伊勢湾事件で発見された足が同一人物のものと判明した。

住人の男性からも、遺体は三重県南牟婁郡出身の横倉カツ子さん(当時24歳)だという自供が取れていた。

しかし、この事件そのもの(殺人、死体損壊、死体遺棄)が、すでに昭和60年に時効成立となっていた。

男性は、昭和45年当時にはバーテンダーの仕事をしていたという。そして、当時交際中だったホステスのカツ子さんと、名古屋市千種区のマンションで同棲していた。
ある時、カツ子さんの帰宅が遅いことから口論となり、カッとなって両手で首を絞め殺害。その後ノコギリで両足を切断すると、布にくるんで木曽川の橋の上から捨てたのだという。
足はそれぞれ、左足が昭和45年4月23日に愛知県知多郡美浜町の若松海岸防潮堤上で、右足が同年5月4日に三重県桑名郡長島町松陰の揖斐川左岸波打ち際で発見されていた。

鑑定の結果、それぞれの断面が一致することや、45年当時に足の状態から20歳以降の女性で、パンプスを履いて立ち仕事に従事している可能性のある人、といったことが分かっていたことも、ホステスだったカツ子さんのものであることをうかがわせた。
その後、男性と同居していた女性が横倉カツ子さんであるという確証も取れたことなどから、男性が殺害して隠し持っていた上半身と、伊勢湾事件で発見された両足の主は、横倉カツ子さんであると断定された。

発覚の経緯は、男性の妻(当時25歳)の通報だった。
男性はブリキの衣装ケースにカツ子さんの上半身を隠していたが、妻には「この箱は刑務所にいる友人からの預かり物で大切なものだから、絶対に触ってはいけない」ときつく言い渡されていたという。
しかし、妻はその箱から何とも言えない異臭がすることが気になっていた。
そして、ある時その箱を開けてみたところ、遺体が入っていたというわけだ。

男性は遺体を捨てずに21年間も隠し持っていた理由を、「捨てる機会を逸していた」と話したというが、一方で、「土に還してやればよかった」などと、カツ子さんに対する情を見せる供述もしていた。
捨てるにしても、愛した女性をむやみに川や山へ、というのは忍びなかったのかもしれない。それが、機会を逸した、という言葉になったのかもしれない。

県警はすでに時効が成立していることから、男性から任意で話を聞き、一応、書類送検という形をとった。

男性と妻がその後どうなったのかはわからない。

家族とともに

子供に解体させた男

平成3年3月26日、熊本市。
坪井6丁目のアパートから、「部屋の中のごみ袋から異臭がする」という届が熊本北署にあった。
ごみ袋から異臭と言われても、そもそもごみ袋であり中に生ごみが入っていれば異臭もするだろうよと思いながらも、署員がごみ袋を確認したところ、中から出たのは男性のバラバラに切断された遺体だった。

届け出たのはこの部屋の住人である女性。女性は自身の子供4人と、離婚した元夫、そして元夫の知人男性とで生活していたという。
遺体が入っていたゴミ袋は2DKのアパートの四畳半の間に5つの黒いごみ袋に入れられていた。このごみ袋は、女性によれば1週間ほど前からあったという。
遺体の身元は、どうやら同居していた内縁の夫の知人男性、長谷川正己さん(当時62歳)であると思われた。内縁の夫は、女性が届を出した以降、行方が分からなくなっていた。

警察ではアパート内に血痕があったことから、何らかの事情で死亡した長谷川さんを、この部屋で解体、そのまま放置していたとみて行方の分からない内縁の夫を指名手配した。
指名手配されたのは、無職の川端義雄(仮名/当時47歳)。27日、熊本県警捜査一課と熊本北署は、死体損壊容疑で川端の内縁の妻で届け出た女も逮捕した。

