酔醒~いくつかの不倫事件始末~

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日本において、不倫自体は刑事的な犯罪ではない。不法行為ではあるとしても、刑務所に入ったり顔と実名を晒して糾弾されることも基本的に、ない。
しかし過去には不義密通、姦通罪として死罪同等、発見者(妻もしくは夫)がその相手方を殺害しても下手人討として処罰を免れた時代もあった。
旧刑法、旧民法においてさすがに死罪はなくなったが、その罪自体は残ったし、たとえば不倫して離婚した者がその不倫相手と婚姻することはできないとする法律もあった。
ちなみに外国、アフリカやイスラム圏の一部では現在でも最高刑は石打ち、実際の映像を見たことがある人もいると思うが、日本の絞首刑など石打ちの苦しみに比べれば……と思わざるを得ないほど、強烈である。

しかしそれでも、不倫をしてしまう人は世界中にいて、そして家庭は崩壊し、時に事件が起き、当人が殺しあうならまだしも、家族、さらには無関係の人を巻き込む大事件に発展することもある。

失われた理性と果てしない欲望、酔醒、逃げる者と噴きあがる復讐心その顛末。

危険な情事~千葉の愛人殺し~

昭和59年夏。横浜市在住の看護学校の女性教員が行方不明になって2カ月が過ぎていた。
北九州市出身のその女性は、5月15日以降の足取りが全くつかめずにいて、同僚や友人、故郷の家族らはその安否を心配していた。

ところがある時、女性の銀行口座から出金があったことに実家の父親が気づく。引き出された額は40万円。行方不明になった後のことで、不審に思った父親は警察に届けを出した。

銀行の防犯カメラには、女性ではなく男の姿があった。男は2度にわたって女性の口座から金を引き出しており、警察はとりあえず窃盗事件としてこの男を逮捕した。

妊娠していた愛人

行方が分からなくなっていたのは、横浜市戸塚区在住の三隅理津子さん(仮名/当時32歳)。北九州の県立高校を卒業後、地元の看護学校で看護師資格を得ると山口県内の病院で勤務していたが、昭和47年に東京の病院へ移った。
その後、神奈川の看護専門学校の教員として3年間勤務していたが、この年の4月末付で「自己都合により退職」していたという。
三隅さんの勤務態度はまじめで、勤務していた3年間で有給休暇もほとんどとらなかった。

一方で窃盗の容疑で逮捕された男は千葉県袖ケ浦市在住の会社員、岡野洋平(仮名/当時32歳)。
実は岡野は三隅さんと同郷、同じ県立高校の出身で、しかも高校時代には交際していたという。
逮捕当時岡野には妻子があり、海外出張などもこなしその生活は順調に思われたが、実は岡野と三隅さんは高校卒業後もずっと交際を続けていた。

三隅さんは独身だったが、看護学校をやめる際、友人らの話によれば妊娠していたというのだ。それも、もう5か月くらいになっていたのではないか、という話だった。
それについて岡野は、「彼女とは確かに交際していた時期もあったが、今年の二月に別れた。」と供述。
しかし一方の三隅さんは、北九州の両親に対し、「結婚して千葉で暮らす」という話をしていた。

警察はその後も岡野を追及したところ、8月の終わりになって「別れてからも結婚を迫られ、このままではだめになると思った」と話し、その後、三隅さんを殺害して」山林に埋めたことを自供。
供述通りの千葉県君津郡袖ヶ浦町久保田の山林から、女性の遺体が発見された。
その後の司法解剖の結果、遺体は三隅さんであると確認された。

知らなかった結婚

岡野は昭和45年に三隅さんと同じ高校を卒業、大学受験に2度失敗していた。大学を諦めた岡野は昭和47年に川崎市にある工場設備の検査会社に就職。
三隅さんはすでに看護師として働いていたが、時期を同じくして東京に移っていた。
ところが岡野は昭和51年ころに別の女性と結婚していた。子供も生まれたが三隅さんとの関係は続いており、二人の関係はどこからどう見ても「不倫」だった。

昭和59年2月、岡野はアブダビの石油プラントの検査のために出張した。同じころ、三隅さんは国際電話を何度もかけていた。
警察では、この頃に三隅さんが岡野に対して妊娠を告げたのではないかとみていた。

三隅さんの妊娠は限られた友人らしか知らなかったようで、お腹が目立つ前に看護学校の職も辞していた。
しかし岡野には妻子がいる。岡野は大学進学をあきらめたのちに入社したこの会社で、精力的に働いていた。資格も独学でとり、アブダビの石油プラントを一人で任されるほどの信頼を会社からも得ていたという。

