殺す親、殺される子供~3つの子殺し~

まえがき

子供は、誰にどのように育てられたか、が非常に大切であると私は考えている。
危険から守り話を聞いてくれる大人がいて、教育と適切なしつけを受けられ、衣食住がそれなりに足りていること。
ここに出てくる「大人」は、血のつながりは関係ない。両親がいなくても、自分を守ってくれる存在があればよい。

たとえ衣食住が足りていてもその守ってくれる存在がない、それだけで子供の環境は劇的に悪化し、ましてや本来保護してくれるはずの両親、あるいは両親のどちらかが「危険」な存在であったとしたら。

親であるというだけで外部からそれは見えなくなり、ことは軽く考えられ、結果子供の命は脅かされる。

殺す親と、殺される子供の事件。

荒川区の母親と子供

平成26年12月29日、荒川区のマンションの13階から5歳の男の子が転落したと警察に通報があった。
外出先から帰宅した父親が、男児が家の中にいないことを知って外を確認したところ、マンション敷地内で男児が倒れていたのを発見したという。男児は間もなく死亡が確認された。

亡くなったのは、このマンションで両親と暮らす山岡光希ちゃん(苗字のみ仮名/当時5歳)。
光希ちゃんが転落した当時、自宅には母親がいて、光希ちゃんは就寝しているはずだった。
所用で直前に家を出た父親が10分後に帰宅すると、母親が狼狽えて光希ちゃんの姿が見えないと話したといい、周辺を捜索したところ倒れている光希ちゃんが発見された。

母親は自宅にいたがトイレに行くなどして気付いたら寝室の窓が開いていたという。
状況から、光希ちゃんが両親の姿が見えないことを不安に思い、窓から身を乗り出すなどして転落したとみていたが、不審な点があった。
転落したとみられる窓とその周辺に、光希ちゃんの指紋が一切ついていなかったのだ。

さらに、母親が一週間ほど前に光希ちゃんに対し、首を絞めるという行動に出ていた事実も発覚。
平成12年12月30日、警視庁尾久署はこの母親をまずその時の殺人未遂容疑で逮捕し、あわせて今回の光希ちゃんの転落についても関与しているとみて捜査を開始した。

ただ、この母親には精神科への通院歴があったため、逮捕後およそ3か月かけて精神鑑定が行われることになった。

クリスマスパーティーの夜

逮捕されたのは加藤愛(当時35歳)。調べによると、第一の事件として、平成15年12月23日、荒川区のホテルで行われた夫の会社のクリスマスパーティーにおいて、愛は光希ちゃんを女性トイレに連れ込むとその個室内で暴行を働いた。
捜しに来た夫や知人女性らがトイレに入ると、個室の中から「ママ、ごめんなさい」という光希くんの悲痛な声が聞こえたという。
夫らが必死でなだめ説得したところ、その時は光希くんを解放。しかし光希くんの首には、何かで絞められたような赤い痕が痛々しく残っていた。

愛はこの日の出来事を「何か飲み込んだようだったため、それを吐かせようとしていた」などと夫らに釈明し、首を絞めたことを頑として認めなかった。
夫はそれでも不信感がぬぐえず、また、光希ちゃん自身がトイレ内の電源コードを指さし、「あれでママに首痛くされた」と話したことから証拠として光希ちゃんの顔と首の状態を写真に残した。

この事件があって一週間もしないうちの悲劇だった。
しかも、夫はこの23日の出来事を警察に「妻の精神が不安定で子供に危害を加えた。精神科に入院させたい」と電話をかけていたが、相談にとどまったことと、その時住所も氏名も言わずに電話を切ったことから、警察ではそれ以上の対応が出来ていなかった。

その電話は、光希ちゃんが転落する9時間前のことだった。

愛はクリスマスパーティーの夜の事件で逮捕されたが、当然、光希ちゃんの転落死についても関与が疑われた。
精神鑑定が行われたのちの平成27年5月、警視庁捜査一課は愛に刑事責任能力があると判断、光希ちゃんを投げ落としたとして愛を殺人の容疑で再逮捕した。
取り調べにおいて、愛は光希ちゃんを自ら抱き上げ、13階の自宅マンションの窓から落としたことを認めていた。
しかし、平成28年3月から始まった裁判員裁判において、愛は光希ちゃん殺害を否認した。

手に負えない女

裁判の過程で、愛のそれまでと、結婚生活が明らかとなった。
幼い頃家庭に恵まれなかったことや、義理の父親から首を絞められるという虐待経験があったことも分かった。さらに、軽度ではあるが、愛には知的障害もあった。

これらの事実を踏まえ、弁護側は12月23日のトイレでの事件は、過去の虐待体験がフラッシュバックして発作的にしてしまった行動であり、そこに殺意はないとし、殺人未遂ではなく傷害罪に留まると主張、さらに、転落死については完全な事故死であるとして無罪を主張した。

一方で検察側は、年の離れた夫の愛情を独り占めしたいという愛の独りよがりな願望が根底にあり、光希ちゃんが生まれたことでその夫の愛情が光希ちゃんへ向けられることへの苛立ち、さらには育児へのストレスがあいまって、光希ちゃんがいなくなればまた夫と二人の生活が送れると考えるに至り、短時間に躊躇なく殺害しており悪質として、懲役15年を求刑していた。

証人尋問では、クリスマスパーティーの夜の事件を間近で見て、愛に対し説得を試みた知人女性が出廷。
普段から愛は子育てや光希ちゃん自身に興味がない様子だったと証言、一方で、光希ちゃんは常々不安定な母親を気遣い、幼いながらに「ママ、大丈夫?」と心配していたといい、とにかくかわいくて良い子だったと涙ながらに話した。

光希ちゃんの父親である愛の元夫(裁判当時は離婚済み)も証言台に立った。
元夫によれば、精神的に不安定になった愛を入院させるか迷っていた時、光希ちゃんに「ママいなくなっても(入院しても)大丈夫か?」と聞いたという。
光希ちゃんは、「大丈夫、でもママは好きだから僕が守る」と答えたのだという。
元夫から見ても、愛は育児に割く時間を極力減らそうとしており、光希ちゃんに対しても一緒にいたくないような、そんな風に思えていた。
それでも、光希ちゃんはそんなママが大好きだったのだと、苦しい胸の内を証言した。

