LOVE STORY〜4つの愛の事件〜

夫婦喧嘩は犬も食わないし、男女の諍いは時にそれ自体が二人を盛り上げるただの前戯のことも多い。

しかしそうならなかったら。そう思っているのは片方だけだったとしたら。

一度は愛し、愛されたはずの人たちがそれぞれを、或いは取り巻く人を傷つけ殺すハメになった、4つの事件。

ケンカをやめて

平成6年9月11日、病院に運ばれた男がいた。腹部に刃物による重傷があり、その刃物は柄が折れ腹部に刺さったままだった。
その状況からも、非常に強い殺意が見て取れた。

その頃、病院の待合では一人の男が所在投げに佇んでいた。
衣服には血液が付着、疲労困憊といったその男は、腹部に重傷を負った男を自らの自家用車でこの病院に担ぎ込んだ人物だったが、その様子は「人助けをした善意の人」とは程遠いものだった。

病院から通報を受けた警察が双方に事情を聴くと、思いもよらない答えが返ってきた。
「おれたちは決闘をした」
その答えは、けがをした男性の口からも、同じように語られた。

決闘

ケガをしたのは佐藤要次さん(仮名/当時35歳)。左腹部刺創による胃損傷、中結腸動脈損傷および左前腕切創の全治一か月の重傷だったが、命に別状はなかった。

佐藤さんを運んできたその決闘相手の男は、二宮亮平(仮名/年齢不明)。
二人の話によれば、9月11日の夜にとある事情から口論となり、佐藤さんから罵倒されたことで頭にきた二宮は、
「お前、俺と命を賭けて勝負するか?」
と申し向けた。
同じく頭に血が上っていた佐藤さんもそれに応じ、
「上等だ、すぐ来いよ。待ってるからな。」
と鼻息が荒かった。

その後、自宅から文化包丁(刃渡り18,3センチ)を持ち出すと、自家用車で佐藤さんを迎えに行った。
佐藤さんを助手席に乗せ、決闘場所に選んだ中央自動車道国立府中十二番通路に赴き、
「どっちがやってもやられても警察には言わない」
ことを約束した上で、ここに決闘する意思を確認しあった。

時刻は午前7時15分、頭上を出勤の車がごうごうと通りすぎるガード下で、男ふたりは朝日に照らされていた(想像)。
「これを真ん中に置くからよ」
二人の距離はやく3,5m。二宮は持ってきた包丁を、佐藤さんと自分の間に放り投げた。

そしてふたりはその包丁めがけて駆け寄ると、その包丁を奪いあった。先に包丁にてをかけたのは、二宮だった、ズルい。
しかし、すぐさま佐藤さんが上から抑え込む形となり、互いに組み合ってしばし奮闘したが、組み伏せられていた二宮が隙をついて包丁を突き上げたのだった。

裁判

警察には言わない、そう約束した二人だったが、決闘に勝ったはずの二宮は佐藤さんを車に乗せるとそのまま病院へ直行した。
病院に担ぎ込めばおのずとその決闘は露見するわけだが、もうこの時点でふたりにそんなことはどうでもよくなっていたのか。

病院の通報で駆け付けた警察に、二宮は決闘罪と殺人未遂の容疑で逮捕された。

裁判では、決闘罪と殺人未遂が両立するのかといった法律の議論も交わされた(※両立する)が、二宮は懲役3年、執行猶予が4年ついた。
決闘という性質上、結果的に被害者となった佐藤さんにも相当な落ち度が認められると判断されたことには異論はないだろうし、そもそも被害者の佐藤さん自身が二宮に対し寛大な処分をという嘆願書的なものを出していた。
二宮自身が佐藤さんを放置せず病院へ運んだことなども考慮された。

なんだか殺し合いの決闘に至る割に、ふたりの間に友情というか固い絆というかそういうものが見て取れるような気がしないでもないが、そもそもこのふたりが決闘に至ったその原因は何だったのか。

男が命を賭けると言えば、もうこれしかあるまい。
ご想像の通り、女の取り合いだった。

愛と友情

二宮には妻子がいた。その夫婦関係がどうだったかはわからないが、二宮には10年来の「13歳年下の愛人」がいたという。
この二宮については、事件自体がさほど大きくなかったからなのか、新聞等の報道がない。そのため二宮の年齢が分からないのだが、13歳年下の10年来の愛人がいるということで、少なくとも40歳以上かと思われる。
10年も不倫関係を続けてきたということで、さぞや愛し合った二人かと思いきや、実際はひどいものだった。

二宮はこの愛人に対し、10年間で4度妊娠させ、そのすべてを中絶させていた。

女性も女性だ、という意見はごもっとも、それは本人も同じだったようで、ある時別の男性と親密な交際を始める。それが、佐藤さんだった。

佐藤さんは二宮と友人であり、二宮との関係を承知のうえで女性に結婚を申し込んだ。女性も、佐藤さんとの結婚を望み、二宮との不毛な関係に終止符を打つと決心。
8月、佐藤さんは女性を同席させたうえで二宮を呼び出し、自分たちが結婚することを告げた。佐藤さんとしては友人である二宮に対し、本来通す必要はない筋ではあるが、通した形をとったのだ。

二宮は面食らった。長年、自分とは友人だったはずの佐藤さんと、10年も自分の言いなりだった愛人女性に裏切られた、その思いだけがこみあげた。自分が不誠実だったことは全力で棚の上だった。
散々女性にひどい仕打ちを繰り返してきたにもかかわらず、二宮は女性に執着し続けたという。
無理やり連れだしたかと思えば心中を持ち掛けたり、佐藤さんと二人きりで会わないという誓約書を書かせようとするなど、言動は常軌を逸していた。

事件当日、二宮は女性の自宅に電話をかけて復縁を迫ったところ、「会いたくもないし、話もしたくない」と邪険にされてしまう。すると、背後から佐藤さんの声が聞こえてきた。
この日、佐藤さんは女性宅に泊まっていたのだ。
さらにしつこい二宮に業を煮やした佐藤さんは、電話をひったくると「お前、いい加減にしろよ。しつこくするな!」と怒鳴りつけた。

そして、二人の決闘へと発展したのだ。

長年の泥沼にはまった女性は、佐藤さんに救われただろう。4度の妊娠中絶など、考えただけでも許せない。
が、女性とて二宮に妻子がいることを知らなかったわけはないだろうし、自分の不倫の後始末を新しい男にさせるというところに、言葉を選ばずに言えば「嫌な女だな」と思うのも事実である。

二宮と佐藤さんはその後どうなったのだろう。
誰にも言わない、命を賭けた男同士の決闘のはずが、結局、勝ったはずの二宮は法廷に引き出され、佐藤さんによる嘆願書が情状酌量となった。佐藤さんと女性とは縁を切ると、法廷でも誓った。
負けた佐藤さんは二宮に命を救われ、その後どうしたのだろうか。
命を賭けたその女は、以前と同じように守ってやりたい女に思えたろうか。

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参考文献
東京地方裁判所八王子支部 平成6年(わ)936号 判決

女々しくて女々しくて

男は女の言葉を待っていた。いいよ、帰っておいでよ。そう言ってくれると信じていた。
しかし女の口は動かない。期待している言葉は、いつまでたっても発せられないまま。
ふと、女が思い出したように手紙を差し出してきた。そこにあった文字は、「謝罪文」。以前、男が書くように要求したものだった。
「…これがお前らの答えなのか。」
謝罪文を読みながら、男の心はズタズタになっていた。そんな男の心を知ってか知らずか、女は身支度を整えるために洗面所へと消えていった。

男はバッグに手を忍ばせた。

ホテルマリオン

平成13年11月16日午前11時、川口市のラブホテルから川口署に通報が入った。
「女性のお客さんが死んでいる」
清掃に入った従業員が、ベッドにあおむけで倒れて動かない女性を発見、その状況から通報してきたのだった。
女性は後頭部を二か所、鈍器のようなもので殴られておりひどい出血をしていた。そして、遺体のそばには直径約20~30センチの血がついた石が転がっていた。

ホテルによれば、女性は男と二人で15日の夜9時ころにチェックイン、その後男だけが翌16日の午前10時半ころにチェックアウトしたのだという。

警察では、この男が何らかの事情を知っているとみて行方を追っていた。

同日午後8時45分、蕨署下戸田交番に一人の男がやってきた。
「西川口で人を殺した」
警察ではすぐにこの男がホテルの事件に関係しているとみて事情を聴き、容疑が固まったことから殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、川口市青木の無職、磯山清徳(仮名/当時49歳)。殺害されていたのは、磯山と内縁関係にあったというパート店員の滝下智美さん(仮名/当時36歳)だった。
智美さんは離婚歴があって、二人の子供を女手一つで育てていたという。ところが、いつのころからか磯山が智美さん方へ入り浸るようになった。二人の間には、女の子も生まれていたが、正式な夫婦ではなかった。
事件が起きた15日も、保育園に末っ子を迎えに来た智美さんは「今日の夜、西川口で(内縁の)夫と会うことになっている」
と話していたという。

警察は、現場に残された石が凶器であると断定していたが、その石はホテルの室内にあったものではなかった。ということは、磯山が外部から持ち込んだということである。
磯山は、その日最初から智美さんを殺害する気だったのか。