三隅さんは、岡野に結婚を迫った。というか、三隅さんは不倫だという自覚がなかった。岡野は三隅さんに対して、結婚の事実を隠していたのだ。
推測になるが、岡野の結婚と第一子の出産の時期から見て、いわゆる出来ちゃった結婚だったのかもしれない。三隅さんと交際しながら、ほかの女性と結婚せざるを得なくなったものの、岡野は三隅さんにはその事実を隠し、交際を続けていたのだ。
しかし三隅さんの妊娠によって、岡野は抜き差しならない状況に陥ってしまう。
三隅さんは最終的に岡野が結婚していたことを知り、それでも子供は産んで一人で育てる、認知だけしてほしいと迫った。岡野にとってそれは、自分の結婚生活を破滅に追い込まれるという脅迫としか受け取れなかった。

4月、岡野は三隅さんに、「妻とは離婚することにした。千葉で一緒に暮らそう。」と告げる。三隅さんは喜び、九州の両親にも報告した。
5月15日、岡野は三隅さんに新居へ案内すると言って誘い出し、その夜、東京湾を見下ろす自宅近くの高台で、三隅さんの首を絞めた。

岡野は離婚する気など毛頭なかった。三隅さんの妊娠を知って以降、どうやって三隅さんを殺すか、そればかり考えていた。推理小説を読み漁り、海に突き落とす、駅のホームの雑踏に紛れて突き落とす、しかし結局、確実さを選んで自ら首を絞めたのだった。

雑木林に三隅さんの遺体を埋めた後、岡野は何食わぬ顔で日常を送っている。通勤で毎日その雑木林の横を通りながら、子供たちのイベントや学校行事に参加した。8月の逮捕直前、会社の海水浴に妻子や親せきの子を連れて参加し、子煩悩ぶりを発揮していた。

「彼女のことがばれれば、みんなダメになる。どうしていいのかわからなくなった。」

そう話した岡野だったが、三隅さんとの10年に渡る交際については、「からかい半分だった」と言った。
昭和60年2月21日、千葉地裁の太田浩裁判長は、岡野に対して懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。

この子のななつのお祝いに~伊達市の母子殺し~

それは凄惨な現場だった。
北海道伊達市の市営新末永団地の一室、ここには35歳の女性とその幼い娘が二人、肩を寄せ合い暮らしていた。
平成9年11月15日、この日七五三のお祝いに記念撮影をする予定で親族と会う約束をしていたが、ふたりは約束の時間になっても待ち合わせ場所に来なかったという。
そこで家を訪ねた女性の実母が、家の中で変わり果てた二人を発見したのだ。

二階建てのその部屋に入った実母が見たのは、階段付近で血を流して絶命している孫娘の姿。そして二階の六畳間では、同じく頭から血を流して娘も死亡していた。

亡くなっていたのはこの団地の部屋で暮らしている佐々木瑞穂さん(仮名/当時35歳)と、娘の萌香ちゃん(仮名/当時6歳)。状況から二人は殺害されたとみられた。
瑞穂さんは当時伊達市の臨時職員として水道局に勤めていた。離婚歴があったが職場での評価は高く、いつもニコニコと笑顔の美しい女性だったという。
萌香ちゃんも挨拶のしっかりできる子どもで、事件の知らせを受け通っていた保育園の職員らは言葉をなくした。

捜査本部は現場の状況から殺害されたのは前日14日の夜と断定、二人とも頭部を鈍器で複数回殴られた後で首を絞められていたことも分かった。犯人像については、外部から無理やり押し入った形跡や荒らされた形跡もなく、二人の着衣に乱れもなかったことから、顔見知りの犯行も視野に入れて捜査を進めた。

一方、地元の北海道新聞では夜討ち朝駆けで捜査員らから何か情報を聞き出せないかと奮闘していた。
七五三の日に、そのお祝いをする予定の女の子が母親ともども殺害されるという何ともむごたらしい事件に、記者らも辛い取材をしなければならなかった。
そんな中、瑞穂さん宅には頻繁に男性が訪れていたという情報を掴んだ。瑞穂さんは市役所の臨時職員になる前、伊達市内の建具販売会社で勤務していたことがあり、その際に会社の取引先の男性と親密になったという。
記者らはこの男性がなにか関係しているのではないかと思いつつも、慎重に取材を続けたというが、結果から言うとある意味この男性は事件に関与していた。

11月16日夜、伊達署の捜査本部は瑞穂さん、萌香ちゃん殺害の容疑で、この男性の妻を逮捕したのだ。

逮捕されたのは伊達市の隣、虻田町在住の保養所従業員、山村美枝子(仮名/当時55歳)。美枝子は夫が瑞穂さんと不倫していることで家庭が壊されると危惧、夫が持っていた瑞穂さん宅の合鍵を使って侵入し、ふたりを殺害したことを認めた。
美枝子はそれまでに瑞穂さんと直接会ったこともあったという。
不倫相手のみならず、その幼い娘まで殺害したことで、検察は「近年まれにみる凶悪」として美枝子に無期懲役を求刑したが、札幌地裁室蘭支部の田島清茂裁判長は懲役18年という判決を言い渡した。