しかしそんな関係者らの証言をよそに、愛は一貫して「転落は事故。私は関係ない」という主張を変えなかった。ホテルでの首絞めに関しては認めはしたものの、発作的な行動であり、殺意などなかったと話した。

転落した夜については、
「おならをしたため換気する目的で寝室の窓を開けた。その後、トイレに入っていた時に光希が起きだしてパパを呼ぶ声がしていたから、窓から身を乗り出して落ちたと思う。」
という主張を繰り広げ、窓枠に光希ちゃんの指紋がなかったことについては、自分が窓枠を拭いたからだと話した。
息子が転落した状況であるにもかかわらず真っ先に窓枠を拭くという不可解な行動をしたことについては、
「自分が落としたと疑われると思ったから、自分の指紋を拭くためにしたこと」
とこれまた理解に苦しむ供述をした。

ただ、取り調べの段階では愛は光希ちゃんを窓から落としたことを完全に認めていた。しかもその様子は録画されており、裁判で公開された。
もちろんそれは当初の予定通りのことであり、この裁判の争点は
「愛の取り調べ段階での供述の信用性」
だった。

懲役11年

裁判員裁判として行われた公判では、証拠としてその取り調べの様子を録画したビデオが提出された。
それによれば、愛は当初より録画されていることを認識したうえで、「子どもなんかいないほうがいいと思い、窓から突き落とした」「(成長して)体重が重くなると抱えられない。今だったら自分一人の力でできると思った」などと、光希ちゃんに対する明らかな殺意を認め、その方法についても自発的に証言していた。
あまりにしゃべるため、警察官の側が「あなたは今、自発的に話していますか?」と確認する場面もあった。

それを受けて、公判で無罪主張に転じた愛は、
「自責の念から自分が殺したようなものだ、と考えた」という主張を展開したが、裁判員らの目には何が真実かは明らかだった。

平成28年3月23日、東京地裁の斎藤啓昭裁判長は、
「自白は体験しなければ語ることができない臨場感があり、供述の信用性に疑問はない。」とし、愛の無罪主張を退けた。
一方で、クリスマスパーティーの夜の首絞めについては、発作的な側面が否めず、殺意の認定までは出来ないとして傷害罪にとどまるとした。

そのうえで、
「長男を殺害すれば夫と二人だけの生活に戻って愛情を独占でき、育児のストレスから逃れられると考えた。5歳の長男が母親によって人生を奪われた結果はあまりにも無残で、取り返しがつかない」
として、愛に懲役11年の判決を言い渡した。

盗癖

事件後、詳細が明らかになり、23日の首絞め事件が報道されると一部では元夫の行動に疑問が集まった。
光希ちゃんが死亡した夜、元夫は所用で短時間ではあったが一人外出していた。つい先日、我が子の首を絞めしかもそれを反省もせずに認めようともしない妻と、その被害に遭った当事者である我が子を二人きりにさせたことが理解に苦しむ、というのが理由だった。

実はこの外出には、重大な理由があった。

愛は「盗癖」があったのだ。
始まりは平成21年、ちょうど光希ちゃんが生まれた頃からだという。
愛は万引きを繰り返し、何度も検挙されていた。その盗癖は酷く、回数は数えきれず身元引受で呼び出された元夫が謝罪している最中にも盗みを働くという有様だった。

事態を重く考えた元夫は、四六時中愛を監視するようになる。監視と言っても、会社経営者だった元夫が自身の会社に愛を同行させ、常に人の目がある場所に愛を置いておく、そういう状態だった。
これは致し方ないと思うが、当の愛にとっては相当なストレスだったらしい。
そこに子育てが加わり、本来一身に浴びるはずの夫からの愛情が光希ちゃんにも注がれることが、愛には我慢ならなかった。
盗癖は治まらず、平成26年12月、とうとう元夫は離婚届を突き付けた。

「今度やったら、離婚する。息子は自分が引き取る」

そう愛に告げたというが、実質これが愛の心の闇を増幅させてしまった。

光希ちゃんが転落したあの夜、元夫が外出したのは理由があった。
携帯電話を会社に忘れたと、夜になって突然愛が言い出した。そして、それを取りに行くと言った。
当然、一人になど出来るわけもなく、携帯電話は元夫が会社へ取りに戻ることにしたのだ。
会社と自宅マンションは往復10分ほどの距離だったことで、夫は急いで会社へと戻った。
その、10分の間に、愛は光希ちゃんを投げ落としたのだ。

これについては、計画性は否定されたが実際に携帯電話は「わざと」置き忘れていた。
愛はこの日、外出先から会社の駐車場へと家族で戻った時、「忘れ物をした」といっていったん会社の中へ戻っていた。そしてその時に、「わざと」携帯電話を置いてきていたのだ。

そして元夫が携帯電話を取りに戻るため目を離したたった10分の間に、光希ちゃんを窓から落とし、窓枠を拭いてコロコロを落とすなどの偽装をした後、マンションから出て光希ちゃんを探すふりをしながら夫と合流したのだ。

これを、計画的と言わずしてなんというのだろうか。
もちろん、携帯電話を忘れたから取りに戻る、というのを口実にまたどこかで盗みを働くつもりだった可能性もある。だからこそ、元夫は家にいろと命じ、自分が代わりに取りに行ったのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。いつ何時も「家の外で」一人にはさせてもらえなかったほどなのに、忘れ物を取りに行かせてもらえるなどと思うだろうか。

もし、元夫が取りに行くことになるのを想定していたとしたら。というか、最初から目的が光希ちゃんを殺害することだったなら。

裁判ではその計画性までは認定されなかったが、少なくとも懲役15年が11年に減った要因でもあるだろう。

光希ちゃんは母親によって突き落とされ、血まみれで倒れていた。父親が駆け付け抱き寄せると、父親の指をぎゅっと握ったという。
人工呼吸を施した際には、父親の舌を嚙んだという。
母は最後まで反省の色も、涙も、見せることはなかった。

福岡の子沢山家族

平成10年1月7日、福岡県東区。
福岡市内の病院に幼い男の子が運び込まれた。
付き添っていたのは母親とみられ、遅れて男児の父親も駆けつけた。
しかしすでに男児は死亡しており、両親らに事情を聞くと、
「前日の夜、言うことを聞かないために躾のつもりで屋外に出していた。暗くなればそのうち家の中に入ってくるだろうと思い、確認せずに寝てしまっていた。昼ごろ、外に倒れているのを発見した。」
ということをしどろもどろになりながら答えた。