ふたりのそれまで

磯山は昭和27年生まれだが、6人兄弟の末っ子ということもあってか、1歳の時に養子に出された。
昭和34年にその養父母が離婚したため、実姉夫婦の養子として育つという、複雑な成育歴を持っていた。

中卒で働き始め、工場勤務や配送の仕事を転々とし、昭和55年に結婚、その後娘二人に恵まれた。
妻はスナックを経営し、磯山はタクシー運転手などをしていたが仕事は長続きしなかったという。家計は妻が支えた。

智美さんは昭和59年に結婚、長女と長男がいたが平成3年に離婚。その後は保険外交員をしたり、時に生活保護を受けるなどして女手一つで子供たちを育てていたという。

磯山と智美さんの運命が交錯したのは、お互いの子供たちを通してだった。
磯山は娘が通う小学校でミニバスケットボールのコーチをしていた。そこに、智美さんの長女も通うようになり、コーチと保護者という関係で知り合ったのだ。
このころ、磯山は既婚者だったがスナック経営の妻とは生活リズムが合わず、その関係はうまくいっていなかった。
若くて独身の智美さんとはウマが合い、やがてふたりは不倫関係へと陥った。

平成9年に磯山の離婚が成立、子供たちは妻が引き取ったことで磯山は一人になった。
その後はタクシー運転手をしながら一人暮らしをしていたというが、平成10年にタクシー会社を辞めるとたちまち家賃の支払いに窮することになってしまった。
そこで、とりあえず市内の健康ランドの会員となってそこで寝泊まりするようになる。わずかな生活費はパチンコ代に消え、自堕落な生活を送っていたが、智美さんとの関係は継続していた。

そして、智美さんが妊娠する。

平成10年12月に智美さんが出産したのを機に、磯山は再びタクシー運転手の職を得たが、アパートを借りる資金が追い付かずに健康ランド暮らしからは抜け出せていなかった。

磯山との間の子供は智美さんが育てていたが、そのころ智美さんの経済状況も思わしくなかったようだ。
ある時、智美さんがサラ金に借金していることを知った磯山は、不意に、生まれたばかりの娘のことが気になり始めた。
智美さんに任せておけない、自分の自堕落は棚に上げて、智美さんの経済状況を大義名分にして半ば強引に智美さんのアパートへ転がり込んだ。

お互い独身同士、しかも二人の間の子供もいるわけで、これを機に結婚するとか、そういう選択もあったと思われるが、そうはいかない事情があった。

智美さんの前夫との間の二人の子供は、磯山のことが大嫌いだったのだ。

嫌われる男

当時磯山はタクシー運転手としての稼ぎはあった。転がり込んだ当初こそ、その給料からいくらかのお金を智美さんに渡すなどしていたようだが、子供たちとの関係は最悪だった。

順序だてて、ごく常識的に考えれば自分がしていることが子供たちの理解を得るにはほど遠いことは分かりそうなものだが、焼け石に水程度の生活費を入れただけで、磯山は智美さんと同居する理由があると思い込んでいた。

智美さんの子供たちは長男が当時17歳。妹の父親であるだけの磯山が大きな顔で居座ることは理不尽だと思っても当然である。
子供たちは再三にわたり磯山に出て行ってくれと頼んだという。しかし、磯山にしてみれば、母親の借金を減らす協力までしている自分に対し、出て行けとは何事か、という身勝手な思いがあり、子供たちと磯山の関係は悪化の一途をたどる。

そのうち、磯山の中で「ここまで自分が協力しているのに子供たちが懐かないのは、そもそも智美がきちんと説明していないからだ」という思い込みが膨らみ始める。
タクシー運転手としてもそんなに稼ぎがあるわけではなかった磯山は、家に帰っても居心地が悪いことから次第に働く気持ちも失せていった。

平成13年の年明け、些細なことで智美さんと子供たちを相手に口論となった磯山は、仕事を辞めると宣言。お金も入れないし、これまで渡した金も返してもらうと一方的に宣言した。なにこのおっさん、中身は子供?

以降、昼間から家に居座り酒を飲み、時には智美さんや子供らに暴力まで振るうようになった磯山は、これまで以上に忌み嫌われるようになる。

そしてその年の11月、決定的な事件が起こる。

どうぞどうぞ

智美さんの長男の友人が遊びに来ていた時のこと。虫の居所が悪かったのか、理由は定かではないが磯山はその友人を突然蹴ったという。
当然長男は怒り、二人の間で激しい口論となったが、その際思わず
「2~3日中には出ていく」
と啖呵を切ってしまう。
磯山としては、すでに智美さんや子供らへの責任感や愛情というよりは、行くあてがないことであらゆることに理由を見出して居座っている状態だった。
引っ越ししようにもその費用すらなく、かといって必死に働きその費用を作るというのもバカバカしいという思いでいた。

加えて、磯山には大きな勘違いがあったようだ。

子供たちにしろ、智美さんにしろ、出て行ってほしいと口では言うが内心は違うのでは、という希望的観測があったのだ。
子供まで作った相手であり、現に今だって性的な関係も持っているのだ、いざ出ていくとなれば翻意するのではないか。哀れな男は、その期待にすがるしかなかった。

しかし、子供たちは磯山の口から出ていくという言葉が出たことでそれは言質を取ったかたちとなり、一方の智美さんも、磯山の期待とは裏腹に「今日までに出ていくんでしょ?」などという始末。吐いたつばを飲むこともできず、磯山は追い詰められていく。
それでも、磯山には智美さんに金を「貸している」という思い込みがあったために、それを持ち出せばまだ何とかなると考えていた。

そのうえで、子供たちにしっかりと金銭的援助を磯山がしてきたことを伝えさせ、これ以上子供たちが横着な態度をとらないよう智美さんを説得しようと考えた。
智美さんを説得するためには、強い態度に出なければ、とも。

11月15日、磯山は待ち合わせた公園で智美さんを待っていた。ふと、公衆電話ボックスのそばに、大きな石が落ちているのが目に留まる。磯山は吸い寄せられるようにその石塊を拾うと、そっとバッグに入れた。

愛と憎しみ

検察は、智美さんの子供たちが自分に懐かないのは智美さんがきちんと説明していないからという身勝手な思い込みから、殺意を持って智美さんの後頭部や顔面を石で殴り、その後絞殺に至ったとして、懲役15年を求刑。

平成14年7月16日、さいたま地裁は磯山に懲役13年を言い渡した。

確かに、磯山は一時期智美さんの生活を助けるために、金を渡した経緯はあった。中絶費用を工面したり、借金の返済を手伝ったこともあった。
また、智美さんとの間に子供が生まれた際も、その出産費用を工面していた。が、出産経験のある人は分かる通り、基本的な分娩費用は健康保険から一時金が支払われるため、実際には何十万もかからない。智美さんはそれを隠していたのだという。
自身も苦しい生活の中で、なんとか愛する人とまともな生活を作ろうとしていた節も、見えなくはない。

こういった面からみれば、智美さんにも相応の落ち度があるように思えるが、そもそも二人(磯山と智美さん)の子供を出産したわけで、父親である磯山が、お金を貸したも何もないはずだ。支払って当たり前の費用ともいえる。

加えて、磯山が智美さん宅へ転がりこんだ経緯を考えれば、その磯山の献身がどれほどのものだったかは疑わしい。
結局は、智美さんを見下し、その子供たちをあたかもいうことを聞いて当たり前の相手だと見くびっていたのだ。
娘のことが心配だと言いながら、自分の住む場所を手っ取り早くつかもうとしただけだ。

智美さんとて、子供を作った相手である磯山を憎んだり、顔も見たくないほど嫌っていた、という風ではない。
現に、殺害されることも知らずホテルに行っている。さらに、その場で磯山に対し、小銭をかき集めて5000円を手渡したという。それまでも、なんども磯山に小遣いをせびられていた。

決して、磯山を無碍にしたわけでもない。ただ、子供たちとうまくいかない以上、一緒に暮らすことは無理だと、そう言っていただけなのだ。
それを、磯山が求めていた「謝罪文」に、他人行儀な言葉が並んでいたというだけで磯山は智美さんへの思いを憎しみに変えた。
石で何度も殴りつけ、挙句首を絞めて殺害し、その遺体の横で朝まで寝ていた。

その時見た夢はどんなものだったのか。そして、目覚めて何を思ったのか。

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読売新聞社 平成13年11月17日、12月8日東京朝刊、
朝日新聞社 平成13年11月18日東京地方版/埼玉

翳りゆく部屋

「やっぱりやるわ。今、包丁持ってる。」

電話口の女は落ち着いていた。先程までの興奮が嘘のように、淡々とこれから自分が何をしようとしているのかを、電話の相手に告げた。

「親から、一番大事なものをとってやるから。」

電話相手の友人は必死で女を呼び止める。電話を投げたら、やる合図……
友人は電話の向こうの様子を聞き漏らさまいとぎゅっと受話器を耳に押し当てた。

事件

平成3年1月21日午後7時半頃、「夫を刺した」という119番通報が入った。川口市内のアパートの一室に署員が急行すると、そこには住人の男性が腹部から大量に出血した状態で倒れていた。
都内の病院へ搬送されたものの、男性はその後死亡が確認された。