女もその後警察の調べに対し、長谷川さんが死亡した経緯をぽつりぽつりと話し始めた。

長谷川さんは平成2年の暮れに、川端がアパートに連れてきて同居し始めたという。川端は元暴力団員で、長谷川さんのことは子分のような扱いをしていた。
同居を始めた直後から、長谷川さんは殴る蹴るの暴行を受けていたといい、川端は「親分、子分のつながりをわからせる」と言っていたという。
組長気取りの川端に対し、長谷川さんは反発することもあったという。言いなりにならないことで苛立った川端は、18日頃木刀を持ち出して長谷川さんに苛烈な暴行を働いた。この時の暴行が元で、長谷川さんは死亡した。

その後、長谷川さんを捨てる目的で解体したものの、おそらく疲れ果ててしまったのだろう、ゴミ袋に入れたはいいが、その先の行動に移せずにいた。川端自身、免許を持っていなかったことも関係しているだろう。
自宅の四畳半の間にとりあえずまとめてみたものの、いくら3月でまだ肌寒い日もあるとはいえ、そのゴミ袋から発せられる臭いは、日に日に耐え難いものへと変わっていく。
根をあげたのは妻だった。もう我慢できないと、警察への出頭を仄めかしたところ、川端は逃げた。

指名手配となった川端だが、実は警察は頭を抱えていた。
この川端、実は3年前にも熊本市内で傷害事件を起こした際、なんと5ヶ月に渡って逃亡した実績があったのだ。
熊本県警は長期戦も覚悟で、川端の行方を追った。

事態が動いたのは、4月13日の夕方だった。
熊本県玉名郡内の県道で、玉名市のタクシーが路上で不自然に停車していた。通行人が訝しんで確認すると、女性のタクシー運転手が血を流して倒れていた。
幸い、搬送されて命は取り留めたが、右胸や右手、脇腹など5箇所も刺されており、3ヶ月の重傷だった。
その後、被害者の証言から逃走中の川端の犯行と断定。
警察の調べによれば、このタクシー会社に前日の12日、男から電話予約があり、事件に遭ったタクシーが走行したのとほぼ同じコースを走っていたという。
その際、女性ドライバーで、という条件がつけられていた。
事件当日も、同じ男によって同じコース、同じく女性の運転手でという条件付きの予約が入れられていた。

タクシー会社は原則、そのような条件は受け付けない、としながらも、長距離になることから営業面でのメリットがあるため、社内の女性ドライバーに確認してみたところ、被害に遭った女性が承諾したためその予約を受けたのだという。
ただこの予約、女性ドライバーというだけでなく、「独身者」という条件まであった。この時点で絶対やばいわけだが、田舎ということもあったのか、危機感は薄かった。

女性ドライバーは指定の場所で男を見つけたが、挙動不審な男に危機感を覚え、当初乗車拒否をしたというが、男は強引に乗り込んできた。
男は、川端だった。

川端はしばらく国道208号線を走らせたあと、突如後部座席から女性ドライバーを羽交い締めにし、ナイフで滅多刺しにした。
その後、車内の釣り銭数千円を強取し、徒歩で逃走したという。
県警は逃走中に重大な犯罪をまたも犯した川端は危険な状態になっていると判断、一刻も早い逮捕が必要だった。

川端が逮捕されたのはその翌日だった。
午前11時前、山鹿市のJRバス山鹿営業所のタクシー乗り場に現れた川端は、久留米インターまで走るよう運転手に頼んできた。
が、その運転手が断ったため、川端は別のタクシーに乗車したという。
タクシーが川端を乗せて走り去ったあと、最初に乗車を断った運転手は胸騒ぎを覚えていた。あの男、手配書の男じゃないのか。
通報を受けた警察が追跡したところ、川端は九州自動車道菊水インターで下車していることが判明、その直後に同インターを通過した高速バスを捜査員が追跡したところ、久留米市のバス停で追いつき車内にいた川端を逮捕したのだった。

逮捕された川端は長谷川さん殺害と、タクシー強盗も認め、その後懲役15年の判決を言い渡された。

川端は長谷川さんを殺害したあと、その処理を妻と子供に命じていた。川端の実子なのか不明だが、当時川端の家には妻の、上は13歳から下は4歳の子供たち4人がいた。
殺害と解体はこの子供達も同居する狭いアパートの中で繰り広げられておりそれだけでもとんでもない話だが、長谷川さんの遺体を解体することを、なんと子供のうちの一人にも命じていたのだ。
妻とその子供は、風呂場で長谷川さんの遺体を5つに切断、ゴミ袋に詰めた。