犯行自体は計画的で狂暴かつ卑劣、としながらも、殺意を持ったきっかけは偶発的な側面が否定できないこと、また、事件後美枝子が深く反省していることなどが量刑の理由だったが、それにしてもかなりの減刑に思える。

瑞穂さんは最初の夫も当時52歳と、かなり年上の男性に惹かれる傾向があった。年上となるとどうしても既婚者である確率は高くなるわけで、その点で瑞穂さんにはいろいろと批判的な評判もあったという。最初の夫とも、萌香ちゃんが生まれてすぐに別居しており、美枝子の夫と交際を始めたのはその離婚が成立して間もないころだった。

美枝子は長年連れ添った夫がまるで人が変わったように自分を蔑ろにし、人目もはばからず瑞穂さん母子のもとへ足繫く通うようになって心を痛めていた。
50歳半ばの自分と、30代で若く美しい瑞穂さん。温泉施設で働く「おばちゃん」でしかない自分が、みじめだった。
事件直前、長男夫婦の結婚式のビデオを見て、美枝子は自分たちにもこんな時代があったと夫に対話を持ち掛けたという。しかし、それに対する夫の態度は冷淡なものだった。
悪いのは自分の夫だというのは分かっていたはずだった。しかし、どうしても瑞穂さん母子の存在がなくなればという思いが消せなかった。美枝子は瑞穂さんと萌香ちゃんが憎かった。

事件が起きた平成9年のベストセラーは奇しくも「失楽園」だった。
しかし現実の失楽園の結末は、久木と凛子の愛の最高潮での心中ではなく、幼い子をも巻き込んだ血まみれの怨念だった。

あちらにいる鬼~吾妻の殺人未遂と、近江八幡の女性殺し~

吾妻の殺人未遂

平成11年3月30日深夜。吾妻署に母親に付き添われた男子高校生が出頭してきた。その直前、男性から「息子に刺された」という110番通報が入っており、警察は少年の行方を追っていた。
少年は父親を刺したことを認めたため、殺人未遂の疑いで緊急逮捕となった。

しかし、少年が刺したのは父親だけではなかった。

110番通報があったのは吾妻郡内の49歳の女性宅からで、少年はこの女性も刺し重傷を負わせていたのだ。
この女性は、少年の父親と不倫していた。

少年は兄二人と両親の5人暮らしだったが、兄が平成10年の春に自立して家を出た後は両親との3人暮らしだったという。高校の関係者によれば少年は非常にまじめな性格で、中学校時代には生徒会長も務めていた。同時に、正義感も強い少年だった。

両親の間に亀裂が入ったのは、事件の2~3年前。父親が勤務していた吾妻郡内の食品販売会社で同僚だった女性と不倫が始まったのだ。平成11年に入ると父親は自宅に戻らなくなったという。
両親は離婚を話し合うようになり、事件の前日も夜遅くまで少年を交えて家族の今後が話し合われていた。

「相手の女の人に会わせて」

何を思ったのか、少年は父親に不倫相手の女性と会わせるよう要求。正常な判断が出来ればこの時点でかなりヤバいことは分かりそうなもんだが、父親はそれを承諾。自宅から1キロほどしか離れていない女性宅へ父親と出向いた少年は、玄関先で女性と父親の三人で話していたが、突然隠し持っていたナイフで二人を次々に刺した。

その後、父親から連絡を受けた母親が親戚らと少年の行方を捜していたところ、自宅近くに戻ってきていた少年を発見。少年は「止めないで、止めないで」と言いながら橋のたもとに立っていた。自殺する気だった。
母親らの説得で自殺を思いとどまった少年は、「怖かった」とつぶやいたという。

少年はその後家裁送致となり、中等少年院へ行くことが決まった。

「死ぬと言っていた、頼む、見つけてくれ」

刺されながらも父親はこう言っていた。しかし、家庭を崩壊させておきながら、少年の心を壊しておきながら、この時父は何を思うたか。
母は「結局、私たちの犠牲になって、子供が苦しまなくてはならないなんて」と言って泣いた。

一方の女は、どうだったろうか。ご近所ともいえるほど近い場所でのうのうと不倫をし続けた己の罪深さを恥じたろうか。今もその体に傷痕は残っているか。
少年の心の叫びを、どう受け止めたのだろうか。