男児の死因は凍死。運ばれた際も、男児が着ていたのはTシャツにトレーナー、そして下半身はなぜか裸で、足首には何かのコードのようなものが巻き付いていた。
しかも、男児の体には複数の火傷と見られる化膿した傷痕、顔面には殴られたような内出血の痕が認められた。

病院から連絡を受けた警察は両親から事情を聞き、ひどく憔悴していたことや、母親が「玄関には鍵はかかっておらず、まさか一晩中外にいるとは思わなかった」と述べ落ち込んでいたことなどから、不幸な事故であると判断。母親の過失は問わない方針を示した。

しかし2ヶ月後の3月3日、福岡県警捜査一課と東署は、男児を殴り2週間の怪我を負わせたとして父親を傷害と保護責任者遺棄致死の容疑で、そして母親を保護責任者遺棄致死の容疑で書類送検した。

大家族

書類送検されたのは福岡県東区在住の内装業、河野圭一(仮名/当時30歳)と、妻で無職の恵理子(仮名/当時34歳)。
死亡したのは、圭一の息子の大輔くん(仮名/当時6歳)だった。

実はこの夫婦には、大輔くんの他に上は15歳、下は0歳までの7人の子供がいた。
圭一と恵理子は再婚同士で、大輔くんが圭一と前妻との間の子、上の5人が恵理子の連れ子、そして二人の間の子供が2人という構成だった(事件当時)。

大輔くんは平成3年10月16日に圭一と前妻との間に生まれ、当初は圭一の実家で祖父母らと同居する生活を送っていた。
しかし大輔くんが1歳の頃、母親が別居。その1ヶ月後には、父親の圭一も実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育された。
両親はその3年後に離婚した。

一方の恵理子もまた、パンチの効いた人生を歩んでいた。
恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産んだ。そして平成5年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいる。
しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子が離婚する1年前、テレクラである。
この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。
平成8年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出。圭一は恵理子の5人の子供と養子縁組をした。
大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃である。同じように、恵理子も大輔くんと養子縁組をした。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれている……

圭一と大輔くん、恵理子とその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園する。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えた。
事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子の連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一と恵理子の生まれたばかりの子供が在籍していた。

ここでの大輔くんの一家は、強烈な印象を残している。

要注意の親子

入園当初から、大輔くんは「異様」だった。
表現が正しくないことは百も承知だが、「飢えている(かつえている)」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常だった。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったという。
他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えなかった。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもあった。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきた。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたという。
病院では2針縫う処置がとられた。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせた。
「おうちで何かされたと?」
保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えない。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていた。

園では母親の恵理子についても対応に苦慮していた。
あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのだろう、園の着替えを着せたことがあったという。
すると恵理子は、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って食ってかかった。
ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。
さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節があった。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子に対し、大輔くんも態度が頑なになっているようだった。

事件の日

正月、圭一と家族は全員で圭一の実家へと新年の挨拶に出かけた。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったという。
5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一と恵理子はもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めた。
しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子は外で立っているように言いつける。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいた。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一にそう言われた恵理子は、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一と恵理子は大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。
恵理子が気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表。
しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子が、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断。
圭一については日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子に指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となった。

恵理子は大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていた。

育て難い子

書類送検とはいえ二人は起訴された。
平成13年から始まった裁判では、圭一による大輔くんへの暴行と、恵理子の日頃の大輔くんとの関わり方などが詳らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされた。
大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたという。
また、大輔くんの特徴として恵理子は、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していた。

ただ、これらのことは恵理子の主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もあった。
平成9年の7月頃、恵理子が出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがあった。
その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったという。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もあった。

恵理子はその結果を聞かされ、圭一との間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一も恵理子もそれを了承もしていた。
しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子が言い出し、施設入所は白紙になってしまった。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子と圭一にとってもいいことだったはずだ。
ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子は医師に対し、
「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」
と話していたことをカルテに記していた。

恵理子は保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一よりも遥かに大輔くんに接してはいた。
しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象がある。
言い方を選ばずにいえば、恵理子は子供を産むことしか取り柄のない女だったように思う。無計画にも程がある出産歴に、私は正直嫌悪感を抱いた。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのだ。
だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶した。取り上げられては困ったのだ。苦労している自分を演じられなくなってしまうからだ。

裁判中も、恵理子は検事から親としての自覚のなさを問われると、
「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もあった。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かった。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済んだ。
小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られた。
また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていた。
円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものだった。
胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白だった。

恵理子と圭一は、何かにつけて大輔くんに食事を与えなかったり、外に放置する、あるいは動く回れないよう足首を家具に縛り付けるといった虐待を行なっていたが、圭一と恵理子にしてみればそれらは全て正当な理由のもとに行われてきたものだと信じて疑わなかった。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、
「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」
とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難した。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という激甘だった。

理由は、家に残った8人の子供の存在だった。

投書

時代的なこともあるだろうが、やはり子殺しは軽い。
結局、裁判長をして「悲惨」と言わしめた大輔くんの死に対する圭一と恵理子が受けた罰は、「真面目に反省してください」と言うお言葉だけだったに等しかった。

確かに汲むべき事情というか、大輔くんの問題行動や子供の多さなどいろいろあったろうが、いやいやそれら全て、この二人が選択して作り上げてきたものではないのか。
無計画に子供を作りまくったのも、自分たちが好きで作ったんじゃないのか。

そしてその無計画に生みまくった子供たちの存在が、この親を懲役から救ったわけだ。うーん。

当初警察が事故として扱うと発表したあと、高知新聞に投書が掲載された。
30代の保育士と名乗る女性は、真っ向この警察の判断に抗議した。
女性は、
「事故死だなんて到底思えない。冬の夜に、一晩外にいれば死んでしまうかもしれないということもわからないほどの子どもに、家の外にいるように言ったまま様子を見に行くこともしないなんて殺人行為ではないでしょうか?
(中略)
最近、幼児虐待についての問題が表面化していますが、この事件を事故死で片付けてしまう警察や日本の法律には、虐待されている子どもたちを救おうとする気持ちすら感じられない
(中略)
でも傷つけたのが自分の子どもなら、親はどんな言い訳も可能です。自分の親に傷つけられた子どもの気持ちは、誰が代弁してやるのでしょうか。
子どもの心を思えば、他人から受ける暴力よりも、自分の頼るべき人から受ける暴力の方がより深く傷つくのではないでしょうか。(後略)」

