自己中男がしがみついた家族のカタチ~大阪・妻子3人殺害事件~

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平成22年1月24日

大阪市内の飲食店の厨房で、男は仕込みの真っ最中だった。
誰もいない店内で、男は黙々と下ごしらえをこなす。いつもは店に来るような時間ではなかったが、男はどうしてもこの時間に引継ぎをしておく必要があった。

全ての下ごしらえが終わると、男は仕事の手順などをメモに書き置いて、店を出た。
正月気分がようやく抜けようとしている1月下旬。行きかう人々の波にのまれながら、男は買い物を済ませネットカフェに入る。
個室に入ってひとりきりの空間を確保すると、男の脳裏に今朝方の自宅の様子がありありと浮かんできた。
コンビニで購入したカッターナイフを見つめると、その手が覚えている「あの感触」までもが甦った。

1月25日午後4時、男は北区の曽根崎警察署に出頭。
男は24日の未明、妻と子供二人をその手にかけていた。 続きを読む 自己中男がしがみついた家族のカタチ~大阪・妻子3人殺害事件~

夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人①~

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平成10年10月27日

諫早市の幹線道路にあった「ファミリーマート小長井店」に主婦らしき女性が駆け込んできたのは深夜を回った頃だった。

店の前に乗りつけられた白の軽自動車から降りたその主婦は、息せき切って店内に駆け込むと
「早く!捜索願を出して!息子がいなくなった」
と叫んだ。
慌てた店員が事務所から110番通報すると、主婦はその電話をひったくって自ら状況を説明していたという。
よく見ると、主婦もずぶ濡れで、警察に通報する内容からもどうやら息子が海に転落したようだということが分かった。

地元警察から依頼を受けた小長井漁協の組合員らは船を出して捜索に参加し、40分後、岸壁から50m離れたところで少年を発見。
引き上げられた少年は靴を履いたままだった。
捜索に参加した組合員らは胸に引っかかるものを感じていた。

「靴が脱げてないということは、溺れたにもかかわらずもがかなかったということか?落ちた瞬間に心臓麻痺でも起こしたのだろうか。溺れた割には腹も膨らんでないから水も飲んでない。
それにしても、明日も学校があるのに深夜からイカすくいなどするもんだろうか。なにより、イカの時期はもうとうに終わっているのに…」

違和感

この日、長崎新聞の社会面に悲しい記事が掲載された。
「27日午前零時頃、北高来郡小長井町井崎名の岸壁で、イカを網ですくっていた佐賀県立鹿島実業高校1年の山口吉則くん(16歳)が海中に転落した、と母親(40歳)から110番通報があった。諫早署が海中に沈んでいた吉則君を発見、引き揚げたが死亡していた。死因は水死。調べによると、吉則君は26日の夜、母親と妹と三人で岸壁に来ていた。網でイカをすくっていた際、誤って転落したらしい」

昨晩、捜索に駆り出された警察官らも、漁協の組合員ら同様の「違和感」を覚えていた。
吉則君が引き揚げられた際、通報してきた母親は息子に取りすがりもせず、それどころか顔さえ見ようとしなかった。
自分の車の中でじっとしているその母親に対し、当初は事実を受け入れられない心理状態なのかも、と心配していた警察官だったが、真夜中に船を出して捜索してくれた漁協の人らに「落ち着いたら挨拶しておきなさいね」とだけ声をかけたという。

その後、遺体は長崎大学で司法解剖されたが、その際、同行した吉則君が通う鹿島実業高校の校長は、泣きすがる母親の姿を見た。
しかし、後日執り行われた吉則君の葬儀では、参列した人々の間で息子を亡くした母親のその様子に注目が集まることとなる。
母親は涙一つ見せず、終始冷静にふるまっていたという。それは悲しみに茫然自失、というよりは、どこか「ひと段落ついた」ようでもあった。そして、吉則君の家を知る一部の人々の間では、さらに踏み込んだ話が取りざたされていた。
吉則君は虐待を受けているのではないか。それは近所の人々や、吉則君の同級生らの間で幾度となく囁かれていたことだった。