妻は死体損壊容疑で逮捕となったが、子供は13歳以下だったことで罪には問われなかった。
しかしその心には大きな傷が残ったことは想像に難くない。

ビーフシチューと手引きのノコギリ

平成5年11月、大阪市此花区の舞洲北岸を散歩していた男性は、テトラポットの間に何かが漂っているのを見つけた。
近づいてみると、それは人間の頭部だったことで警察に通報。
損傷が激しかったこともあり身元の確認は難航、当初は女性だと思われたその頭部は、のちに男性のものということは判明した。

その頃、大阪市港区で一人の男性の行方が分からなくなっていた。男性は妻がいたが、妻によれば「勝手に家出した」と話していたが、なぜか捜索願を出していなかった。
さらに、男性と連絡が取れなくなったことを心配した友人に、「出張に出ている」と話したかと思えば、「離婚届を置いて出て行った」「仕事に行き詰っていた」などと、自殺を前提とした失踪をにおわせるようなことを言っていたという。

ただ、実際に男性の携帯電話が解約されており、解約を担当したショップのスタッフらも、男性本人と思われる人物が電話をしてきたと話していて、真相は杳としてつかめずにいた。

ところが、平成5年2月になって、男性の妻は港署に夫の捜索願を出す。理由は、夫の友人らが「行方不明になって相当経つのに捜索願を出さないのはおかしい」と訝しんだからだった。
妻は警察に対し、「昨年の11月中旬、仕事に出ると言ったきり行方が分からなくなった」と話していたが、実際に夫がいなくなったのは10月だった。

妻から捜索願が出たことで、当然舞洲で発見された頭部の鑑定が行われ、その頭部こそが行方不明の男性であると断定、頭部の身元は、港区市岡の冷暖房設備業、石谷松男さん(当時45歳)だった。

するとここでおかしな事実が浮かび上がった。
妻は石谷さんが行方不明になった時期を平成4年の11月と話していたが、頭部の鑑定の結果、死亡推定時期は平成4年の10月で、妻の話には明らかな矛盾が生じていたのだ。

2月20日未明、大阪府警捜査一課と此花署捜査本部は、石谷さんの遺体を切断して頭部を捨てたとして、妻の美佐子(仮名/当時44歳)と、美佐子の実弟であり、石谷さんの部下でもある松野泰弘(仮名/当時40歳)を逮捕した。
松野は姉の美佐子と共謀して石谷さんを殺害したことについても認めていたが、美佐子は否認していた。

松野の供述によると、姉の美佐子から夫婦仲が悪いことを聞かされ、その要因が義兄である石谷さんにあると知り、さらには美佐子から金銭をチラつかされたことから犯行に加担。
美佐子があらかじめ睡眠薬を混ぜたビーフシチューを食べさせると、意識が混濁した石谷さんを二人して絞殺。その後、解体したのちに会社の軽バンに遺体を積み込むと、阪神高速湾岸線上の神崎川橋から海に遺体を放り捨てた。
その後淡路島まで走らせ、複数の場所で遺体を捨てたと自供した。携帯電話の解約をしたのも、松野だった。

美佐子は石谷さんに虐げられていたという。
会社経営者であり、ある程度自由になる金があったようだが、それは次第に度を越していった。
遊び歩く石谷さんの会社の業績は悪化の一途をたどり、にもかかわらず、石谷さんは女遊びをやめられなかったという。
しまいには借金してまで、女に入れあげた。
美佐子の心には、憎悪とともに石谷さんにかけられていた1億円の生命保険の解約返戻金のことがあった。

実弟の松野に対し、ことあるごとに石谷さんの所業を話して聞かせるうち、松野も「義兄が働かず姉が苦しい思いをしていた。殺さなければならない」と思うようになり、加えて美佐子から生命保険金の解約返戻金から1千万円を渡すといわれ、松野の心は決まった。