死亡したのは、川口市在住の塗装工、垣内拓海さん(仮名/当時21歳)。拓海さんは腹部を包丁で一突きにされており、腹部盲管刺創による臓器損傷に伴う出血性ショック死だった。

現場の状況から、通報者であり拓海さんの妻である幸子(当時20歳)を、拓海さん殺害容疑で逮捕した。幸子は妊娠6ヶ月の身重だった。

若く、子供にも恵まれた前途のある夫婦の間に何があったのか。

そこにはありがちな浮気や嫉妬、経済的な問題などということのみならず、幸子の過酷な人生と、直前の出来事が影響していた。

二人のそれまで

幸子と拓海さんの出会いは中学時代。その頃から交際をしていたという二人だったが、とにかく拓海さんは幸子にとって恋焦がれた最愛の人物であった。

平成2年6月に二人は若くして結婚。できちゃった婚でもなく、そこには愛し愛される若い幸せな二人の絆を感じられた。
しかし若い二人の経済観念は乏しく、結婚しても趣味の車いじりをやめられなかった拓海さんが幸子に渡す家計費は月6万円ほどだったという。

それでも愛する人と結婚できた喜びが遥かに勝っていた幸子は、不満を口にすることもなく、時折実母から食料の援助やお小遣いをもらってそれなりに慎ましい生活を送っていた。

その年の秋、幸子の体に変調が現れる。生理が来なくなったのだ。
ただ幸子自身、虚弱体質で小柄だったということで、おそらくそれまでにも生理不順などあったのだろう、その時は特に何も気にしていなかったようだ。

ところが平成3年になって、胎動のようなものを感じたことから幸子は産婦人科を受診。そこで初めて、自身が妊娠5ヶ月目であることを知る。
エコー写真を見せられ、幸子はいたく感動した。愛する人との、それこそ愛の結晶だった。私も母になるのだ。お腹の中ですくすくと育っている赤ちゃんに愛おしさを感じ、その喜びを夫である拓海さんとも分かち合いたいと帰路を急いだ。

しかし、帰宅した拓海さんの口からは信じられない言葉が発せられた。

面罵する義母

「いや、無理。まだ遊びたいし、やりたいこともあるし。」

おさらいだが、この二人は正式に結婚しており、確かに貧しい暮らしではあったようだが拓海さんは職も持っていた。
その状況で妊娠を告げた時、まさか夫からこのような言葉が出ると思うだろうか。
健康な男女が結婚し、同居しそれなりに夫婦生活を健全に行なっていれば妊娠は自然なことである。もちろん、諸事情で妊娠を先延ばしにしたい夫婦もいるだろう、それならば避妊するなどして家族計画をしていくのだ。

しかし拓海さんは特にそのような、「妊娠してほしくない」という様子もそれまで見られなかったし、妊娠しても不思議はないSEXをしていた。

にもかかわらず、「いや、無理」とはどういうことか。

混乱した幸子が縋っても、拓海さんの態度は変わらなかった。それだけではなく、拓海さんの両親らまでもが幸子の出産に猛反対してきたのだ。

拓海さんの両親による出産への反対は熾烈を極めた。
言葉で翻意させるにとどまらず、幸子は義母に産婦人科へと強制的に連れていかれる。そして、中絶手術を強要されたのだ。
さらにはあまりの事態に仲裁をしようとする産婦人科医を前に、中絶に同意しない幸子を罵倒したという。
当然、幸子本人の同意なしでの中絶などできるはずもなかったが、あまりの屈辱と恐怖からショックを受けた幸子は泣きながらやっとの思いで自宅アパートへと帰った。

そして、唯一の友人である女性に電話をすると、事の次第を話したという。

その女性は、拓海さんの実家が経営する塗装店の従業員で拓海さんとも親しい人物と交際しており、かねてから幸子の悩みを聞いていた。
その日も、幸子をなだめ、慰めながら話を聞いていたというが、この日幸子はいつもと違っていた。
普段は少々わがままで依存体質ではあるものの、凶暴な面はなかったというが、この日の幸子は興奮冷めやらずといった体で、
「寝ている間に拓海を刺して自分も死ぬ」
などと物騒なことを口にした。

そして電話を切った幸子は、その言葉を裏付けるかのように金物店へ出向いて刃渡り16.7センチの文化包丁を一丁購入し寝室のベッドの下にしのばせた。

懇願と絶望

それでも幸子は最後までどうにか出産を拓海さんに認めてほしいと強く願っていて、何度も何度も、拓海さんに出産への思いを切々と訴えていた。
実家へと戻って実母に状況を説明した際も、あまりにむごい仕打ちに実母が直接拓海さんを諭すこともあった。その甲斐あってか、拓海さんも「もう一度考えてみるから待ってほしい」といい始めたことで、幸子は一縷の望みを託していた。

1月21日、この日こそは拓海さんから良い返事がもらえると期待して拓海さんの帰りを待っていた幸子だったが、やはり不安もあって、友人女性に電話して心を落ち着けようとしていた。
5時半ころ、仕事から帰宅した拓海さんが食事を始めたため、電話をいったん保留にしたうえで幸子は拓海さんに恐る恐る、聞いてみた。

「一緒にやってくれる(出産し結婚生活を続けていく)ことになったの?」

しかし、拓海さんの返事は無情なものだった。

「やっぱりだめだ。親もだめだと言っているし、俺もやりたいこともあるし、遊びたいから駄目だ。」
「おれの気持ちはもう変わらない。冷蔵庫、たんす、テレビは置いて行ってやるから」

この時拓海さんは、出産はおろか、幸子との結婚生活にも終止符を打つと、断言したのだった。

幸子の胸の内はいかばかりだったろう。
電話をとり、ふたたび友人女性と話をし始めた幸子は、もはや正常な判断が下せるような状況になかった。

「拓海が子供を生むなら別れると言って全然賛成してくれない。拓海が自分以外の人と結婚したら嫌だから別れない。あんな男をこの世にのさばらせておくのは許せないので殺す。」

話は拓海さんを殺害する内容が繰り返され、友人女性が思いとどまるよう諭すことで幸子もいったんは落ち着いたようにも見えたが、拓海さんが風呂に入ったころ、幸子は友人女性に決意を伝えた。

精神遅滞と、二律背反

裁判では幸子の生い立ちのみならず、その精神年齢や事件直前の幸子の精神状態も審理された。
弁護人は、確定的な殺意に基づくというよりも、幸子の命そのものと言ってもいい最愛の夫への信頼が崩れたこと、裏切られたことによる異常行動であるとし、犯行動機そのものを否認した。

検察はこれに対し、幸子の嫉妬深い性格が、中絶か離婚かの選択を迫られた挙句無理心中に走らせたとし、事前に包丁を準備し、その旨友人女性に話すなどしていたことから計画性もうかがわれるとした。
加えて、確かに妊娠中でありその責任能力もかなり減弱していたことは否めないとしながらも、弁護人が主張する、心神耗弱は認められないとした。

鑑定を行った医師によれば、幸子のIQは55(数字上では軽度の知的障害)で、加えて精神遅滞もあったという。精神年齢は9~10歳程度だった。
幸子は日ごろから口が重く、問われたことに対しても即答するようなことができなかった。
幼いころから両親は不仲で、父親の暴力のせいで両親は別居していた。そのため、母親が不在の時は鍵のかけられた部屋で過ごさざるを得ないなど、極めて不遇な幼少時代を送っていた。

さらに、虚弱体質や知的な問題で小学校の途中からは勉強についていけなくなり、両親の状況からもそれを気にかけてくれる大人にも恵まれず、幸子自身勉強への意欲が失せたという。
それだけが原因ではないだろうが、幸子は友達もできず、したがって健康的な社会性やコミュニケーション能力も育つことなく成長せざるを得なかった。

一方で、幸子に対して理解を示したり、優しくしてくれる人に出会うと極端に依存し、それは執着へと変わった。
その中の一人が、拓海さんだった。

人とのかかわりの中で、孤独に生きてきた少女は自分を愛してくれた拓海さんに全人生を賭けてもいいとさえ、思っていた。
しかし、幸子の中にもう一つのかけがえのない大切なものが、しかも愛してやまない拓海さんとの大切なものが宿ったことで、「それまでの」唯一無二の存在が幸子を苦しめることになってしまう。

鑑定した医師は、幸子の状態を「二律背反」とした。
二律背反とは、二つの命題、願望がそれぞれ両立しうると同時に、それらを達成させるためにはそれぞれの命題が致命的なネックになる状態をいう……幸子の場合でいえば、愛する人との結婚生活を継続することと、その愛する人との子供を出産することは本来両立しうることだが、結婚の継続のためには中絶が必須となり、出産を望めばそれを望まない拓海さんとの結婚生活は継続できなくなる、こういった状況にあった。

究極の二択というには、あまりにも乱暴かつ幸子の感情を著しく踏み躙っていた。

幸子は妊娠自体を5か月まで知らず、その事実を認識した直後から心身ともに疲弊する日常に直面していた。
不眠、下痢、頭痛などに悩まされ、おそらく妊娠による体調、心理面での変化もあっただろう。