中学の頃は、いつも顔に擦り傷が絶えず、ある時は鼻骨や眼底を骨折するなどしていた。それを、「兄弟げんか」と母親も吉則君も話していた。しかし、3つ年上の兄は体こそ大きかったが弟妹思いの仲の良い兄だったため、父兄たちも首をかしげていた。
夜、自販機の灯りや街灯の下で本を読む姿、雨の日でも犬の散歩を欠かさない吉則君の姿を見てきた人々は、家にいたくない、あるいはいられない事情があるのではとうすうす感づいていた。

母親が数年前から交際している「外尾のおじちゃん」という男性の存在。本来、資産家だったはずの家は田畑を売り払ったと聞く。母親自身も、顔を腫らしたり、突然髪の毛が「どこでやってもらったんだ」と思うほど酷い短髪になっていたり、不自然なことが多かった。
さらに、母親の前夫の話は極め付けだった。

「あの家は、お父さんも数年前に同じように海に落ちて亡くなっていたよね…」

弟の出棺の際、すでに家を出ていた19歳の兄は、こぶしを握り締めて涙をこらえ「くそっ!!」と何度もこぶしを振り下ろしていた。

逮捕

警察はハナから事故ではないと疑っていた。聞き込みをするまでもなく、吉則君の父親が6年前に佐賀県太良町の大浦海岸で事故死していることも把握していた。
県をまたいでいるとはいえ、地理的に言うと小長井の岸壁と大浦漁港は車で20分ほどで、目と鼻の先に位置している。

「父親を亡くした場所のすぐそばで、イカすくいなんかするかな」

警察は遺体を司法解剖に回す。それと並行して、母親の交友関係、経済状況などをつぶさに調べ上げていた。
母親の名は山口礼子(事件当時40歳)。涼しげな目元が印象的ではあるが、どこにでもいるごく普通の主婦だった。だが調べていくと、礼子は6年前の1990年、当時の夫であった克彦さん(当時36歳)が海でおぼれ死亡した際に保険金や退職金など総額1億600万円を手にしていた。
大金を手に入れたはずの礼子だったが、家は廃屋と見紛う程荒れ果て、学校関係者の話では給食費などの滞納が常態化するなどしており、生活はかなり困窮していたようであった。
さらに、1995年には次男吉則君に3,500万円の定期付き養老保険が、その翌月には長男に2,000万円、翌1996年には長女(当時11歳)に1,000万円の保険が掛けられていた。
長男と長女は、それぞれその後増額され、最終的に長男は4,000万円、長女には2,500万円、全員合わせると1億円の生命保険が掛けられていた。

そして、その陰にある男性の存在があることも突き止められていた。
男は、名を外尾計夫(ほかお・かずお/当時51歳)といった。佐賀で親から引き継いだ古美術商をやっているということだったが、実際にはとんでもないバクチ好きで、仕事という仕事はしておらず、家族の年金を食いつぶして生活していた。
さらに、外尾は親しくなった女性らに対して言葉巧みに金を出させることも頻繁に行っており、礼子もどうやら外尾に言われるがまま、夫の遺した保険金などを「貢いで」いたと思われた。

こうしたことから、長崎県警はまず、内縁関係にあった外尾を殺人容疑で逮捕、その後、外尾の自供などから礼子に対しても同じく殺人容疑で逮捕状を取った。

1999年8月30日。
礼子は吉則君を殺害し、保険金を得ようとしたとして逮捕された。

礼子のそれまで

礼子は昭和33年、佐賀県で生まれた。4人兄弟の末っ子だった礼子は、小中学校ともに何の問題もなく過ごし、級友らからも「我慢強く、一生懸命頑張る人」といった印象を持たれていた。男子生徒とはほとんど口もきかない、おとなしくまじめな生徒だったという。
一方で、礼子の生まれ育った家庭は少々寒々しい面があった。
農村の家に婿養子としてきた父親は警察官だったが、仕事上、あまり家にいることはなかった。加えて、元来無口であった父親に上の三人の子供らはあまり寄り付かず、ノンフィクションライター・杉山春 氏によれば、「女にだらしなかった父親は酒もよく飲んだ。そんな父に母は愛想をつかしていたが、経済的なことから離婚には踏み切れなかった」と兄弟の一人が話しているという。
そんな父親に対し、礼子だけは、父をねぎらい、普通に接していた。