解体には手引きのノコギリを使用したという。当初は効率化をはかって電動ノコギリで解体を試みたというが、思いのほか肉片が飛び散ったことに慄き、時間はかかるものの普通のノコギリで解体した、と松野は話した。

義理とはいえ兄であり、会社の社長だった人間をその手で解体するというのは、どういう気分なのだろうか。
裁判では石谷さんの落ち度も一定割合認定されたが、大阪地裁は二人に対し、
「冷酷、残忍な犯行。遺体をごみのように扱うなど著しく人間性を欠いている」
として美佐子に懲役15年、松野には懲役12年を言い渡した。

離婚でもなく別居でもなく、殺害を選んだ美佐子の心理は実に興味深い。離婚しなかったのは単に石谷さんが応じなかったのか、それとも、美佐子自身、離婚してしまうと石谷さんの思う壺だと思ったのか。
解体したのは、この事件より前に住之江で起きたバラバラ殺人からヒントを得たのだという。単に事件の発覚を遅らせ、捨てやすくする為だと思われるが、手引きのノコギリから直に伝わる石谷さんの肉を引き裂く感触は、忘れられるものとは思えない。

浄化槽に浮かんだ「鶏肉?」

昭和61年5月15日。新潟市内のラブホテルの浄化槽の定期点検に訪れた作業員は、浄化槽に浮かぶドロリとした固形物に目をとめた。
それらは10センチ四方の柔らかなもので、よく見ると毛穴のようなものが見えた。作業員は「鶏肉の皮?」と思った。
浄化槽はホテル内のトイレからの汚水が集められるため、なんで鶏肉なんかトイレから流したんだろうと思った作業員が浄化槽をかき混ぜてみると、少し大きな鶏肉が浮かんできた。
「まさか、そんなこと…」
作業員は青ざめた。その浮いた「鶏肉」には、人間の爪がついていたのだ。

通報を受けて浄化槽をさらった新潟東署によると、肉片は全部で60個ほど見つかった。総重量で約5キロ、その中に頭部、骨、内臓は含まれていなかったという。
作業員が見つけた爪がついた部分は足の指で、骨はなかった。

新潟県警は殺人と死体遺棄事件として捜査、まずは被害者の身元特定に全力を挙げた。
地元や周辺での行方不明者には該当者がおらず、ホテルという場所柄、他県からの利用者の可能性も視野に聞き込みを続けていると、先月の中旬に香川ナンバーの乗用車がこのホテルを利用していたことが判明。
新潟県警は浄化槽から見つかった指から辛うじて採取できた指紋を、香川県警に照会。すると、このホテルで香川ナンバーの車が目撃された時期に行方不明となっていた高松市内の女性と一致した。

乗用車もその女性のものと確認され、浄化槽に浮いた肉片は高松市在住の店員、青木ユミ子さん(仮名/当時49歳)と断定された。

ユミ子さんの自宅のふろ場からはルミノール反応が出たため、この風呂場で解体された後、新潟のホテルでその一部が捨てられたとみられた。

ユミ子さんは全夫との間に生まれた娘と、再婚した夫との3人暮らしだったというが、実はユミ子さん失踪直後、この夫の行方も分からなくなっていたのだ。
夫は自分名義の預金を200万、そして義理の娘の口座からも30万ほど引き出した後、行方が分からなくなった。
捜査本部はこの夫が事情を知っているとみたが、実はこの夫、すでに別の容疑で全国指名手配中だった。
それは、義理の娘に対する暴行容疑だった。

指名手配されたのはユミ子さんの夫で元クレーン運転手の青木邦男(仮名/当時37歳)。
邦男の足取りはつかめていなかったが、新潟のラブホテルで肉片が見つかった後、別のホテルの浄化槽からもユミ子さんのものと思われる肉片が発見され、そのホテルの防犯カメラにも香川ナンバーのユミ子さんの車が映っていた。
ホテルを利用したのも、証言から邦男で間違いなく、邦男はユミ子さんが何らかの事情で死亡した後、風呂場で解体して複数の場所に遺棄しているとみられ、遺体の回収などを考えても一刻も早く邦男を見つけ出さなければならなかった。