浦和地方裁判所(当時)は、確定的殺意はその程度は弱いとしてもあったと認定、そのうえで、精神的な動揺が激しい状態であったこと、元来悩みや問題を適切に処理する能力が劣っていたこと、事件当日の拓海さんからの最後通牒を受けた以降の記憶が脱失していること、電話の相手の友人女性が「事件直前の電話の内容は支離滅裂だった」と証言していること、そして、友人女性に対し殺人の予告を行うこと自体が異常な状態であり、普段の幸子の人格からは考えられないということなどから、「本件犯行直前において、心因性意識障害に基づき、是非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力が著しく減弱した状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったもの」として、懲役3年執行猶予5年の判決(求刑懲役6年)を言い渡した。

輝きは戻らない

幸子は事件後、無事に子供を出産していた。しかし、その子の父親である拓海さんはこの世にもういなかった。
愛する人を失いたくないと必死だった幸子は、それでも拓海さんと引き換えに子供を産んだ。
裁判所は、拓海さんが一人っ子であり、しかも子供のなかった拓海さんの両親が特別養子縁組で育てた大切な大切な存在だったことや、拓海さん自身の無念さに思いを寄せつつも、量刑の理由のそのほとんどを幸子への同情を禁じ得ないと綴った。

幸子は拓海さんとの結婚をこれ以上ない幸せだと受け止めていて、それは「拓海と一緒にいられれば、おなかがすいても耐えられる」と話していた通り、何にも代えられないものだった。
しかし、その延長線上といえる妊娠が、何にも代え難い存在だったはずの拓海さんを上回った。というか、そもそもこんな理不尽な二者択一をせざるを得なくなるなど幸子でなくてもだれも思わない。
愛してやまない人との子を、なぜ、その愛する人と一緒にいるために天秤にかけなければ、諦めなければならないのか。

裁判所は、それを「不可能な選択」とした。

また、産婦人科に幸子の首根っこをひっつかんで連れて行き、医師の前で面罵した拓海さんの母親も、事件後は反省したのか幸子に対し厳しい処罰を望まないと述べていた。

そして何よりも、幸子がその命を守ったといってもいい子供が、幸子が収監されれば養育者を失うということになり、それこそ子供に不測の悪影響が懸念されるとして執行猶予がつけられた。

その名の通りの、幸せを願わずにいられない。

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読売新聞社 平成3年1月22日東京朝刊

信濃川エレジー

昭和40年5月9日、新潟県小千谷市高梨町。そこを流れる信濃川は、雪解け水が流れ込み増水していた。
5月とはいえ、まだまだ早朝は肌寒いこの日、その夫婦は朝からくるみの木を伐採するために家を出た。

夜が開け始めた午前5時、夫婦は信濃川の中洲に渡るため、川舟に乗り込むと本流に向けて漕ぎ出した。
櫂を繰りながら、慎重に進んでいると、不意に夫が妻に声をかける。

「危ないから、ポットに掴まっとれ!」

水嵩が増して激流となった信濃川。もし誤って落ちてしまえばあっという間にのまれてしまう。妻は咄嗟に立ち上がると、及び腰で舟の近くの水制ポットに掴まろうとした。

あっという間のできごとだった。水制ポットを過ぎる頃、妻の姿は舟の上から消えていた。

仲人の直感

それは悲劇的な事故として扱われた。信濃川に転落した妻の行方は分からず、新聞報道でも仲の良い夫婦に起きた悲劇というものが掲載された。

行方不明になったのは、小千谷市の水島マスミさん(仮名/当時40歳)。夫と二人の子を持つ主婦だった。その後マスミさんは溺死体で発見された。

夫婦が一緒にいたときの不慮の事故ということに思われたが、どうしてもマスミさんの死を事故だと思えない人物がいた。

「新聞報道を見たとき、とうとうやったかと思いました。」

そしてその人物の疑念は、現実のものとなった。

マスミさんが死亡したのち、警察は夫で当時舟に一緒に乗っていた水島謙作(仮名)を、妻殺害の容疑で逮捕したのだ。
さらに、謙作を唆してマスミさんを殺害させたとして、小千谷市内の女も逮捕された。
二人は三年来の不倫関係にあり、女はこの年の3月に別の男性と結婚したばかりだった。
マスミさんの死が事故ではないと思ったのは、この女の結婚を取り持った仲人の男性だった。

契り

謙助と共に逮捕されたのは田辺典子(仮名)。世間的には新婚のごく普通の主婦だった。
しかし先に述べたとおり、典子には謙作という愛人がいたのだ。

二人の出会いは昭和37年。同じ職場で働いていたことから親密になり、やがて性的な関係を持つようになる。この時は典子は独身であったが、謙作にはマスミさんという妻も、二人の子供もいた。

昭和39年になると、典子に縁談が持ち上がる。この時代、まだまだ親や親せきが持ち込んだ縁談を「気に入らない」で無碍にできるほど、女性の立場は高くはなかったろう。
が、典子は烈火のごとく怒り、その縁談を全力で拒否したという。その際、謙作との不倫をぶちまけ、自分はこの人を愛している、いずれ結婚するのだと言い張って、父親らを仰天させた。

結局、不倫という状態では世間体もはばかられ、かつ謙作の職場にも迷惑がかかるということから、勤務先の工場長も交えての話し合いがもたれ、念書が交わされた。
その後、工場長は謙作を同行の上で典子の家に赴くと、典子の父親同席のもと典子に対し、「水島のことはあきらめて、嫁に行きなさい」と諭した。
同行した謙作も、典子と父親に対し、「典子さんとは別れます」と約束をした。

そして昭和40年3月、典子は婚約者の男性の許へ嫁いだのだった。

しかし、典子はこの結婚を受け入れた形をとりながら、謙作に対し一つの誓いを立てていた。

それは、たとえ結婚しても、謙作以外と肉体関係を持たないというものだった。

貯水池の密会

結婚した後も、典子は謙作と逢瀬を重ね、それまで同様肉体関係を持っていた。
一方の夫とは、あの契りのとおり、一度たりとも関係を持っていなかったという。典子が言うには、そもそもケチのついた結婚でもあり、事情は夫も承知だったとのことで、そもそも夫からの求めもなかったらしいが、これは後の公判において夫は否定していた。

4月15日、小千谷市にある旧陸軍の貯水タンク付近で典子は謙作に対し、
「私が夫と離別しても、あなたに妻がいたのでは一緒になんかなれない。後々未練が残らぬように、いっそ殺してくれ。」
と執拗に迫っていた。

謙作の心はどうだったか。

謙作は実にズルい男だった。不倫している時点でそうなのだが、謙作は3年間の不倫関係において、3度も典子を妊娠させ、そのたびに中絶させていたのだ。

もちろん、典子にも多大な非はある。しかし、謙作は典子を愛人にしておきながら、実はほかにも複数交際している女性がいたのだ。

典子がそれを知っていたかどうかはわからないものの、親に背いてでも、邪魔な妻を殺害してでも謙作と一緒になるのだという強い思いがあった(いいか悪いかは別です)。

典子の思いをこの時謙作は思い知ったとみえた。
以降、典子の「妻を殺してくれ」という願いが謙作の心をぼんやりとではあるが、捉えて離さなかったようだ。

そして前々から決まっていたクルミの木の伐採の日、濁流に揺れる木の葉のような舟の上で、事故に見せかけてマスミさんを殺害することを思いついたのだった。

告白

一審の新潟地方裁判所長岡支部では謙作に対し無期懲役、典子に対して懲役10年が言い渡された。
典子、謙作ともに控訴したが、東京高裁ではいずれも棄却。特に謙作に対しては、長年善き妻、善き母として尽くしてきたマスミさんを事故に見せかけて殺害するなど言語道断、極刑に近い厳罰を持って臨まなければならないと厳しく批難した。

一方で、謙作が殺意を持ってマスミさんを殺害したとする物的証拠はなかった。
典子がマスミさんを殺してくれと頼んだというのも、いわゆる寝物語でのことであり、言葉のあやとでもいうべきか、そこまでしてでもと思うほどの強い愛情を示しただけであると弁護側は反論した。

しかし裁判所はこれを一蹴。
実は典子は、あの貯水池での密会以外でも、謙作に対してはっきりと「奥さんを殺してもらって…」という教唆をしていたのだ。
それは、謙作にあてた恋文の中にあった。

また、典子がつけていた日記の中で、マスミさんが行方不明になったという新聞記事の切り抜きが貼られているのも見つかっていた。
そしてそれらの存在は、典子の夫と仲人も、事件発覚より前に知っていたことだった。

裁判では、典子の手紙が貯水池でのやり取りとあわせて教唆の証拠となり、典子の日記に貼られた新聞記事は、願いを叶えてくれた謙作への感謝と記念であると認定した。

二人は上告。そこでは弁護側から原審にはいくつかの違法な点を審理していないことなどが上告の理由として挙げられており、最高裁はそれら(被告人の知る権利を侵害したと思われる点)は違法であると認定したが、そのうえでその違法は判決に影響を及ぼさないとして上告を棄却、二人の刑は確定した。

信濃川にも、ようやく夏の気配がしていた。

**************

昭和41年7月18日/新潟地方裁判所長岡支部/判決/
昭和42年11月13日/東京高等裁判所/第7刑事部/判決
昭和43年6月25日/最高裁判所第三小法廷/決定
昭和43年(あ)267号
最高裁判所刑事判例集22巻6号558頁
D1-Law第一法規法情報総合データベース

 