鍼灸師の仕事をしていた母親に代わり、家事も手伝い、礼子は武雄市内の短大付属女子高へ進学する。
しかし、成績不振だった礼子は付属校だったにもかかわらず、内部進学ができなかった。そのため、武雄市内の別の短大へ進学。高校での専攻は被服科だったが、栄養士になるべく食物科へ変更、栄養士の資格を取って卒業した。
その後は地元鹿島市内の個人病院に栄養士として就職し、かつ、准看護師の資格も取得するべく、個人病院の寮に入って看護学校へも通っていた。

病院に勤め始めてすぐ、知人の紹介(礼子の勤務していた病院に入院していたという説もあり)で電気設備会社勤務の野中克彦さんと出会う。
すっかり意気投合した二人は急速に親密な関係となり、昭和54年12月、結婚した。
礼子は同時に、まだ1年も勤めていない病院を退職し、看護学校も退学した。(Wikipediaはじめ多くのサイトで「礼子は看護師の資格を持っていた」との記載があるが、それは間違いである。)

婚姻の数か月前、克彦さんの父親がかねてからの知り合いであった鹿嶋市古枝在住の山口クヨさん(当時89歳)という女性に身寄りがないことから、息子である克彦さんをクヨさんの養子にする話をまとめていた。
そのため、礼子は結婚し、克彦さんとともにクヨさんの家に入ることになり、名前も野中ではなく「山口」を名乗ることになった。
この山口家は、鹿島市内でも古い歴史のある地域にあり、ほとんどが農家で成り立っていた。山口家もみかん畑や田畑を有しており、ひとり息子を戦争で亡くし、夫の死後は親戚の人の力を借りてクヨさんがその土地を守ってきたが、高齢になり立ち行かなくなったことで克彦さんを養子に迎えた。
つまり、土地をもつ山口家の家督を継ぐために、克彦さんは養子となったのだ。

礼子はクヨさんの介護を担い、密接な関係の残るこの集落で新婚生活を始めた。

しかし、養子となってからも克彦さんは田畑を切り盛りすることはせず、相変わらず他人に任せきりであった。その集落では月に一度は寄り合いがあったが、礼子は時たま顔を出して近所づきあいをするものの、克彦さんは一度もその寄合に顔を出すことはなかったという。
そのせいか、近所では「あの夫婦は山口の財産狙いでやってきた」と噂されることもあった。
加えて、電気設備の仕事をしていた克彦さんは出張も多く、2~3週間家を空けることもあった。

昭和55年に長男が、続いて57年に次男吉則君、63年には長女が生まれたが、その間にクヨさんは亡くなっている。
クヨさんは痴呆症も出ており、幼い子供を抱え、介護に明け暮れる礼子に対し、克彦さんは非協力的であった。
そもそも実の親でも祖母でもないクヨさんのことを気にかけることもなく、休みの日にはパチンコに出かけるなど家のことの一切を礼子に押し付けていた。
さらに、克彦さんの実母も、礼子に冷たかったという。ただ、当のクヨさんだけは、礼子に対しねぎらいの言葉をかけてくれていた。