近江八幡の女性殺し

仲の良い夫婦だった。店を切り盛りするそのひとは、病気がちな夫とその高齢の母親の世話をしながら、明るい性格で皆から好かれていた。

近江牛をふるまう飲食店を営み、介護と店を両立させ、体を心配する知人らには「病気になんかなってる場合じゃない」と笑っていた。
10人の従業員を抱えていたが経済的には安定しており、飲食店を法人化するなどその経営手腕も見事なものだった。時間に追われ、自宅の家事をする余裕もないほどの生活だったが家の中のことは清掃のサービスを頼んでいた。

平成26年10月14日、いつものように清掃の担当者が自宅を訪れると、いつもは閉まっているはずの玄関の鍵が開いていた。また、飼い犬がやたらと吠えていて不穏な気配を感じずにはいられなかった。
中に入ると、廊下で横向きに倒れ、腹部から大量に出血している女性を発見、110番通報したが、女性はすでに死亡していた。

亡くなっていたのは近江八幡市の飲食店経営、岩永聡子さん(仮名/当時52歳)。状況から殺害されたとみられ、県警捜査一課は殺人事件として捜査を開始。
しかし、いつも明るく快活な人柄で知られる聡子さんの周辺に人間関係、仕事関係のトラブルはなく、また物色された形跡もなかったことから強盗の線は薄いとみられていた。が、当時聡子さんの夫も義母も入院や施設入所で家におらず、家の中でなくなっているものがあるのかないのかの判断がつかなかったことで、県警は強盗殺人の線も完全には消せていなかった。
その夜は台風の影響で雨が降り、室内に残された靴跡もそれがいつついたものかの判断が出来なかった。

ただ、司法解剖の結果、聡子さんには30か所以上の刺し傷があり、その一部は深さ10センチ以上、犯人には聡子さんに対する強い殺意が感じられることは、事実だった。

しかしその後2年経っても、聡子さん殺害の犯人は判明していなかった。自宅前には防犯カメラがあったが、容量が少なかったのか、一番古い映像が事件後救急隊員らが出入りする場面で、肝心の犯行時刻はすでに上書きされていたという。

事件から1年後に、自宅内の引き出しが一か所不自然に開けられていたことが判明したが、それでも県警は強盗というより怨恨の線の可能性が高いと感じていた。

「聡子さんの素敵な笑顔は一生忘れません。」
自宅の玄関には、メモと共に花束が置かれ、知人らが事件後、泣きながらお供え物をしに来ることが後を絶たなかった。
悪い評判など一つもなく、とにかく老若男女誰からも好かれていた聡子さん。

事件から2年以上経過した平成29年2月8日、滋賀県警は聡子さんを殺害した容疑で、44歳の女を逮捕した。
女は聡子さんと顔見知りだったが、誰からも好かれていた聡子さんに対し、30年以上にわたる積年の怨みを抱えていたのだ。

女は、聡子さんの夫の「前妻の娘」だった。

裁判で検察は、「滅多刺しで強い殺意があった。人目に付きづらい台風の日を選んでおり、計画性もある」と指摘。懲役18年を求刑した。
一方の弁護側は、「30年に渡る長年の怨みには相当の理由がある」とした。
その怨みとは、実父と聡子さんの不倫だった。

女の実父と聡子さんは、平成9年に結婚。しかし、二人はそれ以前から長年の不倫関係にあったという。平成9年に女の実母との離婚が成立した実父は、その3か月後に聡子さんと再婚。
女は当時24歳だったというが、実母は家を去り、入れ替わるようになんと不倫略奪婚をした聡子さんがその家に入ってきた。
女はその後、結婚して4人の子をもうけたが、事件があったころには生活保護を受けながら暮らしていたという。一方で、実父の不倫相手だった聡子さんに対し、金銭を要求するなどしていた。
聡子さんも後ろめたい思いがあったのか、女の要求に度々応じていたようだ。

先にも述べたように、聡子さんは経営者としても確かな手腕を持っており、経済的には余裕があった。宝塚などの観劇を楽しみにしており、そういった充実した日々を送る聡子さんに対して、女は自身や実母の境遇を比べて怨みを募らせていた。

警察はどうも早い段階から女の存在を把握していたようだ。が、決定的な証拠がなかったことから、2年の月日がかかってしまった。
その間も事情聴取は度々行われていたというが、女は一切を否定していた。
そして逮捕されて以降も、20日間にわたって否認し続けていたが、その女の心を溶かしたのは、実母の言葉だった。

「やったのなら、認めた方がよい」

自分よりもはるかに苦しかったであろう母親のその言葉に、女はすべてを認めた。

平成29年9月29日、滋賀地裁の伊藤寛樹裁判長は、女に対して懲役15年を言い渡した。
「怨みの感情が影響していたが、あなたの支えになる出来事もたくさんあったはず。今後の人生では何を大事にすべきかをよく考えてください」
裁判長の言葉に、女は握りしめたタオルで何度も涙をぬぐった。