殺す親、殺される子供~3つの子殺し~

まえがき

子供は、誰にどのように育てられたか、が非常に大切であると私は考えている。
危険から守り話を聞いてくれる大人がいて、教育と適切なしつけを受けられ、衣食住がそれなりに足りていること。
ここに出てくる「大人」は、血のつながりは関係ない。両親がいなくても、自分を守ってくれる存在があればよい。

たとえ衣食住が足りていてもその守ってくれる存在がない、それだけで子供の環境は劇的に悪化し、ましてや本来保護してくれるはずの両親、あるいは両親のどちらかが「危険」な存在であったとしたら。

親であるというだけで外部からそれは見えなくなり、ことは軽く考えられ、結果子供の命は脅かされる。

殺す親と、殺される子供の事件。

荒川区の母親と子供

平成26年12月29日、荒川区のマンションの13階から5歳の男の子が転落したと警察に通報があった。
外出先から帰宅した父親が、男児が家の中にいないことを知って外を確認したところ、マンション敷地内で男児が倒れていたのを発見したという。男児は間もなく死亡が確認された。

亡くなったのは、このマンションで両親と暮らす山岡光希ちゃん(苗字のみ仮名/当時5歳)。
光希ちゃんが転落した当時、自宅には母親がいて、光希ちゃんは就寝しているはずだった。
所用で直前に家を出た父親が10分後に帰宅すると、母親が狼狽えて光希ちゃんの姿が見えないと話したといい、周辺を捜索したところ倒れている光希ちゃんが発見された。

母親は自宅にいたがトイレに行くなどして気付いたら寝室の窓が開いていたという。
状況から、光希ちゃんが両親の姿が見えないことを不安に思い、窓から身を乗り出すなどして転落したとみていたが、不審な点があった。
転落したとみられる窓とその周辺に、光希ちゃんの指紋が一切ついていなかったのだ。

さらに、母親が一週間ほど前に光希ちゃんに対し、首を絞めるという行動に出ていた事実も発覚。
平成12年12月30日、警視庁尾久署はこの母親をまずその時の殺人未遂容疑で逮捕し、あわせて今回の光希ちゃんの転落についても関与しているとみて捜査を開始した。

ただ、この母親には精神科への通院歴があったため、逮捕後およそ3か月かけて精神鑑定が行われることになった。

クリスマスパーティーの夜

逮捕されたのは加藤愛(当時35歳)。調べによると、第一の事件として、平成15年12月23日、荒川区のホテルで行われた夫の会社のクリスマスパーティーにおいて、愛は光希ちゃんを女性トイレに連れ込むとその個室内で暴行を働いた。
捜しに来た夫や知人女性らがトイレに入ると、個室の中から「ママ、ごめんなさい」という光希くんの悲痛な声が聞こえたという。
夫らが必死でなだめ説得したところ、その時は光希くんを解放。しかし光希くんの首には、何かで絞められたような赤い痕が痛々しく残っていた。

愛はこの日の出来事を「何か飲み込んだようだったため、それを吐かせようとしていた」などと夫らに釈明し、首を絞めたことを頑として認めなかった。
夫はそれでも不信感がぬぐえず、また、光希ちゃん自身がトイレ内の電源コードを指さし、「あれでママに首痛くされた」と話したことから証拠として光希ちゃんの顔と首の状態を写真に残した。

この事件があって一週間もしないうちの悲劇だった。
しかも、夫はこの23日の出来事を警察に「妻の精神が不安定で子供に危害を加えた。精神科に入院させたい」と電話をかけていたが、相談にとどまったことと、その時住所も氏名も言わずに電話を切ったことから、警察ではそれ以上の対応が出来ていなかった。

その電話は、光希ちゃんが転落する9時間前のことだった。

愛はクリスマスパーティーの夜の事件で逮捕されたが、当然、光希ちゃんの転落死についても関与が疑われた。
精神鑑定が行われたのちの平成27年5月、警視庁捜査一課は愛に刑事責任能力があると判断、光希ちゃんを投げ落としたとして愛を殺人の容疑で再逮捕した。
取り調べにおいて、愛は光希ちゃんを自ら抱き上げ、13階の自宅マンションの窓から落としたことを認めていた。
しかし、平成28年3月から始まった裁判員裁判において、愛は光希ちゃん殺害を否認した。

手に負えない女

裁判の過程で、愛のそれまでと、結婚生活が明らかとなった。
幼い頃家庭に恵まれなかったことや、義理の父親から首を絞められるという虐待経験があったことも分かった。さらに、軽度ではあるが、愛には知的障害もあった。

これらの事実を踏まえ、弁護側は12月23日のトイレでの事件は、過去の虐待体験がフラッシュバックして発作的にしてしまった行動であり、そこに殺意はないとし、殺人未遂ではなく傷害罪に留まると主張、さらに、転落死については完全な事故死であるとして無罪を主張した。

一方で検察側は、年の離れた夫の愛情を独り占めしたいという愛の独りよがりな願望が根底にあり、光希ちゃんが生まれたことでその夫の愛情が光希ちゃんへ向けられることへの苛立ち、さらには育児へのストレスがあいまって、光希ちゃんがいなくなればまた夫と二人の生活が送れると考えるに至り、短時間に躊躇なく殺害しており悪質として、懲役15年を求刑していた。

証人尋問では、クリスマスパーティーの夜の事件を間近で見て、愛に対し説得を試みた知人女性が出廷。
普段から愛は子育てや光希ちゃん自身に興味がない様子だったと証言、一方で、光希ちゃんは常々不安定な母親を気遣い、幼いながらに「ママ、大丈夫?」と心配していたといい、とにかくかわいくて良い子だったと涙ながらに話した。

光希ちゃんの父親である愛の元夫(裁判当時は離婚済み)も証言台に立った。
元夫によれば、精神的に不安定になった愛を入院させるか迷っていた時、光希ちゃんに「ママいなくなっても(入院しても)大丈夫か?」と聞いたという。
光希ちゃんは、「大丈夫、でもママは好きだから僕が守る」と答えたのだという。
元夫から見ても、愛は育児に割く時間を極力減らそうとしており、光希ちゃんに対しても一緒にいたくないような、そんな風に思えていた。
それでも、光希ちゃんはそんなママが大好きだったのだと、苦しい胸の内を証言した。

しかしそんな関係者らの証言をよそに、愛は一貫して「転落は事故。私は関係ない」という主張を変えなかった。ホテルでの首絞めに関しては認めはしたものの、発作的な行動であり、殺意などなかったと話した。

転落した夜については、
「おならをしたため換気する目的で寝室の窓を開けた。その後、トイレに入っていた時に光希が起きだしてパパを呼ぶ声がしていたから、窓から身を乗り出して落ちたと思う。」
という主張を繰り広げ、窓枠に光希ちゃんの指紋がなかったことについては、自分が窓枠を拭いたからだと話した。
息子が転落した状況であるにもかかわらず真っ先に窓枠を拭くという不可解な行動をしたことについては、
「自分が落としたと疑われると思ったから、自分の指紋を拭くためにしたこと」
とこれまた理解に苦しむ供述をした。

ただ、取り調べの段階では愛は光希ちゃんを窓から落としたことを完全に認めていた。しかもその様子は録画されており、裁判で公開された。
もちろんそれは当初の予定通りのことであり、この裁判の争点は
「愛の取り調べ段階での供述の信用性」
だった。

懲役11年

裁判員裁判として行われた公判では、証拠としてその取り調べの様子を録画したビデオが提出された。
それによれば、愛は当初より録画されていることを認識したうえで、「子どもなんかいないほうがいいと思い、窓から突き落とした」「(成長して)体重が重くなると抱えられない。今だったら自分一人の力でできると思った」などと、光希ちゃんに対する明らかな殺意を認め、その方法についても自発的に証言していた。
あまりにしゃべるため、警察官の側が「あなたは今、自発的に話していますか?」と確認する場面もあった。

それを受けて、公判で無罪主張に転じた愛は、
「自責の念から自分が殺したようなものだ、と考えた」という主張を展開したが、裁判員らの目には何が真実かは明らかだった。

平成28年3月23日、東京地裁の斎藤啓昭裁判長は、
「自白は体験しなければ語ることができない臨場感があり、供述の信用性に疑問はない。」とし、愛の無罪主張を退けた。
一方で、クリスマスパーティーの夜の首絞めについては、発作的な側面が否めず、殺意の認定までは出来ないとして傷害罪にとどまるとした。

そのうえで、
「長男を殺害すれば夫と二人だけの生活に戻って愛情を独占でき、育児のストレスから逃れられると考えた。5歳の長男が母親によって人生を奪われた結果はあまりにも無残で、取り返しがつかない」
として、愛に懲役11年の判決を言い渡した。

盗癖

事件後、詳細が明らかになり、23日の首絞め事件が報道されると一部では元夫の行動に疑問が集まった。
光希ちゃんが死亡した夜、元夫は所用で短時間ではあったが一人外出していた。つい先日、我が子の首を絞めしかもそれを反省もせずに認めようともしない妻と、その被害に遭った当事者である我が子を二人きりにさせたことが理解に苦しむ、というのが理由だった。

実はこの外出には、重大な理由があった。

愛は「盗癖」があったのだ。
始まりは平成21年、ちょうど光希ちゃんが生まれた頃からだという。
愛は万引きを繰り返し、何度も検挙されていた。その盗癖は酷く、回数は数えきれず身元引受で呼び出された元夫が謝罪している最中にも盗みを働くという有様だった。