疲労困憊の礼子に追い打ちをかけたのが、克彦さんの「浮気」だった。

長女が生まれた直後、克彦さんは鹿島市内のスナックに足繁く通うようになっていた。たまたま仕事関係の人らと訪れたのがきっかけというそのスナックで、克彦さんは酔いつぶれては泊っていくようになる。
ママだった女性は、当時の週刊新潮の取材に対し、こう答えている。
「克彦さんはマージャンなどかけ事が好きで、店でひとしきり飲むと二階で徹マンをやり、そのまま泊まって朝私がコーヒーを淹れてあげてから会社に行く、そういうことも何度もありました。」
「克彦さんと関係ができたのは、店を開けてすぐです。当時の夫であるマスターと離婚することになっていて、それもあって克彦さんは2階で寝泊まりしていたんです。」
「克彦さんにはほかにも女性がいました。直接、「若い女がいる」と克彦さんから聞きました。礼子さんとの夫婦関係は冷え切っているように見えました。」

礼子は克彦さんのこの開き直ったともいえる浮気を知っていた。
礼子にそのことを教えたのは、ほかならぬママの夫であった。礼子は平成2年、なんと夫の浮気相手がママをしているそのスナックでホステスとして働き始めるのだ。
それには、抜き差しならない理由があった。

虐げられた日々

それでも当初は、克彦さんの好物である「いなりずし」を頻繁にこしらえては、たまに会う幼馴染に嬉しそうに話すこともあった。
少なくとも礼子は、この結婚を喜んでいたし、新婚早々から始まったクヨさんの介護もこなしていた。
しかし、克彦さんはおそらくそうではなかった。そもそも、克彦さんは礼子を「妻」として結婚を決めたのではなかった節がある。
出会ってすぐに結婚の話を持ち出し、1年もたたないうちに夫婦となったのには理由があった。

克彦さんは会社での評判も芳しいとは言えなかった。
チームで仕事をしているのに突然無断欠勤をしたり、どこか他人の迷惑を省みないところがあった。
金遣いにしても、年収に見合わない車を買ったり、ギャンブルも好きだった。釣りにも高額な道具を用いていた。もともと女性にもてるタイプだったのか、女性とのトラブルを金で解決した、という話もあった。
ただ、バブル直前の時代で年収も相応にはあったようで、当初は克彦さんが浪費してもなんとか家計は回っていたし、夫婦仲、家族の仲も傍目にはなんのトラブルもないかに見えていた。

しかし、あるスナックのママと克彦さんが浮気を始めたことで、事態は悪化していく。

平成2年のある日、一人の男が山口家に怒鳴り込んできた。
「(お前の夫が)浮気しとっと、知っとうとか!!そのせいでめちゃくちゃにされた、どうしてくれると!」
克彦さんが浮気していたスナックのママの元夫・Aさんだった。
実は、その1年前に克彦さんとスナックのママとの浮気は、このAさんの知るところとなっていた。二人の浮気現場をおさえたという。
妻であるスナックのママとは即離婚となったものの、Aさんがスナックのオーナーであったため、店だけは続けていた。
怒りを抑えつつ悶々と過ごしていたそのAさんは、それでも妻とよりを戻す意思があったが、妻は応じなかった。それにイラ立ったAさんは、その怒りの矛先を浮気相手である克彦さんに向けた。
同じように家庭をめちゃくちゃにしてやったらいい、そういう思いで山口家に乗り込み、150万円の慰謝料請求もした。
しかし克彦さんは動じる様子もなく、
「うん、よかよ。一週間待ってくれんね」
と事も無げに言ったという。それに拍子抜けしたAさんは、腹の虫がおさまらなかった。

「正直、克彦に妻ば寝取られたもんやけん、やり返しちゃれいう気持ちもあった」

おとなしそうな礼子は、Aさんの好みでもあった。
何度も電話をかけてきたというAさんの執拗な態度に、礼子は折れたが、内心では克彦さんの浮気の状況を知りたいという思いもあってAさんと会うことに応じたという。
ホテルに連れ込まれた礼子はAさんに強姦され、ヌード写真をポラロイドカメラで撮影された挙句、その後長い間その写真をネタにAさんと会うことを強要された。