邦男の足取りがつかめたのは事件から2週間後の5月30日。しかも、邦男本人からの「電話」だった。
滋賀県野洲郡内の農家から、地元の読売新聞大津支局に電話があった。
電話の主は「猟奇殺人で指名手配されてるもんだが」と言っていて、駆け付けた新聞記者に自身の言い分を話して聞かせたという。
その中で、自分は殺してない、ということを話したようだが、通報を受けていた滋賀県警によって逮捕となった。

邦男とユミ子さんは昭和58年に知り合った。当時ユミ子さんは既婚者だったが、酒好きなこともあり高松市内で小料理屋を営んでいたというが、なかなか経営は厳しく1年で閉店、その時借金が300万円以上にもなっていたことで夫とは離婚した。
離婚後にユミ子さんが働いていた炉端焼き屋の常連客が、邦男だった。

邦男は高松市内で生まれ、中学を出た後は中国地方を転々としながら生きていた。
特にこれといった趣味や仕事もなく、その日その日に流されるように生きていた邦男は、年上のユミ子さんの包容力に惹かれたのか、交際を始める。
その後ふたりは同棲、ふらふらしていた邦男も正社員の職に就き、ユミ子さんも当時は鰻屋で働いていた。
周囲からも仲睦まじく見られていたというが、昭和61年、二人の関係は怪しくなる。

邦男の元来の怠け癖が出たのか、せっかく正社員で勤めていた会社を辞めたのだ。ユミ子さんはたしなめたというが、それでもユミ子さん自身仕事をしていたこともあり尻を叩いて次の仕事を探させるようなこともなかった。
が、いつまでたっても仕事をしようとしない邦男に、次第に愛想も尽きてくる。

ある時、邦男はユミ子の娘の貯金に手を付けようとした。当時、ユミ子さんは自分名義のマンションを借りてそこで邦男と暮らしていたが、そこに娘も呼び寄せていたのだ。
どうやら邦男は自分の店を持ちたいと思いついていたようで、その資金に、ユミ子さんとユミ子さんの娘の貯金を充てようとしていたようだった。

当然反対するユミ子さんとは、連日口論が絶えなくなった。
4月19日、ユミ子さんの長女が出勤した後、二人はまた口論となる。
そこで、ユミ子さんの口から「ぐうたら男!」という言葉が出た。邦男は激高し、ユミ子さんの首を絞めてしまう。そして、気が付くとユミ子さんは動かなくなっていた。

その後の邦男の行動は早かった。日々流されダラダラしていた男とは思えぬ行動力で、鰻屋へユミ子さんが休む旨の電話をし、娘の勤務先にも「お母さん(ユミ子さん)は大阪で葬式があるんやが、おまえはどうする?」と何食わぬ顔で電話した。
親戚でもない人の葬式に行くはずもない娘が今日は友達のところに泊まる、と言ったのを確認し、邦男はすぐさまユミ子さんの遺体を浴室に運び、バラバラに解体した。

その際、もっと細かくしないとすぐばれると思い、10センチ四方に切り刻んだというが、結局途中で「嫌になって」手足についてはそのままごみ袋に放り込んだ。
そして、広島、鳥取を経由し新潟市内へ入り、宿泊したラブホテルの浴室でやり残していた手足の肉をそぎ落とすと、骨以外をトイレに流したのだ。ちなみにほかの部位は通過した県の山や海に次々捨てていた。

邦男は包丁を手に、逃走前夜、ユミ子さんの娘の部屋へ向かった。
そしてそこで、義理の娘に暴行を加えてから逃走した。
娘が突き付けられた包丁は、母が切り刻まれた包丁だった。