事態を重く考えた元夫は、四六時中愛を監視するようになる。監視と言っても、会社経営者だった元夫が自身の会社に愛を同行させ、常に人の目がある場所に愛を置いておく、そういう状態だった。
これは致し方ないと思うが、当の愛にとっては相当なストレスだったらしい。
そこに子育てが加わり、本来一身に浴びるはずの夫からの愛情が光希ちゃんにも注がれることが、愛には我慢ならなかった。
盗癖は治まらず、平成26年12月、とうとう元夫は離婚届を突き付けた。

「今度やったら、離婚する。息子は自分が引き取る」

そう愛に告げたというが、実質これが愛の心の闇を増幅させてしまった。

光希ちゃんが転落したあの夜、元夫が外出したのは理由があった。
携帯電話を会社に忘れたと、夜になって突然愛が言い出した。そして、それを取りに行くと言った。
当然、一人になど出来るわけもなく、携帯電話は元夫が会社へ取りに戻ることにしたのだ。
会社と自宅マンションは往復10分ほどの距離だったことで、夫は急いで会社へと戻った。
その、10分の間に、愛は光希ちゃんを投げ落としたのだ。

これについては、計画性は否定されたが実際に携帯電話は「わざと」置き忘れていた。
愛はこの日、外出先から会社の駐車場へと家族で戻った時、「忘れ物をした」といっていったん会社の中へ戻っていた。そしてその時に、「わざと」携帯電話を置いてきていたのだ。

そして元夫が携帯電話を取りに戻るため目を離したたった10分の間に、光希ちゃんを窓から落とし、窓枠を拭いてコロコロを落とすなどの偽装をした後、マンションから出て光希ちゃんを探すふりをしながら夫と合流したのだ。

これを、計画的と言わずしてなんというのだろうか。
もちろん、携帯電話を忘れたから取りに戻る、というのを口実にまたどこかで盗みを働くつもりだった可能性もある。だからこそ、元夫は家にいろと命じ、自分が代わりに取りに行ったのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。いつ何時も「家の外で」一人にはさせてもらえなかったほどなのに、忘れ物を取りに行かせてもらえるなどと思うだろうか。

もし、元夫が取りに行くことになるのを想定していたとしたら。というか、最初から目的が光希ちゃんを殺害することだったなら。

裁判ではその計画性までは認定されなかったが、少なくとも懲役15年が11年に減った要因でもあるだろう。

光希ちゃんは母親によって突き落とされ、血まみれで倒れていた。父親が駆け付け抱き寄せると、父親の指をぎゅっと握ったという。
人工呼吸を施した際には、父親の舌を嚙んだという。
母は最後まで反省の色も、涙も、見せることはなかった。

福岡の子沢山家族

平成10年1月7日、福岡県東区。
福岡市内の病院に幼い男の子が運び込まれた。
付き添っていたのは母親とみられ、遅れて男児の父親も駆けつけた。
しかしすでに男児は死亡しており、両親らに事情を聞くと、
「前日の夜、言うことを聞かないために躾のつもりで屋外に出していた。暗くなればそのうち家の中に入ってくるだろうと思い、確認せずに寝てしまっていた。昼ごろ、外に倒れているのを発見した。」
ということをしどろもどろになりながら答えた。

男児の死因は凍死。運ばれた際も、男児が着ていたのはTシャツにトレーナー、そして下半身はなぜか裸で、足首には何かのコードのようなものが巻き付いていた。
しかも、男児の体には複数の火傷と見られる化膿した傷痕、顔面には殴られたような内出血の痕が認められた。

病院から連絡を受けた警察は両親から事情を聞き、ひどく憔悴していたことや、母親が「玄関には鍵はかかっておらず、まさか一晩中外にいるとは思わなかった」と述べ落ち込んでいたことなどから、不幸な事故であると判断。母親の過失は問わない方針を示した。

しかし2ヶ月後の3月3日、福岡県警捜査一課と東署は、男児を殴り2週間の怪我を負わせたとして父親を傷害と保護責任者遺棄致死の容疑で、そして母親を保護責任者遺棄致死の容疑で書類送検した。

大家族

書類送検されたのは福岡県東区在住の内装業、河野圭一(仮名/当時30歳)と、妻で無職の恵理子(仮名/当時34歳)。
死亡したのは、圭一の息子の大輔くん(仮名/当時6歳)だった。

実はこの夫婦には、大輔くんの他に上は15歳、下は0歳までの7人の子供がいた。
圭一と恵理子は再婚同士で、大輔くんが圭一と前妻との間の子、上の5人が恵理子の連れ子、そして二人の間の子供が2人という構成だった(事件当時)。

大輔くんは平成3年10月16日に圭一と前妻との間に生まれ、当初は圭一の実家で祖父母らと同居する生活を送っていた。
しかし大輔くんが1歳の頃、母親が別居。その1ヶ月後には、父親の圭一も実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育された。
両親はその3年後に離婚した。

一方の恵理子もまた、パンチの効いた人生を歩んでいた。
恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産んだ。そして平成5年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいる。
しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子が離婚する1年前、テレクラである。
この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。
平成8年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出。圭一は恵理子の5人の子供と養子縁組をした。
大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃である。同じように、恵理子も大輔くんと養子縁組をした。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれている……

圭一と大輔くん、恵理子とその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園する。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えた。
事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子の連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一と恵理子の生まれたばかりの子供が在籍していた。

ここでの大輔くんの一家は、強烈な印象を残している。

要注意の親子

入園当初から、大輔くんは「異様」だった。
表現が正しくないことは百も承知だが、「飢えている(かつえている)」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常だった。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったという。
他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えなかった。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもあった。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきた。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたという。
病院では2針縫う処置がとられた。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせた。
「おうちで何かされたと?」
保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えない。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていた。

園では母親の恵理子についても対応に苦慮していた。
あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのだろう、園の着替えを着せたことがあったという。
すると恵理子は、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って食ってかかった。
ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。
さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節があった。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子に対し、大輔くんも態度が頑なになっているようだった。

事件の日

正月、圭一と家族は全員で圭一の実家へと新年の挨拶に出かけた。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったという。
5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一と恵理子はもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めた。
しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子は外で立っているように言いつける。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいた。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一にそう言われた恵理子は、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一と恵理子は大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。
恵理子が気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表。
しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子が、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断。
圭一については日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子に指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となった。

恵理子は大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていた。

育て難い子

書類送検とはいえ二人は起訴された。
平成13年から始まった裁判では、圭一による大輔くんへの暴行と、恵理子の日頃の大輔くんとの関わり方などが詳らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされた。
大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたという。
また、大輔くんの特徴として恵理子は、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していた。

ただ、これらのことは恵理子の主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もあった。
平成9年の7月頃、恵理子が出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがあった。
その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったという。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もあった。

恵理子はその結果を聞かされ、圭一との間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一も恵理子もそれを了承もしていた。
しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子が言い出し、施設入所は白紙になってしまった。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子と圭一にとってもいいことだったはずだ。
ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子は医師に対し、
「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」
と話していたことをカルテに記していた。

恵理子は保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一よりも遥かに大輔くんに接してはいた。
しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象がある。
言い方を選ばずにいえば、恵理子は子供を産むことしか取り柄のない女だったように思う。無計画にも程がある出産歴に、私は正直嫌悪感を抱いた。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのだ。
だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶した。取り上げられては困ったのだ。苦労している自分を演じられなくなってしまうからだ。

裁判中も、恵理子は検事から親としての自覚のなさを問われると、
「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もあった。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かった。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済んだ。
小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られた。
また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていた。
円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものだった。
胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白だった。

恵理子と圭一は、何かにつけて大輔くんに食事を与えなかったり、外に放置する、あるいは動く回れないよう足首を家具に縛り付けるといった虐待を行なっていたが、圭一と恵理子にしてみればそれらは全て正当な理由のもとに行われてきたものだと信じて疑わなかった。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、
「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」
とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難した。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という激甘だった。

理由は、家に残った8人の子供の存在だった。

投書

時代的なこともあるだろうが、やはり子殺しは軽い。
結局、裁判長をして「悲惨」と言わしめた大輔くんの死に対する圭一と恵理子が受けた罰は、「真面目に反省してください」と言うお言葉だけだったに等しかった。

確かに汲むべき事情というか、大輔くんの問題行動や子供の多さなどいろいろあったろうが、いやいやそれら全て、この二人が選択して作り上げてきたものではないのか。
無計画に子供を作りまくったのも、自分たちが好きで作ったんじゃないのか。

そしてその無計画に生みまくった子供たちの存在が、この親を懲役から救ったわけだ。うーん。

当初警察が事故として扱うと発表したあと、高知新聞に投書が掲載された。
30代の保育士と名乗る女性は、真っ向この警察の判断に抗議した。
女性は、
「事故死だなんて到底思えない。冬の夜に、一晩外にいれば死んでしまうかもしれないということもわからないほどの子どもに、家の外にいるように言ったまま様子を見に行くこともしないなんて殺人行為ではないでしょうか?
(中略)
最近、幼児虐待についての問題が表面化していますが、この事件を事故死で片付けてしまう警察や日本の法律には、虐待されている子どもたちを救おうとする気持ちすら感じられない
(中略)
でも傷つけたのが自分の子どもなら、親はどんな言い訳も可能です。自分の親に傷つけられた子どもの気持ちは、誰が代弁してやるのでしょうか。
子どもの心を思えば、他人から受ける暴力よりも、自分の頼るべき人から受ける暴力の方がより深く傷つくのではないでしょうか。(後略)」