首がもげるほど同意とはこのことだと思うほど、この女性が抱く危機感は重要なことである。
なんとか警察も事件化したとはいえ、結果として法は大輔くんの無念に寄り添いながらも、殺した親を優先させた。
というか、こんな親に8人も子育てさせるのかよ・・・

大変だったから、育て難い子だったから、一人くらい死んでも仕方ないとでもいうのだろうか。

盗み癖があったという大輔くんは、正月に祖父母にもらったお年玉を、封も開けずにそのまま恵理子に手渡していた。断言してもいいが、この親は子供のお年玉を巻き上げていた。
小さな体に、しつけという名の暴力を一身に受け続けてきた大輔くんのことを、兄弟姉妹たちは覚えているんだろうか。

松本の若い夫婦

平成13年5月24日。新緑眩しい長野県塩尻市のみどり湖に、スポーツバッグが浮いた。
釣りのできる湖としても知られるみどり湖には管理人がおり、この日も釣り客から料金を徴収するために釣り桟橋を渡っていた時、そのバッグを見つけたという。
単なる不法投棄かと、そのバッグを引き揚げてみると、とてつもない異臭がしたため、通報。アシックス製のビニールのスポーツバッグのファスナーは閉じられたままだった。

駆けつけた警察官によってスポーツバッグが開けられると、中から小さな遺体が見つかった。
身長約80センチ、前屈みに膝を抱えるような状態で押し込まれたその遺体は、すでに腐敗が始まっていた。

そして、遺体と一緒に、ソフトボールくらいの大きさの石が数個、入れられていた。

判明しない身元

警察では、死体遺棄事件として捜査を開始したが、そもそもこの遺体がどこの誰なのか、全く分からなかった。
遺体の身長などから、間違いなく2歳前後の幼児であることはわかっていたが、塩尻市内に行方のわからない幼児はいなかった。
入れられていたスポーツバッグも大量に流通しているもので、遺体と一緒に入れられていたタオルと、なぜか女性用のレース製のショーツも、特に身元につながるようなものではなかった。

遺体発見から1週間、死因すら特定できず、捜査は難航。
ただ、幼児の血液型はAB型、上下に8本ずつ歯が生え出していたこと、そして、腕にはBCGの注射痕があることが判明した。
そこで、塩尻署と県警捜査一課は、塩尻市だけでなく松本、諏訪、岡谷、茅野などの中南信地方の自治体に、BCGを受けた1〜3歳の幼児について行方がわからなくなっている子供がいないかを中心に探った。

遺体発見から1ヶ月が経過した6月27日。
松本市内の託児所から、4月以降姿を見ていない当時1歳9ヶ月の子供がいると連絡が入り、捜査員らが両親から事情を聞いたところ、両親が子供をみどり湖に棄てたことを認めた。
死体遺棄容疑で逮捕されたのは、松本市在住の飲食店店員、林善彦(当時22歳)と、妻の絵美(当時21歳)という、若い夫婦だった。

二人のそれまで

湖に棄てられていたのは、長男の克樹ちゃん(当時1歳9ヶ月)で、二人は「克樹が死んだので湖に棄てた」と供述していたが、その死因については曖昧な供述しかしていなかった。

死亡の経緯は別として、二人は5月中旬、自宅で死亡した克樹ちゃんの遺体をタオルで包み、スポーツバッグに入れておもしのために石を入れた上で遺棄したと話していた。

二人は松本城に近い住宅街の中のアパートで暮らしていたといい、克樹ちゃんを遺棄した後、近隣の人らには「子供は実家に預けている」と話していたという。
善彦は当時、JR松本駅に近い場所のスナックでウェイターとして勤務。自宅はそのスナックの従業員寮だったといい、その年の2月頃からこのアパートで暮らしていた。

絵美も、同じように夜の店でホステスとして働いていて、その年の3月頃から克樹ちゃんを夜間の託児所に預けるようになっていた。

若い二人の出会いは平成10年の熊本だった。
ゲームセンターで知り合った二人はすぐに交際を始めた。出会って4ヶ月目には絵美の妊娠がわかったことで翌年の2月に婚姻届を提出した。
しかし若い二人のこの妊娠と結婚は大きな問題を孕んでいた。
絵美は当時、善彦以外にも交際相手が複数おり、加えて援助交際も行なっていたことで、妊娠が判明した時正直誰の子なのかわからなかった。
ところが善彦もそれを把握しており、その上で、
「多分俺の子だよ、産んでほしい、すぐ結婚しよう」
という斜め上の漢気を見せたことで、絵美も産んで結婚しようと決断した。

案の定、生まれた克樹ちゃんの血液型は、0型の善彦とB型の絵美からは生まれ得ないAB型だった。
が、若い二人は「血液型より直感が大事」だったため、以降も克樹ちゃんは善彦の子どもだと信じて育てることにした。

ここまでは、ツッコミどころはあるとしても協力して子供を育てようとしているともいえ、むしろ細けえことはいいんだよ的な懐の大きさも感じられ、温かく見守ろうとすら思えるわけだが、直後から二人の子育て生活はガラガラと音を立てて崩壊し始める。
崩壊のきっかけは、善彦の勤務シフトだった。

熊本県内の工場に勤務してまじめに働いていた善彦だったが、夜勤のある職場だった。
ある時、絵美から一晩中一人で子育てをするのはきついので夜勤をやめてほしいと頼まれる。
今ならば、それを受け入れない会社が怒られてしまうし、そもそも若いふたりにはサポートはあったほうが良かった。この点での絵美の訴えはよく理解できる。
善彦もそんな絵美の申し出を受け、会社の上司にかけあうなどしてみたが、認めてもらえなかった。

結果、善彦は会社を退職、その後も転職を試みるも長続きしなかった。

生活費は消費者金融、実家からの持ち出しに加え、絵美の援助交際でまかなった。が、常にぎりぎりの生活だった。

援交する妻と黙認の夫

平成12年に入ると、絵美が実家の金を持ち出すことが増えてくる。おそらくだが、実家もそんな絵美に愛想をつかせていたのか、その年の5月、絵美は実家である騒動を起こす。