人を呪っても何も始まらないが、聡子さんはその罪を償った。今度は、女の番である。

怨焔~安城市の巻き添え焼死事件~

昭和63年11月22日の夕方。安城市の住宅で火の手が上がり、木造平屋建て150㎡が全焼した。
この家には40代の夫婦と10代の子供ら3人、そして、60代の祖母が暮らしていたが、出火当時は母親の明恵さん(仮名)、長男次男、そして祖母の4人が在宅していた。
祖母は一番奥の部屋にいたが逃げ出せて無事、明恵さんと息子の一人も手にやけどを負ったが軽傷だった。
しかし、17歳の長男は全身火傷で死亡、さらに、現場からは成人男性も全身大やけどで意識不明で運び出されていた。

この日、先にも述べたように40代の父親は外出していて留守だった。ではこの成人男性は誰なのか。

答えは母親の明恵さんが知っていた。
この男は、明恵さんの元交際相手であり、この家に火を放った張本人だった。

大やけどで意識不明となった男は、所持していた免許証から隣接する西尾市在住の無職の青木幸三(仮名/当時43歳)とみられた。
逃げ延びた明恵さんと次男の話によれば、この日明恵さんは台所で夕食の準備を、兄弟は玄関に隣接する和室でテレビを見ていたという。そこへ、突然青木が訪れた。そして、玄関わきの和室に丸めた新聞に火をつけを投げ込んだという。
驚いた兄弟が逃げ出そうとした時、青木はさらにバケツに入った液体をぶちまけた。それは、ガソリンだった。

次男は辛くも逃げ出したが、長男はそのガソリンをもろにかぶってしまった。そして、あっという間に火だるまとなってしまった。

台所にいた明恵さんは駆け込んできた次男によって事件を知り、急いで逃げ出そうとした。と、そこへ火だるまになった人が転がり込んできた。
それは、火を放った後自らも火だるまとなった青木だった。
青木は、「死ねぇぇぇっ!」と何度も叫びながら、明恵さんの腕をつかんで引き戻そうとしたという。明恵さんと次男は必死に腕を振りほどいて逃げ切った。

青木はその後意識不明となり、愛知医大病院に搬送された。

事件の発端は2年前、明恵さんと青木が同じプラスチック製造会社で勤務していたことに始まる。どこまで深い関係かは定かではないが、二人は親密な関係にあったという。
ところが、そのプラスチック工場が倒産した後、無職となった青木はことあるごとに明恵さんに金を無心し始めた。ちなみにこの青木にも妻がいた。
困り果てた明恵さんは、夫にすべてを話したうえで弁護士に相談、事件が起きる3か月ほど前から弁護士を立てての別れ話が進んでいたという。

その後、青木が乗ってきた自動車の中から遺書らしきものも見つかり、警察では別れ話に納得がいかなかった青木の無理心中に長男が巻き込まれたとした。

青木は事件から3年に渡ってやけどの治療を受け、平成3年12月、殺人と現住建造物放火の疑いで逮捕された。
青木は回復したとはいえ、両足切断という状態。生きて償うには過酷な人生が男の目の前に広がったいた。
青木の家族、そして被害者の家族のその後もまた、過酷なものだったろう。

酔醒

不倫をする人々は、どんなにきれいな言葉で繕ったとしてもその名の通り倫理に反している。
もちろん、中にはすでに夫婦が崩壊していて「もう別れた方が……」という夫婦もある。有責配偶者からの離婚請求も、諸条件によっては認められることもある。
しかしなぜか彼らはそういった手続きや法にのっとった方法を選ばない。割り切った大人の火遊びならばいいかもしれないが、そう思っているのが片方だけだったら、法片方にしてみればバカにされたと受け止めてもおかしくない。
千葉の愛人殺しの男は「からかい半分」で10年以上いいように遊んできたが、そのツケに対応する術は、持っていなかった。
吾妻の父親の目を覚まさせたのは息子のすべてをかなぐり捨てた抗議だった。伊達の母子殺し、安城市の無理心中では子供が犠牲になった。近江八幡の被害者は誰からも好かれる人だったが、普通の人はそうそう背負わないレベルの怨みを、たった一人からかっていた。

個人的な考えだが、そもそも不倫に耽ってしまう人々はロマンチストで激情型、とにかく現実を見ないタイプが割合として多いわけで、そうなってくると裏切られたり意に反する結末を迎えた時どうなるかはなんとなくわかりそうな気もするが。