「夫とAはグルだったと思います。Aは、妻に浮気をさせてその相手の男から金銭を巻き上げるような男です。自分を捨てなければどうしようもなかった」

礼子は後に、ルポライター・橘由歩氏に対して手紙でこのように書いている。克彦さんがAさんとグルだったと礼子が思うのにはいくつか理由があった。
Aさんが怒鳴り込んできたとき、いとも簡単に金を払った夫。その後Aさんからの脅迫めいた電話を録音して聞かせたにもかかわらず、放っておけばよい、となんの助けにもなってくれなかった。
さらに、Aさんが経営するスナックでホステスとして働くことを強要される。なぜ夫の浮気相手がママをしている店で働かなければならないのか。夫に訴えると、「子供は見よくから」と働くことを勧められた。
ヌード写真を撮影されたことで、礼子は警察にも訴えたが、警察が動いてくれることはなかった。
加えてその頃、山口家の家計は火の車だった。スナックのママ以外にも女性がいたという克彦さんは、家にお金を入れることもおろそかになっていた。

四面楚歌の礼子は、Aさんのスナックでホステスとして働くことを選んだ。
「私は泥沼を見ました。」
幼い子どもら3人を抱え、夫にも頼れないばかりか実家や夫の実家にも頼れず、礼子は流されるように「子供のため、私さえ我慢すれば」という気持ちにだけすがって生きるようになっていた。

家庭内ももはや冷え切るどころの話ではなかった。

運命の出会い

礼子は疲弊しきっていた。
そんな折、克彦さんと口論になった際、「お前はお手伝いさんたい」と言われ唖然とする。
平成4年の正月には克彦さんの母親からも、「克彦が離婚ば考えよるとよ。財産は全部こっちのもんやけんが。子供らも全部引き取ってうちで面倒ばみるけん」と追い打ちをかけられた。

Aさんとの関係はいまだに続いていた。仕事はパートを転々としてはいたが、自分一人で自立できるには危うく、ましてや子供たち3人を連れていけるわけもなかった。
さらに、家計が回らず、町内会の会費を60万円使いこむなどしており、その穴埋めのために山口夫婦は相当な借金があった。礼子名義の借金だけでもなんと一千万円に上っていたという。

そんな時、スナックを訪れたのが外尾だった。

克彦さんの母親から離婚の話を聞かされる少し前、礼子が勤めるスナックの客として訪れたのが、外尾だった。
外尾は礼子を指名し、接客下手な礼子にも優しかった。時には、経済的に困窮している礼子に対し、小遣いを渡すこともあった。
そんな外尾に対し、礼子は本来自分が求める男性像を見出すようになっていく。
会話の中で、礼子がAさんに脅されていることを知った外尾は、スナックの中でAさんを呼びつけ殴りつけた。
この時の外尾は、礼子にとってみれば「救世主」であった。この男こそ、自分をこの泥沼から引き揚げてくれる存在であると思えたのだろう。

Aさんの背後には暴力団があった。外尾は、それにもしっかり手をまわしていた。そのため、Aさんも礼子と関係を切らざるを得なかった。
外尾の登場で、礼子はその「泥沼」から抜け出せた。はずだった。

しかし外尾は白馬の騎士ではなかった。
外尾はこれまでも、女性を食い物にして金をせびってきていた。今回のターゲットは、礼子だった。
スナックに通ううち、礼子の境遇を嫌でも耳にした。礼子から直接話も聞いた。そこで、外尾はある算段をしたのだ。
Aさんに手をひかせ、男気のある所を礼子に見せた上で、礼子を食い物にしようとしていたのだ。
しかし、外尾の皮算用とは裏腹に、その後礼子と克彦さんは連れ立って、「また二人でやっていくから」とスナックを辞める挨拶をしに来た。
その時のことを、裁判で証人として出廷した外尾の知人は、「外尾は二人が元のさやに収まったと聞いて『金にもならんことをしてしまった』とボヤいていた」と話す。

礼子はAさんから解放され、夫もスナックのママと別れ、もう一度家庭を再構築しようとしていたように見えたが、その半年後、克彦さんが死亡する。
(残り文字数:17,361文字 うちこのページには5,346文字)