実家から金を持ち出そうと、金庫ごと盗んだのだ。

当初は第三者の犯行を装っていたようだが、家族が警察に被害届を出そうとしていると知ると、自身の犯行がバレることを恐れてなんと善彦と克樹ちゃんと逃亡。宮城県を経由して宇都宮市へ逃れた。
一旦は宇都宮市内で生活をし始めたが、絵美が交通違反で切符を切られたことから実家に居場所がばれるのでは、と不安になり、またもや逃げるように宇都宮を離れた。

そして12月から、松本市内の事件当時暮らしていたアパートへ越してきていたのだ。念のため、表札は「平林」に変えていた。

善彦も絵美も仕事を見つけ、克樹ちゃんの預け先も確保できた。実家には申し訳ないが、所詮家族間のことでもあるわけで、今後まじめに働いていつか熊本に変えることが出来れば、時が許してくれることもあると思わなくもないが、そもそも絵美はこの生活に嫌気がさしていた。

平成13年2月、絵美が勤務する店の客である男性と、絵美は肉体関係を持つ。善彦に隠れ、ほぼ毎日のように逢瀬を重ねたというが、その男性と会うための資金作りとして、またもや援助交際も始めていた。
内緒とはいえ、善彦も絵美の挙動不審には気付いていたという。しかし、「友達と会う」と言われるとそれ以上追及もできず、また援助交際については「生活費のため」という大義名分のもと、黙認していた。

絵美は男性にのめりこんでいったが、どうやら夫と子供がいることはこの男性に隠していたと思われる。
なぜなら、この男性がせめて子供の存在を知っていたとしたら、この後の犯行は起こらなかった可能性があるからだ。

善彦と別れ、男性と結婚したいと思うようになった絵美に、男性は、(絵美に)夫や子供がいたとしたら別れる、付き合ってない、と話していた。
現時点で善彦は絵美の不倫をうすうす気づいていながら何も言ってこないのだから、正直善彦の存在は絵美にとってネックではなかったろう。
が、克樹ちゃんの存在は、どうしようもない。隠し通せなくなるのも時間の問題だった。

絵美の頭の中は男性のことでいっぱいで、どうすれば夫と子供の存在を男性に知られることなくきれいさっぱり縁が切れるか、そればかりを考えるようになっていった。
そして、善彦と離婚して克樹ちゃんを善彦に育ててもらうか、もしくは克樹ちゃんに死んでもらうか、このどちらかしかないと思うようになってしまった。アホである。

言いなり

4月16日、絵美は善彦に対し、男性の存在を暴露した。
そのうえで、
「(相手の男性に)結婚してることや克樹のことは話してないから克樹を連れてはいけない。邪魔だし、面倒見る気もないから置いていく。克樹を置いてでもAちゃん(不倫相手)のところへ行く。だからあんたが克樹の面倒みて。あんたが面倒みれないんなら殺すしかないと思ってる。」
と手紙に書いて善彦に渡した。まともに受ける方がどうかしているというような内容だが、これを渡された善彦も当然、殺す云々のくだりはいわゆる絵美の脅し文句だと受け止めていた。

しかしその後も、克樹ちゃんを殺すしかないといった主旨のメールが絵美から届くことで、絵美は本気でこう言っている、と思うようになったという。

善彦としては殺すなんて、という思いは当然あったとみえるが、だからといって克樹ちゃんを一人で育てていくことには抵抗があった。そこで、絵美に対し、殺す云々についての明言は避けたものの、
「俺も面倒はみられない」
という返答をした。

そしてふたりは何度かの意思確認を経て、4月20日午前8時ころ、アパートの風呂に水を張り、克樹ちゃんを抱き上げそのまま沈めた。
克樹ちゃんは激しく抵抗し、かぶせた風呂の蓋を渾身の力で蹴りあげたという。それを、善彦と絵美は協力して抑えつけ、やがて克樹ちゃんは溺死した。

克樹ちゃんの遺体をバスタオルにくるむと、絵美の私物であるスポーツバッグに入れ、重石用の石を3つ入れて車に乗り込んだ。ちなみに遺体発見時に一緒に見つかったレースの女性用下着は、おそらく絵美のもので、適当にひっつかんだバスタオルに紛れていたか、元からスポーツバッグに入っていたと思われ特に意味はないようだった。
そして人の目がなくなる深夜、善彦がスポーツバッグを持って車でみどり湖まで行くと、そのバッグを抱えて湖に入り、数十メートル泳いでスポーツバッグを沈めた。

ふたりはその後も何食わぬ顔で普通に生活していたという。善彦は逮捕される日までスナックに勤めていたし、絵美は晴れ晴れとした気持ちで男性の元へ足しげく通う日々だった。

しかしそんな日々は、一か月で終わりを迎えた。

情状酌量の余地なし

裁判では犯行当日の様子もつまびらかにされた。
その中で、一旦風呂に沈めた克樹ちゃんが予想以上に暴れたことで怯んだ善彦が、「今なら(助ければ)間に合う!!」と言ったのを、「ここで止めたら二度とできなくなる」と絵美が聞き入れなかったことも明かされた。

検察は絵美に懲役13年、善彦に懲役10年を求刑。弁護側も「今は反省している。弁解の余地もない」と繰り返すにとどまるほど、このふたりの犯行動機、その様態について、庇えるところがほとんどなかった。

長野地裁松本支部の千徳輝夫裁判長は、普通このような親が子供を殺す事件ではそこまで追い詰められたことが理解できる事情が少なからずあるものだが、本件ではそのような事情はうかがえないとして厳しく二人を断じた。
克樹ちゃんは直前まで、善彦や絵美と無邪気に遊んでいた。まさか、今目の前で自分を殺す段取りをされているなど思いもしなかった。
一切の抵抗もなく抱き上げられ、母の胸で安心しきっている克樹ちゃんを、絵美は躊躇なく風呂に沈めたのだ。
どれほど苦しかったろうか。何が起きたのかわけもわからず、母の手によって沈められたこともわからず、克樹ちゃんはおそらく母に、そして父だと思っていた善彦に助けを求めたはずだ。