責任は自分でとる、そんな男前なことをいくら言おうとも、無関係の人が巻き添えになる可能性もしっかり頭に入れてから耽っていただきたい。

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参考文献

NHKニュース 平成26年10月14日、
朝日新聞 昭和59年8月20日、21日東京朝刊、昭和59年8月23日、昭和60年2月21日東京夕刊、平成11年4月1日東京地方版/群馬、平成26年10月14日、11月13日、平成29年2月9日、2月11日、9月30日大阪地方版/滋賀
北海道新聞 平成9年11月16日、12月28日朝刊、
読売新聞社 平成3年12月7日中部朝刊、平成9年11月17日東京夕刊、平成11年3月31日、6月3日東京朝刊、平成26年10月15日、11月14日、平成27年10月14日大阪朝刊
中日新聞社 昭和63年11月23日、11月24日朝刊、平成9年11月16日朝刊、11月17日夕刊、平成26年10月15日、10月23日、平成27年10月15日、平成29年3月2日、9月26日、28日滋賀版朝刊、

毎日新聞社 平成9年11月17日、12月8日北海道夕刊、平成10年3月24日北海道朝刊、平成29年2月9日大阪朝刊

「あちらにいる鬼」 井上荒野/著
「失楽園」 渡辺淳一/著
「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪/著

みじめな夫がやり過ぎた妻につけたおとしまえ・昭和版~日光市・不倫妻殺害事件~

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東京高裁にて

この日、ある殺人事件の控訴審判決が言い渡された。
控訴したのは検察側で、量刑不当が主訴だった。原審での判決は、殺人事件であるにもかかわらず、懲役3年しかも執行猶予がついたのだ。
検察は、こんなことでは世間一般の道義的観念を満足させられない、どれほど被告人の主観的心情に同情したとしても殺人という重罪を犯した者に対する刑罰が軽すぎるのでは治安を維持できないと主張。激おこだった。

しかもこの事件は、子供の面前で父親が無抵抗の母親を斧で頭部を滅多打ちにするという残虐非道なものだった。

それを踏まえての東京高裁の判断は、「控訴棄却」。
原審を支持する、というものだった。

裁判でも「みじめ」といわれた夫がつけた、やり過ぎた妻へのおとしまえ。

昭和39年、夏

男は子供たちを家の中に追いやると、玄関先で妻の帰りを待った。
家の中に入ってしまったら、子供たちにケンカしているところを見せてしまう。
一体、妻は何を考えているんだろう。何度言っても分かってくれない。
そんなことを考えていると、その妻が何食わぬ顔で帰宅した。男は妻を捕まえると、「どこへ行ってきたんだ」と聞いた。いたって、冷静に聞いたつもりだった。
「どこ行ったっていいじゃないか!」
対する妻の返答は、自分の立場や状況を分かっての態度とは思えぬほど、辛辣で捨て鉢な、開き直った態度だった。

そのまま男を無視して、子供たちのそばに座り込んだ妻との間で、口げんかが始まった。子供たちは不安そうな顔で押し黙っている。
「どこへ行ってたって、いいじゃないか。」
再び、妻は男に対して言い捨てた。

男の堪忍袋の緒が切れる音がした。

男は咄嗟に手近にあったものを掴むと、妻の頭部めがけて振り下ろした。意図してそれを選んだわけではなかった。しかし、振り下ろしたそれは、手斧だった。
1度殴ってしまった男は、もうどうにもそれを止められず、なんども妻の頭めがけて振り下ろす。
妻の顔はみるみる血に染まり、そして絶命した。

夫婦のそれまで

この事件で逮捕起訴されたのは、日光市在住の武田彰伸(仮名/年齢不詳、おそらく40歳前後)。殺害されたのは妻のキミイさん(当時36歳)。
彰伸は小学校卒業後、農家の子守や徴用工を経て招集され、現役の兵隊として軍隊に所属していたところ、終戦となって帰郷した。
農業を営んでいた昭和22年、キミイさんと見合いで結婚、二男一女にも恵まれた。
元々、言語障害があった彰伸だったが、温厚でまじめな性格、酒もたばこもやらないという実直な男だった。
昭和36年、日光市内の建設会社で働き始めた彰伸は、その真面目な人柄が評価され、同建設会社会長からも非常に信頼されていたという。
妻のキミイさんも、末っ子が5歳になったころから同じく日光市内のコンクリート会社で働くようになった。
口数の少ないおとなしい夫に対し、キミイさんは明るく勝気な性格だった。それが、バランスの取れた良い夫婦に見えていたし、実際年の離れた子供が出来たことからも、夫婦仲もよかった。
戦後の、決して裕福とは言えない生活だったが、夫婦で力を合わせて家庭を築き、周囲からも何の問題もないと思われていた。