🔓夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人②~

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【有料部分 目次】
次男
「私は泥沼をみました」
やぶれかぶれの強盗
満月の夜
人を殺すなんてできない
母親と、愛
レイプした男との蜜月
「幸せって何でしょう?」
幸せ探しはまだ続く

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暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件~

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平成26年5月30日

神奈川県厚木市下荻野のアパートに、警察官に連れられた男の姿があった。
男は警察官に促されて自室のアパートの玄関を開けた。
室内は真っ暗だったが、それでもゴミだらけの凄まじい状態であることは一目瞭然、カビとも腐敗臭ともつかない異様な臭いがたちこめていた。

警察官らが室内に入るのを横目に、男はその場に立ちすくみ、額から汗を滴らせている。

室内奥の六畳間を開けた警察官らは、にわかに騒がしくなった。
ゴミをかき分け進んだ6畳間の布団の上で、小さな小さな白骨遺体が発見されたのだ。

男はその部屋に住んでいた斎藤幸裕(当時37歳)。トラックの運転手をしていた。
その年の3月、厚木児童相談所が所在のつかめない児童を掲載したリストの一斉点検を行ったところ、小学校に入学していない男児の存在が明らかになったことで、父親であり、該当の住所に住んでいた男のアパートを警察が任意で調べることになったのが事件発覚のきっかけだった。
白骨遺体は、幸裕の長男で所在不明になっていた斎藤理玖くんだった。所在が不明になってから10年近くが経過し、さらにはいつ死亡したのかもわからなかった。

「誰も知らない」

幸裕と理玖くんがどうやらこの部屋で生活していたということは分かったが、二人がなぜ、二人暮らしになり、なぜ、理玖くんが死亡したのか全くわからずにいた。
事実として、幸裕はその時点で妻(理玖くんの母親でその時点では所在不明)がおり、別の女性と数年にわたって別のアパートで同棲していること、トラック運転手という仕事を持っていること、その上で、この厚木のアパートの家賃を今の今まできちんと払っているということだった。

そして、驚くべきことにある時を境にして、このアパートで幼い子どもと父親が二人で暮らしていたことを、誰も知らなかったというのだ。そして、それは10年間発覚することはなかった。
あの是枝裕和監督作品で有名な「誰も知らない」という映画、あれも実際に起きた巣鴨での4姉弟妹置き去り事件を題材にしたものだが、あの4人はある程度年齢がいっており子供ながらに知恵を出し合うことも可能で、外出することもある程度は可能だった。一番下の妹が、外の世界とつながった兄とその友人らによって暴行されて死亡する結末(映画では不慮の事故、みたいに描かれていたが、実際は兄とその友人らによる激しい暴行の末の死)とはなったが、少なくとも餓死はしていないし、その暴行事件がなければだれも死なずに済んでいたかもしれない。
この厚木の事件の場合は、たった一人でしかも自力では絶対に生きていけないレベルの年齢でのことで、普通に考えれば悲惨な結末しかないというのは明らかだった。
報道では当初からこの父親のあきれ返るほどの無責任、無知がクローズアップされ、可愛らしい理玖くんの写真が見る者の涙と怒りを増幅させた。
自身は新しい女を作って家を空け、理玖くんを邪魔者扱いして放置し餓死させた、事実から見ると確かにそうだが、調べていくと、そして実際に幸裕に取材をしたルポライターらの著書を読むと、いささか見える風景が変わってくる。

幸裕は、理玖くんを邪魔に思っていたのか。死んでしまうかもしれないという結末が見えていたのか。死んでもいい、と思っていたのか。
そして、10年間も理玖くんの存在が周囲にわからなかった、そんなことなんてあるのか。その原因はなんだったのか。

子どもの事件や貧困、虐待に関する著書も多いルポライターで作家の石井光太氏、大阪2姉妹遺棄事件の取材で有名なフリールポライターの杉山春氏、この両者の、幸裕本人への面会や丁寧な取材によるルポをもとに、見えてくる父子の姿、10年間を私なりに考えてみた。