平成13年12月18日、長野地裁松本支部は絵美に懲役12年、善彦に懲役10年の判決を言い渡した。
さすがに二人は控訴しなかった。

絵美の極悪非道ぶりはもうどうしようもないとして、この善彦のある種の人の好さというか、なんにでも迎合するというか、これは性格なのだろうか。
そもそも克樹ちゃんは自分の子ではないことは、本当はわかっていたはずだ。それでも、むしろそれごと受け入れることで絵美の歓心を買おうとしたのだろうか。
絵美が離婚を申し出、克樹ちゃんのこともいらないと言ったとして、たしかに善彦がすべてを引き受ける必要もない。
しかしそれなら熊本の実家に連絡するとか、いくらでもやりようがあったと思えるのに、結局絵美の「殺すしかない」に同調してしまっている。

結局、熊本に連絡すれば絵美が困る、離婚を受け入れなけらば絵美が困る、子どもの存在があれば結局いつか絵美が困る、全部絵美のため。
ようは、善彦はその経緯がどうあれ、絵美のために生きているようなものだったのかもしれない。

それにしても、計画的な殺人と死体遺棄で情状酌量の余地なしにもかかわらず、検察側の求刑が15年にも満たないのは令和の時代では有り得ないような気もする。
事件から20年以上経過し、ふたりは今どこで何をしているのか。家庭を持ち、子どもを持っているのだろうか。

人は変われる。しかし、子どもを殺した過去は消せないし、どんな言い訳もできない。罪を償っても、世間の記憶からなくなっても、当人たちだけは忘れてはいけない。

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参考文献
NHKニュース 平成13年6月27日、平成26年12月30日
沖縄タイムス社 平成26年12月31日朝刊
共同通信社 平成26年12月31日朝刊
産経新聞社 平成27年5月8日東京朝刊、平成28年3月14日(小野田雄一)
中日新聞社 平成10年1月8日朝刊、平成13年6月28日、10月17日朝刊、平成27年5月12日夕刊
朝日新聞社 平成10年1月8日西部朝刊、平成11年12月7日西部朝刊、平成13年5月25日、27日、6月7日、28日、11月7日東京地方版/長野、平成26年12月31日東京朝刊
毎日新聞社 平成10年3月4日西部朝刊、平成13年9月12日東京朝刊
高知新聞社 平成10年2月21日朝刊(投書)
読売新聞社 平成11年12月7日、12月21日西部朝刊、平成13年5月25日、26日、31日、6月28日、29日、7月1日、7日、17日、8月4日、12月19日東京朝刊、6月27日東京夕刊、

平成28年3月23日東京地方裁判所第3刑事部/判決
平成27年(合わ)第90号/平成27年(合わ)第125号

平成13年12月6日福岡地方裁判所第1刑事部/判決
平成12年(わ)第194号

平成13年12月18日長野地方裁判所松本支部/判決
平成13年(わ)102号/平成13年(わ)117号

D1-Law第一法規法情報総合データベース

禁断の死出の旅路~福島・男女服毒心中事件~

昭和62年10月29日朝 路上にて

「あんた!こんなとこに停めて邪魔やろ、あんた運転できんのか?」

愛知県西春日井郡西春町のニット製品会社の車庫前に、一台の赤い軽四自動車が停まっていた。
同社の社員が気付き、見慣れない車であること、車庫の前で邪魔なことから、運転席の女性に声をかけた。
すると、その若い女性は血色の悪い顔でこうつぶやいたという。
「ここまで来たけど、もう動けなくなっちゃった。」
わけのわからないことを言われた社員はイラつきながら、ふと車内を覗くと助手席に中年男性がいるのに気が付いた。そこで冒頭のように、その中年男性に声をかけたのだ。

男性はリクライニングを倒し、眠っているように見えたが、社員はその男性の胸の上で組まれた手を見てハッとした。
男性の手はぶるぶると小刻みに震えていたのだ。さらに、眠っていたと思った男性の目は、白目を剥いていた。
ただごとではない、そう感じた瞬間、今度は運転席の女性が口から白い泡が涎のように垂れてきた。慌てて119番通報したものの、搬送先の病院でこの男女は死亡が確認された。

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怨焔~大胡町・不倫仲裁逆恨み隣人焼殺事件

平成8年5月2日

群馬県勢多郡大胡町。
とある民家のガレージから火の手が上がった。
隣人らの通報で消防と警察が駆け付けたが、ガレージでその家に暮らす女性と思われる焼死体が発見された。

その数時間後、赤城山の大沼近くの旅館から、沼に車が突っ込んだ、という通報も入った。
しかも、「人を殺したと言っている」とのこと。
赤城大沼に突っ込んだ車は白の乗用車で、大胡町の現場から急発進して逃走した車も、白の乗用車だった。

捜査の結果、一命をとりとめた白い乗用車の運転手の男が、元交際相手だった大胡町の女性にガソリンをかけて焼き殺したと判明。
男の回復を待って、5年後の平成13年月に逮捕となった。

この事件、地元の人らの間では忌まわしいある過去の事件を思い起こさずにはいられなかった。

昭和の終わり、この事件と同じような事件がこの大胡町で起きていたのだ。

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🔓女たち~3つの殺された女の話~

まえがき

女はいくつもの顔を持つ。貞淑な妻として、強くひとり生きる女として、子を思う母として。

しかしそれら表の顔とは違う顔を見せるとき、運命の歯車は軋み始める。

メールもLINEも携帯電話すらない昭和の時代、物が溢れ多くの人は意識せずとも中流と呼ばれたあの頃、必死で生き抜こうとする女、誰にも言えない暗い過去を背負った女、なんの不満もないはずの恵まれた生活にため息をつく女がいた。

昭和に生きた、3人の女の話をしたいと思う。

【有料部分 目次】
翻弄された女
上野の事件
それぞれのそれまで
女の意地
「あの女には負けたくない」
くれない族の結末
調布の主婦
違い過ぎる二人
男の過去
鬼か、それとも
身元不明の遺体
ゆきずりの女
女の罪
もがき疲れて

熟年ラプソディ~江東区・不倫男性殺害事件~

江東区大島

「もういい加減にしてよ!」

真夜中のビルの駐車場に、女の声が響いた。その女を追うように、もう一つの人影がふらふらと近寄っていく。
酒臭い息が迫る。あぁもう嫌だ、なんでこんな目に遭わなければならないの。

女は身に着けていたスカーフを手に取ると、そのまま男の首に巻き付け、そのまま力いっぱい締め上げた。

もう、終わりでいい。

事件概要

平成849日午前6時ごろ、江東区大島のマンション駐車場で、初老の男性が倒れているのを通行人が発見、119番通報した。
男性はすでに死亡しており、警察では事故、病死、そして殺人も視野に入れて捜査を始めた。