首がもげるほど同意とはこのことだと思うほど、この女性が抱く危機感は重要なことである。
なんとか警察も事件化したとはいえ、結果として法は大輔くんの無念に寄り添いながらも、殺した親を優先させた。
というか、こんな親に8人も子育てさせるのかよ・・・

大変だったから、育て難い子だったから、一人くらい死んでも仕方ないとでもいうのだろうか。

盗み癖があったという大輔くんは、正月に祖父母にもらったお年玉を、封も開けずにそのまま恵理子に手渡していた。断言してもいいが、この親は子供のお年玉を巻き上げていた。
小さな体に、しつけという名の暴力を一身に受け続けてきた大輔くんのことを、兄弟姉妹たちは覚えているんだろうか。

松本の若い夫婦

平成13年5月24日。新緑眩しい長野県塩尻市のみどり湖に、スポーツバッグが浮いた。
釣りのできる湖としても知られるみどり湖には管理人がおり、この日も釣り客から料金を徴収するために釣り桟橋を渡っていた時、そのバッグを見つけたという。
単なる不法投棄かと、そのバッグを引き揚げてみると、とてつもない異臭がしたため、通報。アシックス製のビニールのスポーツバッグのファスナーは閉じられたままだった。

駆けつけた警察官によってスポーツバッグが開けられると、中から小さな遺体が見つかった。
身長約80センチ、前屈みに膝を抱えるような状態で押し込まれたその遺体は、すでに腐敗が始まっていた。

そして、遺体と一緒に、ソフトボールくらいの大きさの石が数個、入れられていた。

判明しない身元

警察では、死体遺棄事件として捜査を開始したが、そもそもこの遺体がどこの誰なのか、全く分からなかった。
遺体の身長などから、間違いなく2歳前後の幼児であることはわかっていたが、塩尻市内に行方のわからない幼児はいなかった。
入れられていたスポーツバッグも大量に流通しているもので、遺体と一緒に入れられていたタオルと、なぜか女性用のレース製のショーツも、特に身元につながるようなものではなかった。

遺体発見から1週間、死因すら特定できず、捜査は難航。
ただ、幼児の血液型はAB型、上下に8本ずつ歯が生え出していたこと、そして、腕にはBCGの注射痕があることが判明した。
そこで、塩尻署と県警捜査一課は、塩尻市だけでなく松本、諏訪、岡谷、茅野などの中南信地方の自治体に、BCGを受けた1〜3歳の幼児について行方がわからなくなっている子供がいないかを中心に探った。

遺体発見から1ヶ月が経過した6月27日。
松本市内の託児所から、4月以降姿を見ていない当時1歳9ヶ月の子供がいると連絡が入り、捜査員らが両親から事情を聞いたところ、両親が子供をみどり湖に棄てたことを認めた。
死体遺棄容疑で逮捕されたのは、松本市在住の飲食店店員、林善彦(当時22歳)と、妻の絵美(当時21歳)という、若い夫婦だった。

二人のそれまで

湖に棄てられていたのは、長男の克樹ちゃん(当時1歳9ヶ月)で、二人は「克樹が死んだので湖に棄てた」と供述していたが、その死因については曖昧な供述しかしていなかった。

死亡の経緯は別として、二人は5月中旬、自宅で死亡した克樹ちゃんの遺体をタオルで包み、スポーツバッグに入れておもしのために石を入れた上で遺棄したと話していた。

二人は松本城に近い住宅街の中のアパートで暮らしていたといい、克樹ちゃんを遺棄した後、近隣の人らには「子供は実家に預けている」と話していたという。
善彦は当時、JR松本駅に近い場所のスナックでウェイターとして勤務。自宅はそのスナックの従業員寮だったといい、その年の2月頃からこのアパートで暮らしていた。

絵美も、同じように夜の店でホステスとして働いていて、その年の3月頃から克樹ちゃんを夜間の託児所に預けるようになっていた。

若い二人の出会いは平成10年の熊本だった。
ゲームセンターで知り合った二人はすぐに交際を始めた。出会って4ヶ月目には絵美の妊娠がわかったことで翌年の2月に婚姻届を提出した。
しかし若い二人のこの妊娠と結婚は大きな問題を孕んでいた。
絵美は当時、善彦以外にも交際相手が複数おり、加えて援助交際も行なっていたことで、妊娠が判明した時正直誰の子なのかわからなかった。
ところが善彦もそれを把握しており、その上で、
「多分俺の子だよ、産んでほしい、すぐ結婚しよう」
という斜め上の漢気を見せたことで、絵美も産んで結婚しようと決断した。

案の定、生まれた克樹ちゃんの血液型は、0型の善彦とB型の絵美からは生まれ得ないAB型だった。
が、若い二人は「血液型より直感が大事」だったため、以降も克樹ちゃんは善彦の子どもだと信じて育てることにした。

ここまでは、ツッコミどころはあるとしても協力して子供を育てようとしているともいえ、むしろ細けえことはいいんだよ的な懐の大きさも感じられ、温かく見守ろうとすら思えるわけだが、直後から二人の子育て生活はガラガラと音を立てて崩壊し始める。
崩壊のきっかけは、善彦の勤務シフトだった。

熊本県内の工場に勤務してまじめに働いていた善彦だったが、夜勤のある職場だった。
ある時、絵美から一晩中一人で子育てをするのはきついので夜勤をやめてほしいと頼まれる。
今ならば、それを受け入れない会社が怒られてしまうし、そもそも若いふたりにはサポートはあったほうが良かった。この点での絵美の訴えはよく理解できる。
善彦もそんな絵美の申し出を受け、会社の上司にかけあうなどしてみたが、認めてもらえなかった。

結果、善彦は会社を退職、その後も転職を試みるも長続きしなかった。

生活費は消費者金融、実家からの持ち出しに加え、絵美の援助交際でまかなった。が、常にぎりぎりの生活だった。

援交する妻と黙認の夫

平成12年に入ると、絵美が実家の金を持ち出すことが増えてくる。おそらくだが、実家もそんな絵美に愛想をつかせていたのか、その年の5月、絵美は実家である騒動を起こす。

実家から金を持ち出そうと、金庫ごと盗んだのだ。

当初は第三者の犯行を装っていたようだが、家族が警察に被害届を出そうとしていると知ると、自身の犯行がバレることを恐れてなんと善彦と克樹ちゃんと逃亡。宮城県を経由して宇都宮市へ逃れた。
一旦は宇都宮市内で生活をし始めたが、絵美が交通違反で切符を切られたことから実家に居場所がばれるのでは、と不安になり、またもや逃げるように宇都宮を離れた。

そして12月から、松本市内の事件当時暮らしていたアパートへ越してきていたのだ。念のため、表札は「平林」に変えていた。

善彦も絵美も仕事を見つけ、克樹ちゃんの預け先も確保できた。実家には申し訳ないが、所詮家族間のことでもあるわけで、今後まじめに働いていつか熊本に変えることが出来れば、時が許してくれることもあると思わなくもないが、そもそも絵美はこの生活に嫌気がさしていた。

平成13年2月、絵美が勤務する店の客である男性と、絵美は肉体関係を持つ。善彦に隠れ、ほぼ毎日のように逢瀬を重ねたというが、その男性と会うための資金作りとして、またもや援助交際も始めていた。
内緒とはいえ、善彦も絵美の挙動不審には気付いていたという。しかし、「友達と会う」と言われるとそれ以上追及もできず、また援助交際については「生活費のため」という大義名分のもと、黙認していた。

絵美は男性にのめりこんでいったが、どうやら夫と子供がいることはこの男性に隠していたと思われる。
なぜなら、この男性がせめて子供の存在を知っていたとしたら、この後の犯行は起こらなかった可能性があるからだ。

善彦と別れ、男性と結婚したいと思うようになった絵美に、男性は、(絵美に)夫や子供がいたとしたら別れる、付き合ってない、と話していた。
現時点で善彦は絵美の不倫をうすうす気づいていながら何も言ってこないのだから、正直善彦の存在は絵美にとってネックではなかったろう。
が、克樹ちゃんの存在は、どうしようもない。隠し通せなくなるのも時間の問題だった。

絵美の頭の中は男性のことでいっぱいで、どうすれば夫と子供の存在を男性に知られることなくきれいさっぱり縁が切れるか、そればかりを考えるようになっていった。
そして、善彦と離婚して克樹ちゃんを善彦に育ててもらうか、もしくは克樹ちゃんに死んでもらうか、このどちらかしかないと思うようになってしまった。アホである。

言いなり

4月16日、絵美は善彦に対し、男性の存在を暴露した。
そのうえで、
「(相手の男性に)結婚してることや克樹のことは話してないから克樹を連れてはいけない。邪魔だし、面倒見る気もないから置いていく。克樹を置いてでもAちゃん(不倫相手)のところへ行く。だからあんたが克樹の面倒みて。あんたが面倒みれないんなら殺すしかないと思ってる。」
と手紙に書いて善彦に渡した。まともに受ける方がどうかしているというような内容だが、これを渡された善彦も当然、殺す云々のくだりはいわゆる絵美の脅し文句だと受け止めていた。