が、昭和394月。突如家庭に暗雲が立ち込める。
キミイさんが働いていたのはコンクリート会社で、圧倒的に男性が多い職場だった。そこでキミイさんは、14歳年下の原田という男と不倫関係になってしまったのだ。
キミイさんの不倫はすぐに彰伸の知るところとなり、驚いた彰伸がキミイさんにそんなことはすぐにやめるよう言ったところ、キミイさんも謝罪し、もう原田とはそんな関係にはならないと約束した。

安堵した彰伸だったが、お察しの通りキミイさんと原田の関係はすぐに再燃した。

開き直る妻

一度バレたことでなのかなんなのか、キミイさんは次第に大胆になっていった。
彰伸に対しては、残業になったとか、休日出勤になったとか、様々な理由をつけて騙していたようだが、会社内での不倫はすでに周囲の噂になっていた。
それでもおかまいなしに、キミイさんは原田との逢瀬を楽しんでいたという。
そして彰伸も、キミイさんがいまだに不倫をしているという事実を知り、愕然とするとともに、14歳も年下の男にうつつを抜かしているということはことのほか世間体も悪く、なんとかキミイさんの不倫をやめさせなければと気をもんでいた。

叱ってもだめなら、諭すように話してみたこともあったが、元来口下手な男である。勝ち気で口達者なキミイさんに太刀打ちできるはずがなかった。
キミイさんは彰伸がその話を持ち出すたびに、「ならば離婚したっていいんだ!」と強気な態度に出る始末で、途方に暮れる彰伸の面前で原田から預かった汚れ物を甲斐甲斐しく洗濯してみせるなど、完全に彰伸を馬鹿にした態度に出ていた。

この頃彰伸は、そんなキミイさんに対して注意する回数を3回に1回くらいにしていたという。口うるさく言っても逆効果と思っていたのだろうか、しかしそれでもキミイさんの態度が改まることはなかった。

それどころか、14歳になっていた長女に対し、「今日は彼氏とデートだよ」などと臆面もなく話すなど、子供たちに対してもあからさまな態度を見せていた。

6月、あまりになめた態度に業を煮やした彰伸は、薪でキミイさんの頭を叩いたことがあったが、結局彰伸が謝罪するという羽目になってしまい、まったく意味をなさなかった。

そんなキミイさんの態度を知ってか、相手方の原田も相当な開き直りようだった。
会社で噂となり、同僚らから窘められても意に介さず、むしろ彰伸にバレているとわかってからはかえって積極的にキミイさんとの不倫を楽しんでいた。
それに呼応するように、キミイさんもまた、原田との不倫にのめり込んでいった。

彰伸はなんとか物理的にキミイさんと原田を遠ざけようと、キミイさんに対しコンクリート工場をやめ、自分と同じ建設会社で働かないかと持ち掛けた。
しかしキミイさんは頑として聞き入れないばかりか、「あそこで働くんならこんなところにいない」と口答えし、とりつくしまは全くなかった。
幼い子供らの世話もそっちのけで原田との情事に溺れるキミイさんに代わり、日々仕事と子供らの世話をしながら彰伸は、ある時会社の創業者でもある会長夫妻、専務に相談した。加えて、キミイさんの同僚女性らにも恥を忍んで夫婦の内情やキミイさんと原田のことを打ち明けた。
そこで、原田が実は過去に交際していた女性もキミイさん同様年上の女性で、しかもその女性を二度にわたって妊娠させていたことなどが判明。上司や同僚の女性らが原田に対して不倫をやめるよう注意されても原田は意に介さず、キミイさんもそれを知ってか、会長夫妻から直々に注意されてもそれを聞き入れることはなかった。

すでにキミイさんと原田の関係は、たとえそれがどんな立場の人であっても他人が注意してどうにかなるようなものではなくなっていた。

その日、キミイさんは日光市宝殿町の旅館で原田と会い、飲酒して帰宅していた。
そして先述の通り、彰伸との押し問答の末、子供らの面前で惨殺されてしまった。

納得しうる裁判

犯行の結果の重大性を考えれば、地裁の判決は意外といっていいものだった。
懲役3年、執行猶予5年というのはたしかにどれほど被害者に非があったとしても殺人であり、また過剰防衛や嘱託殺人、無理心中の類でもないわけでなんでこうなった、と検察がいうのもわかる。

控訴審判決では地裁の判断を支持した理由以外に、裁判とは、道義的観念を満足させるとはどういうことかをその判決文の中で示した。

たしかに、殺人という行為自体重大な犯罪であり、それに対して執行猶予を付けるなど世間一般の道義的観念を満足させられないという検察の主張はもっともだった。
ただ、一概に殺人と言っても諸外国のように謀殺と故殺、その殺人に等級をつけるなどしているものもあるが、日本の場合は殺人自体に重いも軽いもない。
が、そうである以上、その殺人を構成する動機や様態が千差万別であるのは当然であるため、裁判ではそれらをつぶさに吟味し、適正な、妥当な量刑を決めるのが望ましいとされている。