死亡していたのは、近くの米穀店経営・宇喜田泰利さん(仮名/当時66歳)。その日は知人女性と馴染みの居酒屋へ出かけており、その後帰宅していなかった。

警察ではその知人女性が何か事情を知っているとみて捜査をしていたところ、同日午後6時ころ、その女性が夫に連れられて城東署に出頭してきた。
そこで、宇喜田さん殺害を自供したため、殺人容疑で逮捕となった。

逮捕されたのは千葉県浦安市在住の主婦・稲川花代(仮名/当時59歳)。花代は夫のいる身でありながら、宇喜田さんとは10年以上の不倫関係にあったという。
この夜、花代は宇喜田さんに別れ話を持ち掛けたところ、宇喜田さんがそれに応じないばかりか、すべてを夫にばらしてやるなどと脅したうえで、肉体関係を強要してきたことから激高、咄嗟に手に持っていたスカーフで宇喜田さんの首を絞めた、とのことだった。

しかしその後の裁判では一転、宇喜田さんは突然死したのであり、花代は殺人を犯していないと主張し始めた。

熟年不倫の結末とは。

関係

宇喜田さんは昭和4年生まれで、江東区で米穀店を営んでいた。仕事柄、町内会の役員なども引き受け、地域の顔役のような立場で長年生活してきた。

昭和52年、その町内会の事務員として採用になったのが花代だった。花代は当時40歳くらいで、夫も子供もいる身であったが、昭和54年か55年ころ、宇喜田さんに誘われ仕事終わりに飲みに行くなどし始め、それ以降宇喜田さんと親密な関係へと発展する。

宇喜田さんにも当然妻がいたが、どうやら宇喜田さんはいろいろと女性と関係を持っていたようで、花代以外にも親しい女性がいる気配があったという。
昭和62年に宇喜田さんが町内会の会長になって以降も花代との不倫関係は続いていたが、平成3年ころ、宇喜田さんがどうやらほかに特定の不倫相手がいる、と花代は勘づいた。
宇喜田さんはそれを否定はしたものの、きっぱりとした態度ではなかったことから、花代の嫉妬心はその後もずっとくすぶり続けていたようだ。

ところで花代は、自身にも家庭があるにもかかわらず、宇喜田さんに対して相当な入れ込みようだった。
宇喜田さんから少しでも冷たくされると、酔った勢いで自宅に電話をかけ、妻に対して暴言を吐くにとどまらず、自宅へ押しかけて暴れるといったこともあった。
ある時は、玄関先にあった米袋(!)を担ぎ上げ、それを妻に投げつけるという暴挙にも出た。

当然、自分以外の不倫相手の女性に対しても、嫌がらせの電話をかけたりして自分の存在を誇示し続けていたという。

あまりにも身の程をわきまえないふるまいに、宇喜田さんの妻やもう一人の不倫相手の女性は花代の自宅に電話をし、花代の夫に苦情を申し入れる事態となった。
この時点で夫は花代の不倫を知らなかったようで、苦情の電話から花代の浮気を疑うようになる。

夫に問い詰められた花代は、「宇喜田さんに無理やり関係を迫られ、一度だけ応じた」というような話をしたという。もちろんこれは嘘である。

その事実を知った夫を交え、平成7年の春、花代夫婦と宇喜田さんで話し合いがもたれた。
ただこの時、話し合いは有耶無耶な状態で終わってしまったという。

夫の知るところとなった花代と宇喜田さんの不倫だったが、関係は終わらなかった。

そして、さらに町内会を巻き込むある事件を起こしてしまう。

ライトに照らされた下半身

夫を交えた話し合いからわずか一か月後の4月のある早朝、町内会にある公民館に警察が駆け付けた。
不審者が公民館に入り込んでいる、そういった通報が近隣住民から寄せられたためだったが、そこで警察官らが見たのはとんでもない「モノ」だった。

公民館の中には、男女の姿があった。それは、宇喜田さんと花代だった。
さらに警察官が踏み込んだ時、宇喜田さんは下半身を露出していたのだ。

公民館にはパトカーが来ており、なにごとかと出てきた近隣住民らの姿もあり、その中で宇喜田さんと花代は警察官に連れられ公民館から出てきたわけだ。
すでに町内会では二人の関係は噂になっていた。その噂は、この事件を機に噂ではなくなったどころか、多くの町内会の人がその事実を知るところとなってしまった。

町内会は頭を抱えたというが、とりあえず宇喜田さんと花代を町内会の職から外す、ということで決着をつけたようだった。

浦安で暮らしていた花代は、この事件以降東京へ行く口実がなくなってしまったこともあり、実質宇喜田さんとの交際は途絶えていた。
しかし、平成7年の年末、偶然宇喜田さんと再会したことから、ふたりの運命は最終段階へと突き進んでいく。

諦めきれない女

偶然再会した際、宇喜田さんは花代を飲みに誘っていた。
年が明けた平成815日、約束通り花代は宇喜田さんと会う。夫には、浅草に用事があると言って出掛けていた。

ただこの日、宇喜田さんからSEXの誘いがあったものの、花代はそれを断ったという。

花代には、よりを戻す前にどうしても宇喜田さんに確認しておきたいことがあったのだ。
それは、あの不倫相手の女性のことだった。

ここでは女性をAさん、とする。

花代は浅草で宇喜田さんと会って以降、何度かあった誘いを断り続けた。しかし、どうしても宇喜田さんを忘れることもできなかった。
3月、とうとう宇喜田さんの誘いに応じ、会うこととなった花代だったが、この時もSEXは拒否した。
理由は、飲んでいる最中に宇喜田さんが言ったこんな話が気にかかったからだ。

宇喜田さんは体調を悪くしており、入院していた期間があったというが、その時、Aさんが見舞いにも来なかった、そう宇喜田さんは花代にこぼしたというのだ。

これを聞いた花代は、宇喜田さんが自分を誘ったのは、Aさんとうまくいかなくなったからではないのか、と思ってしまう。実際そうだったのかもしれないが、花代の心には屈辱感と嫉妬心が綯交ぜになった複雑な感情があふれていた。