邦男の裁判、判決については資料がなくわからなかった(わかれば追記)が、もしももっと細かくしてからトイレに流していたら、おそらく当時の科学捜査ではわかりようがなかったのではないか。
ここで興味深いのは、バラバラにし始めて途中で「嫌になる」犯人が一定数いるということだ。
当サイトで過去に書いた、交野市の夫バラバラ殺人でも、まるで途中で放り出したかのように解体途中の遺体はそのまま放置されていた。

邦男も、せっせと解体作業に取り掛かったのもつかの間、その後は逃走しながら大きな部分は海や山に捨て、指紋などがある部分は削ぎ落して細切れにしたものの、結果としてラブホテルの浄化槽に浮いた肉片の一部から指紋が割れた。

何事も長続きせず、日々思いつくままに流された男は、最後まで長続きしなかった。

解体する人々

私は飼っているアラスカンマラミュートのために肉屋でもらった牛骨(生)をノコギリでバラすことがあるが、あっという間に切れなくなる。脂がのこぎりの歯に詰まって切れなくなるのだ。そのたびに熱湯で脂を落としながらの作業はとんでもなく大変だ。
血抜きも十分でない場合は臭いも凄まじいと聞く。そのにおいをごまかすために、わざわざ煮たりカレーにしたりと工夫を凝らす人もいるという。

埼玉の愛犬家殺人や北九州監禁、暴力団がらみのように、殺人自体何かの解決の手段としか考えておらず、かつ、犯罪の発覚を防ぐ目的でハナから解体しようと決めているケースはさておき、多くの事件は殺してしまった後で処理に困って、というパターンが多い。

女性でもそれをやってのけていることを考えると、力はそんなにいらないのだろうと思うがそれにしても、風呂場で黙々とナタを、ノコギリを、包丁を使って行うそれはどんな犯罪よりも「不気味」である。
他人や、憎い相手ならばいざ知らず、肉親や配偶者に対してそれを行うその心はどうなっているのか。
何を考えながら、罪を重ねているのだろうか。

「やるしかない」なのか、それとも「こんなはずじゃなかった」なのか。

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参考文献

バラバラ殺人の系譜 龍田恵子 青弓社
無限回廊 戦後の主なバラバラ殺人事件
事件録 

朝日新聞社 昭和61年5月26日東京朝刊、平成元年9月6日、平成3年3月13日名古屋朝刊、平成15年2月19日大阪夕刊
読売新聞社 平成元年9月2日東京朝刊、平成3年3月27日西部夕刊、3月28日、4月1日、4月15日、4月19日西部朝刊、平成15年2月20日大阪夕刊、大阪朝刊、3月13日、6月16日、12月18日大阪夕刊、
産経新聞社 平成15年3月11日大阪朝刊、8月14日、9月25日大阪夕刊
NHKニュース 平成元年10月13日、平成2年3月14日、4月25日
毎日新聞社 平成2年4月25日東京朝刊、平成3年3月11日大阪朝刊、東京朝刊、平成3年2月20日大阪夕刊、2月21日、2月24日大阪朝刊、平成15年12月18日大阪夕刊
中日新聞社 平成3年3月10日朝刊
西日本新聞社 平成3年3月27日夕刊、4月3日、4月14日、4月16日朝刊
熊本日日新聞社 平成3年4月16日夕刊

🔓ママなんか怖くない~ひたちなか市・小1女児せっかん死事件~

台所にて

「これ、どうすんの?」
「立たせとけばいいんじゃない?」

女は目の前にいる女児をそういうと手近にあったモップの金属製の柄で力任せに殴りつけた。女児は悲鳴をあげるが、それでも殴打する手を止めない。
やがて女児の悲鳴は獣の咆哮のようなものへと変化。さらには脱糞するまでにいたった。

「汚い!あっちいって」

まるで汚物を押し付けあうかのように女児の体をどつき回す大人たち。

そしてその日の午後、女児はたった6年の生涯を一人ぼっちで閉じた。

平成12年3月23日、水戸地裁の松尾昭一裁判長は3人の男女にそれぞれ懲役4年から6年の実刑判決を言い渡した。
3人は、あの女児の実母と養父、そして、女児と同じ名前を持つ、実母の友人の女だった。