破綻まで

理玖くんが生まれたのは、2001年の5月30日。その時すでに事件現場となったアパートに、幸裕とその妻は暮らしていた。
幸裕は当時23歳と若かったが、運送会社に勤務しておりおよそ20万円から25万円程度の収入があったという。妻は当時二十歳。若いながらも、親子三人での暮らしを成り立たせようと当初はしていたようだ。
しかし、結婚前から幸裕は気に入らないことがあると手を挙げることがあった。これは後述するが、妻によれば「酷いDVであり、自分は怖くてたまらなかった」らしいが、幸裕に言わせると少し違う。
少しずつ綻びが見え始めた2002年の年末には、「経済的な理由」から、妻が幸裕には内緒で風俗店に勤務するようになった。
幸裕からは月に5~10万の生活費を渡されていたというが、妻によると生活には困窮していたという。
それをカバーするために選んだのが風俗というのは突飛な気もするが、ともあれ託児所付きのその風俗店で妻は午前10時から深夜まで働いた。

幸裕も、仕事で帰宅が深夜になるため、そういった妻の生活に気づかなかった(わけはないか)、もしくは無頓着だったのか。
いずれにせよ、夫婦の関係は悪化の一途をたどり、2004年の秋頃にはもう修復不可能な状態に陥っていた。
そして10月7日の未明、アパート付近の路上をオムツに赤いTシャツで裸足の理玖くんが泣きながら歩いているのを近隣の人が発見、警察が保護して午前8時ころに厚木児童相談所が幸裕に連絡した。
仕事中の幸裕から連絡を受けた妻は、2時間ほど後に理玖くんを迎えに赴いた。その時はしきりに反省の弁を述べ、夫に任せて外出していたと言った。
対応した児相がアホ過ぎたため、この時の一件は「迷子」で処理されてしまう。ありえん。
しかし、その日の午後、幸裕が仕事から帰ったのを見計らうかのように、妻は「買い物してくる」と言って家を出、そのまま戻らなかった。
私の知り合いでも10年位前から豆腐を買いに行くと言ったまま帰宅しない妻を持つ夫がいるが、これではおちおち買い物にも行かせられない。

待てど暮らせど帰ってこない妻に、幸裕は何度も連絡をつけようと試みたというが、妻とは一切連絡が取れなかった。

若い二人の結婚生活は、この日事実上破綻した。

「これからは二人だから」

幸裕は幼い理玖くんを自分一人で育てると決めた、というより、そうする以外の選択肢を知らなかった。
実家は経済的に迷惑をかけていたこともあり、また、相談すべき先も幸裕の頭の中にはなかったのだ。
幸い、普通の収入を得ることが出来るトラックの仕事はあった。理玖くんにはさみしい思いをさせるかもしれないが、幸裕は何とかなると考えていた。

「これからは二人だから。二人で生きていこうね」

幼い理玖くんと向き合い、そう話したと幸裕は言う。
もちろん、世の中にはこのような父子家庭は山ほどあり、しかも父親がきちんと仕事を持っているとなれば、ハードルはあるものの何とかやれそうに思うのだが、それは「普通の感覚」をもっている常識的な人間にしか当てはまらない。

幸裕は、「なんとかなる」ということをいつも漠然と思っていたようだった。

しかしその「なんとかなる」は、私たちが想像もできないようなことを平気でやってのける上での「なんとかなる」であったことが裁判の過程で明らかになっていく。

普通、幼い子どもがいて自分しか養育者がいない場合、仕事をする時間帯はどこかに預けなければならないと考える。片親の場合は保育所への入所も、両親のいる子供に比べればポイントが高い。
そこが無理でも、託児所などを探す、とにかくどこかに預けなければならない、ということは誰でも理解できることだし、避けて通ることのできない部分である。
幸裕はそれをすっ飛ばした。というか、「家においておけば問題ない」と考えていた。保育園については一応考えたものの、送迎が出来ないことで無理だと思った、という。もちろん、相談などはしていない。