それなら金輪際会わなければいい、はずだったが、そうなるとA子さんと宇喜田さんがもっと親密になってしまうのではないか、それも花代にとっては耐え難いことだった。

その夜

結局、宇喜田さんを諦めきれなかった花代は、48日に宇喜田さんと会うことになる。夫には、友人と花見に行くと告げ家を出た。
夕方から居酒屋をはしごして飲み歩いた二人は、途中でとある馴染みの居酒屋の話になる。宇喜田さんはその居酒屋主催で毎年行われていた花見の話ををしたという。
その年、その居酒屋主催の花見は雨で中止になっていた。それを宇喜田さんがことのほか残念がっていたのを、花代は不愉快な思いで聞いていた。
というのも、その居酒屋は件のAさんも行きつけとしていて、さらには何年か前のその居酒屋主催の花見に、宇喜田さんがAさんを伴って参加していたことを思い出したのだ。

宇喜田さんが残念がっているのは、花見ができなかったというよりむしろ、Aさんと会う口実がなくなったからであり、ひいては今日こうして花代と会っているのも、Aさんの代わりなのではないか、そんな風に思えてならなかった。

花代は卑屈になり、酒の酔いも手伝ってAさんを持ち出しては宇喜田さんに絡み始める。
一方で、宇喜田さんはこの日も花代に肉体関係を迫った。ふたりは話が噛み合わないまま、それでも店を変えながら深夜まで飲み歩いた。まるで、先に帰ると言ったほうが「負け」であるかのように。

最後の店を後にしたのは、深夜2時を回ったころだった。
泥酔に近い状態の宇喜田さんは、いつになくしつこかった。ホテルへ行こうとの誘いに花代が乗らないと、
「お前の体のどこにほくろがあるのか、全部旦那にばらしてやろか」
などと、脅すようなことを言い始めた。
うんざりした花代が帰ろうとしたところ、立ちはだかった宇喜田さんがこう言い放った。

「おっぱいだけでも触らせろ!」

花代はぶちキレた。

裁判

裁判で花代と弁護人は、先に述べた通り「宇喜田さんは突然死である」と主張。
司法解剖によれば、宇喜田さんには目立った外傷がなかったものの、頚部に表皮剥奪、眼瞼結膜、表皮下に多数の溢血点、頚部リンパ節のうっ血が高度であるなど、頚部圧迫による窒息を示唆する所見は認められた。
一方で、解剖を担当した医師によると、確かに宇喜田さんには中程度から高度の動脈硬化、心筋梗塞巣が認められていた。そのため、検察が主張する頚部圧迫による窒息死とは断定できないと弁護側は主張したのだ。

解剖した医師は、鑑定書において
「死因は、頚部圧迫による窒息死が一番考えられるが、頚部圧迫により心臓に負担が生じ、窒息と心筋梗塞による症状が同時に起こって死ぬ可能性もかなり低いが考えられる」
としていた。

花代も、取り調べで刑事に誘導されたため、スカーフで首を絞めたと虚偽の供述をせざるを得なかった、といった主張をしていたが、裁判所はそのいずれも退けた。

花代が首を絞めていない、とした主張も、そもそも花代は家族に伴われ自首しており、自首以前に花代から話を聞いていた夫と娘婿も、花代自身から宇喜田さんをスカーフで首を絞めたと聞かされていたのであって、十分信用できるとした。

その上で、供述調書には花代の記憶違いについてもきちんと記載されており、花代の当初の供述が警察官の誘導や押し付けによるものではない、とした。

また、宇喜田さんが死亡したことと花代の行為との因果関係についても、たとえ窒息ではなく心筋梗塞が死因だったとしても、その心筋梗塞が起こった要因に花代が首を絞めたという行為があることに疑いはないと認定。
殺人罪の成立を認めた。

花代は懲役7年の判決を受け、おそらく確定したと思われる。

滑稽な人々

殺人事件である以上、あまりこういうことは言いたくないが、この事件を知った時私は込み上げる笑いを抑えきれなかった。
町内会という非常に狭い世界の中で繰り広げられた熟年カップルの不倫、というだけでもまぁまぁアレだが、それに加えてこのふたりの、立場を全くわきまえない言動はもはや喜劇である。

自分も家庭を持つ身でありながら、不倫相手の妻に米袋を投げつけるとか想像しただけで笑える。
公民館でパトカーの赤色灯に照らされ、踏み込んだ警察官と対峙したふたりの胸中はどんなものだったのだろうか。

さらに、70歳に近い男性がいくら酔っていたとはいえ、
「おっぱいだけでも触らせろ!」
と叫ぶ、あぁもう我慢できない。

しかし現実の結末は、一人が死亡し、もう一人は懲役7年という、笑えないものだった。
花代は、宇喜田さんの失礼な態度や煮え切らない態度にほとほと嫌気がさしていたのは事実だろうが、それ以上に、宇喜田さんをとられたくない、という思いも強かった。
Aさんの年齢などはわからないが、おそらく花代とそうたいして変わらない年齢だったのではないか。
面白いもので、こういう時相手の女性が若ければ若いほど、そんなに気にならないものでもある。
しかし自分と同年代、となると心中穏やかになれないというのは、私には非常に理解できる心理なのだが女性特有の心理なのだろうか。

確かに宇喜田さんは女性を甘く見、自己の欲求のおもむくままに無礼な態度をとっていた。
しかし、そもそも花代とて宇喜田さんに妻がいることは百も承知で始めた不倫である。さらに、日陰の身に甘んじることができず、自分の存在を誇示し続け、それがもとで何も知らなかった夫や家族をも傷つけた。
裁判所も、そんな花代のそれまでの言動には苦言を呈し、あの夜の執拗で無礼な宇喜田さんの態度も酌量には値しないと突き放している。

長年にわたってコケにされ続けた花代の夫は、それでも妻の出頭に付き添い、そして妻の帰りを待つと話した。

花代のあの晩の殺意は、宇喜田さんへの怒りからだったのだろうか。
それならさっさと帰ればよかったのに、帰らなかった花代。SEXを求められても拒否し、それでも何軒も店をはしごし、宇喜田さんに付き合い帰ろうとしなった。そこに、彼女が求めていたもの、本心が見えるような気がする。

So,I sing this rapsody for you.

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参考文献
読売新聞社 平成849日 東京夕刊
産経新聞社 平成8410日 東京朝刊
竹内まりや「純愛ラプソディ」より

平成9年(合わ)138号 東京地方裁判所/刑事第16

D1-Law.com 判例体系