しかしその後も、克樹ちゃんを殺すしかないといった主旨のメールが絵美から届くことで、絵美は本気でこう言っている、と思うようになったという。

善彦としては殺すなんて、という思いは当然あったとみえるが、だからといって克樹ちゃんを一人で育てていくことには抵抗があった。そこで、絵美に対し、殺す云々についての明言は避けたものの、
「俺も面倒はみられない」
という返答をした。

そしてふたりは何度かの意思確認を経て、4月20日午前8時ころ、アパートの風呂に水を張り、克樹ちゃんを抱き上げそのまま沈めた。
克樹ちゃんは激しく抵抗し、かぶせた風呂の蓋を渾身の力で蹴りあげたという。それを、善彦と絵美は協力して抑えつけ、やがて克樹ちゃんは溺死した。

克樹ちゃんの遺体をバスタオルにくるむと、絵美の私物であるスポーツバッグに入れ、重石用の石を3つ入れて車に乗り込んだ。ちなみに遺体発見時に一緒に見つかったレースの女性用下着は、おそらく絵美のもので、適当にひっつかんだバスタオルに紛れていたか、元からスポーツバッグに入っていたと思われ特に意味はないようだった。
そして人の目がなくなる深夜、善彦がスポーツバッグを持って車でみどり湖まで行くと、そのバッグを抱えて湖に入り、数十メートル泳いでスポーツバッグを沈めた。

ふたりはその後も何食わぬ顔で普通に生活していたという。善彦は逮捕される日までスナックに勤めていたし、絵美は晴れ晴れとした気持ちで男性の元へ足しげく通う日々だった。

しかしそんな日々は、一か月で終わりを迎えた。

情状酌量の余地なし

裁判では犯行当日の様子もつまびらかにされた。
その中で、一旦風呂に沈めた克樹ちゃんが予想以上に暴れたことで怯んだ善彦が、「今なら(助ければ)間に合う!!」と言ったのを、「ここで止めたら二度とできなくなる」と絵美が聞き入れなかったことも明かされた。

検察は絵美に懲役13年、善彦に懲役10年を求刑。弁護側も「今は反省している。弁解の余地もない」と繰り返すにとどまるほど、このふたりの犯行動機、その様態について、庇えるところがほとんどなかった。

長野地裁松本支部の千徳輝夫裁判長は、普通このような親が子供を殺す事件ではそこまで追い詰められたことが理解できる事情が少なからずあるものだが、本件ではそのような事情はうかがえないとして厳しく二人を断じた。
克樹ちゃんは直前まで、善彦や絵美と無邪気に遊んでいた。まさか、今目の前で自分を殺す段取りをされているなど思いもしなかった。
一切の抵抗もなく抱き上げられ、母の胸で安心しきっている克樹ちゃんを、絵美は躊躇なく風呂に沈めたのだ。
どれほど苦しかったろうか。何が起きたのかわけもわからず、母の手によって沈められたこともわからず、克樹ちゃんはおそらく母に、そして父だと思っていた善彦に助けを求めたはずだ。

平成13年12月18日、長野地裁松本支部は絵美に懲役12年、善彦に懲役10年の判決を言い渡した。
さすがに二人は控訴しなかった。

絵美の極悪非道ぶりはもうどうしようもないとして、この善彦のある種の人の好さというか、なんにでも迎合するというか、これは性格なのだろうか。
そもそも克樹ちゃんは自分の子ではないことは、本当はわかっていたはずだ。それでも、むしろそれごと受け入れることで絵美の歓心を買おうとしたのだろうか。
絵美が離婚を申し出、克樹ちゃんのこともいらないと言ったとして、たしかに善彦がすべてを引き受ける必要もない。
しかしそれなら熊本の実家に連絡するとか、いくらでもやりようがあったと思えるのに、結局絵美の「殺すしかない」に同調してしまっている。

結局、熊本に連絡すれば絵美が困る、離婚を受け入れなけらば絵美が困る、子どもの存在があれば結局いつか絵美が困る、全部絵美のため。
ようは、善彦はその経緯がどうあれ、絵美のために生きているようなものだったのかもしれない。

それにしても、計画的な殺人と死体遺棄で情状酌量の余地なしにもかかわらず、検察側の求刑が15年にも満たないのは令和の時代では有り得ないような気もする。
事件から20年以上経過し、ふたりは今どこで何をしているのか。家庭を持ち、子どもを持っているのだろうか。

人は変われる。しかし、子どもを殺した過去は消せないし、どんな言い訳もできない。罪を償っても、世間の記憶からなくなっても、当人たちだけは忘れてはいけない。

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参考文献
NHKニュース 平成13年6月27日、平成26年12月30日
沖縄タイムス社 平成26年12月31日朝刊
共同通信社 平成26年12月31日朝刊
産経新聞社 平成27年5月8日東京朝刊、平成28年3月14日(小野田雄一)
中日新聞社 平成10年1月8日朝刊、平成13年6月28日、10月17日朝刊、平成27年5月12日夕刊
朝日新聞社 平成10年1月8日西部朝刊、平成11年12月7日西部朝刊、平成13年5月25日、27日、6月7日、28日、11月7日東京地方版/長野、平成26年12月31日東京朝刊
毎日新聞社 平成10年3月4日西部朝刊、平成13年9月12日東京朝刊
高知新聞社 平成10年2月21日朝刊(投書)
読売新聞社 平成11年12月7日、12月21日西部朝刊、平成13年5月25日、26日、31日、6月28日、29日、7月1日、7日、17日、8月4日、12月19日東京朝刊、6月27日東京夕刊、

平成28年3月23日東京地方裁判所第3刑事部/判決
平成27年(合わ)第90号/平成27年(合わ)第125号

平成13年12月6日福岡地方裁判所第1刑事部/判決
平成12年(わ)第194号

平成13年12月18日長野地方裁判所松本支部/判決
平成13年(わ)102号/平成13年(わ)117号

D1-Law第一法規法情報総合データベース

禁断の死出の旅路~福島・男女服毒心中事件~

昭和62年10月29日朝 路上にて

「あんた!こんなとこに停めて邪魔やろ、あんた運転できんのか?」

愛知県西春日井郡西春町のニット製品会社の車庫前に、一台の赤い軽四自動車が停まっていた。
同社の社員が気付き、見慣れない車であること、車庫の前で邪魔なことから、運転席の女性に声をかけた。
すると、その若い女性は血色の悪い顔でこうつぶやいたという。
「ここまで来たけど、もう動けなくなっちゃった。」
わけのわからないことを言われた社員はイラつきながら、ふと車内を覗くと助手席に中年男性がいるのに気が付いた。そこで冒頭のように、その中年男性に声をかけたのだ。

男性はリクライニングを倒し、眠っているように見えたが、社員はその男性の胸の上で組まれた手を見てハッとした。
男性の手はぶるぶると小刻みに震えていたのだ。さらに、眠っていたと思った男性の目は、白目を剥いていた。
ただごとではない、そう感じた瞬間、今度は運転席の女性が口から白い泡が涎のように垂れてきた。慌てて119番通報したものの、搬送先の病院でこの男女は死亡が確認された。

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怨焔~大胡町・不倫仲裁逆恨み隣人焼殺事件

平成8年5月2日

群馬県勢多郡大胡町。
とある民家のガレージから火の手が上がった。
隣人らの通報で消防と警察が駆け付けたが、ガレージでその家に暮らす女性と思われる焼死体が発見された。

その数時間後、赤城山の大沼近くの旅館から、沼に車が突っ込んだ、という通報も入った。
しかも、「人を殺したと言っている」とのこと。
赤城大沼に突っ込んだ車は白の乗用車で、大胡町の現場から急発進して逃走した車も、白の乗用車だった。

捜査の結果、一命をとりとめた白い乗用車の運転手の男が、元交際相手だった大胡町の女性にガソリンをかけて焼き殺したと判明。
男の回復を待って、5年後の平成13年月に逮捕となった。

この事件、地元の人らの間では忌まわしいある過去の事件を思い起こさずにはいられなかった。

昭和の終わり、この事件と同じような事件がこの大胡町で起きていたのだ。

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🔓女たち~3つの殺された女の話~

まえがき

女はいくつもの顔を持つ。貞淑な妻として、強くひとり生きる女として、子を思う母として。

しかしそれら表の顔とは違う顔を見せるとき、運命の歯車は軋み始める。

メールもLINEも携帯電話すらない昭和の時代、物が溢れ多くの人は意識せずとも中流と呼ばれたあの頃、必死で生き抜こうとする女、誰にも言えない暗い過去を背負った女、なんの不満もないはずの恵まれた生活にため息をつく女がいた。

昭和に生きた、3人の女の話をしたいと思う。

【有料部分 目次】
翻弄された女
上野の事件
それぞれのそれまで
女の意地
「あの女には負けたくない」
くれない族の結末
調布の主婦
違い過ぎる二人
男の過去
鬼か、それとも
身元不明の遺体
ゆきずりの女
女の罪
もがき疲れて