迷子事件から学んだのか、幸裕は家中のカーテンを閉め、外からは中が窺えないように細工した。
さらに、理玖くんがいる和室の戸に目張りをして、理玖くんが開けられないようにもした。とにかく、幸裕からすれば理玖くんが家の中にさえいれば、安全だと思っていたのだろう。それを世間では放置、虐待と呼ばれることもおそらく理解できていなかった。
食事は、仕事の日は昼以外の朝と晩の2回。休みの日は普通に3度の食事。ただし、自炊などをしない幸裕が理玖くんに与えるのは、コンビニのおにぎりや総菜パンなどだった。幼い理玖くんでも自分で持って食べられるからだろう、幸裕自身は弁当の時も、理玖くんはパンかおにぎりだった。
それ以外の育児は、オムツ交換、お風呂、月に1~2度の外出などだったという。

経済的にはどうだったろうか。
トラック運転手として20万円以上は手取りがあったというが、妻が出て行ってからはそれまで妻がしていた公共料金の支払いなどを失念したり、払えないことなどがあったようで電気、ガスはすぐに供給停止となった。
普通は、こうなる前に、いや1万歩譲って最悪停止されてから急いで払いにいく、となる。ガスは人によっては後回しになるかもしれないが、電気が止まれば相当困ったはずだ。支払いも、コンビニなどで24時間可能だ。

しかし、幸裕は電気が止まっても料金を払うよりも「そのままの生活」を選択した。
この話を聞いたとき、ふと誰かが言った「脳は三日で慣れる」という言葉を思い出した。
脳は順応性が高く、たとえ天地がさかさまになったとしても3日あれば慣れる、といった話で驚いたのだ。
だが、この幸裕のとった行動を見ていくと、おそらく幸裕は私たちよりもそのことをよく理解し、というか、これまでに嫌というほど経験してきているのだろうなと思った。事実、幸裕は暗闇での生活を裁判で聞かれた際、「暗かったけれど慣れれば理玖がどこにいるのかはわかった」と平然と答えている。
ていうか、そういうことを聞かれたわけじゃないんじゃないかなー、と思わなくもないが、とにかく幸裕にとって暗闇での電気がない生活、子育ては「成立」していたのだった。

この、私たちには考えられない驚異の「慣れ」はどうやって身に付いたのだろうか。
そのカギは、幸裕の子供時代に隠されていた。

 

🔓暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件②~

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幸裕の幼少時代と、家族

幸裕が生まれたのは1978年で、私とほぼ同世代である。一部上場企業の工場で勤務する父親と、専業主婦の母親。年子の妹と4つ下の弟という、その時代の主流ともいえる家庭がそこにあった。
当初は横浜の鶴見区で暮らしていた一家だったが、幸裕の小学校入学に合わせるかのように神奈川県愛川町に誘致された系列会社の工場に父親が勤務することとなって、一家は引っ越してくる。

まだまだ好景気だったその時代、次々と工場が誘致され、そこに働く人々のために大きな団地も次々と建設されていった。
その時代、今よりも一家の大黒柱と家庭を支える妻の役割ははっきりしていて、男は外で仕事、家庭や子育ては妻、というのは当たり前だった。もっとも、会社としてもよほどのことがなければ終身雇用は当たり前、家族への手当ても充実していた。だから、妻らは余裕をもって専業主婦になれたのだ。
斎藤家も同じで、3交代で勤務する父親にはそもそも子育てに深く関わったり、家事を手伝うなどといった考えはなかったし、現実的でもなかった。
そんな中で育った幸裕だったが、父親との記憶はほとんどない。それでも友達も多く、外で元気に遊ぶ幸裕は弟や妹との関係も良く、大きな問題などはないように見えた。

その生活が暗転したのは小学校6年生の時だ。

【有料部分 目次】
もう一人の保護責任者
「だって仕事があったんですよ!」
懲役19年
殺人罪からの、保護責任者遺棄致死
発覚が遅れたのはなぜか
紙吹雪

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