この事件では、彰伸の人柄や性格、それまでの社会生活、そして関係者(要因となったキミイさんと原田の不倫を知る人々)の証言が重視された。
関係者らは、当事者である原田を除く全員が異口同音にキミイさんを非難し、彰伸に対しては同情を隠さなかったという。
その中には、彰伸とキミイさんの実子(長女)のみならず、殺害されたキミイさんの両親まで含まれていた。
長女は調べに対し、
「わたくしは、お父さんとお母さんでどちらが悪いかわかりません。お母さんは死んでしまい、お父さんが警察に行っているのでわたくしたち子どもだけですから、早くお父さんを家に帰してください。お願いします。」
と話し、キミイさんの両親に至っては、
「娘の行状が悪かったことでもあり、今更死んだ娘が返ってくるわけのものでもないから、将来彰伸の家族が一緒に暮らしていけるよう切望する」
という供述を検察官に対して行っている。

これがいいとか悪いとかの話ではないのだが、裁判所は続けてこうも述べている。

本件自判の内情を知っている世間の人たち、幸いにも法網に触れずして済んだ当の相手方たる原田を含めて、被告人に今一度人の子の親としての更生と贖罪の機会を与えた原判決を聴いて、おそらくは、いずれも皆ほっと安堵の吐息を漏らしたことであろう。
事情を知る人々が真に納得しうる裁判にこそはじめてよく一般の道義的観念を満足させるものと言えるものであり、そしてまた、それは、一般予防と特別予防の調和を意図する刑政の目的にも合致するものと言わなければならない。

私も含め、判決によっては「こんなことでは抑止力にならない、被害者が浮かばれない、どんな理由があっても人を殺しておいて同情されるなんてありえない」と思うこともあるだろう。
たしかに、歴代の重大事件をみても、被害者に相当な落ち度があると思われるものはある。しかしだからと言って殊更に加害者に同情を寄せるべきではないのは、ひとえに亡くなった人はもうなにも言うことができないからに他ならない。殺されていい人などいるはずがないのは、その「殺されても仕方ない」という判断基準が人によって違うからである。そんなあてにならないもので判断されたらたまったものではない。

しかし一方で、この裁判が示したように、再犯の可能性がほぼないような状況や、関係者らが納得できるか否かは、一つの重要な判断基準でもあるのだろう。

ただやはり時代も大きく関係しているであろう印象は否めない。
今の時代だったら執行猶予などつくはずもないだろうし、弁護士に相談して離婚を考えるべきだったとかいろいろ言われてこんな判決は出せないだろうと思われる。
この時代は不倫、特に母親が家庭を顧みず情事に耽るなど……という時代だったろうし、そんな奔放な妻のあとを追うしかできないみじめな夫にはさぞかし同情が集まったのだろう。

このサイトでも取り上げた日立の妻子6人殺しの小松博文は死刑判決となった。人数からしても連れ子を含む子供5人を殺害した点でも再考の余地はなさそうだが、その動機としてはやりすぎた妻がいた。
もし、小松が妻だけを殺していれば、同情されたろうか。
大洗で娘二人を殺した父親も、開き直る妻の存在があった。この事件同様、年下の男にうつつをぬかす妻は、幼い娘に彼氏の存在を隠そうともしなかった。そして、妻の父親も孫を殺した夫に対して憎む気持ちはないと証言した。
この夫も、娘ではなく妻を、あきれ果てるほどフリーダムな妻を殺していれば、同情されたのだろうか。

そして、この事件の被害者、キミイさんは、言いたいことはなかったのだろうか。
自業自得と言われて、関係者は納得し安堵していると言われ、どう思ったろうか。

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参考文献
昭和40年6月30日/東京高等裁判所/第一刑事部/判決/昭和40年(う)304号

 

🔓逃げる女、追いかける男~3つのDVにまつわる事件~

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一度は愛した相手が肉体的、精神的、経済的、性的に暴力を振るうようになったら?
結婚前にはわからなかった、相手の本性はなぜか、そう簡単に別れることが難しいような状況になって初めて明かされることが多い。

たとえば結婚して、子供が出来るまでは、妻が仕事を辞めるまでは、家を妻の実家近くに建てるまでは……
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しかも厄介なことに、それらDVについて世間と被害者の受け止め方に大きなズレがいまだに存在するのだ。
束縛されるのは愛されているから、別れるなんて子供がかわいそう、専業主婦させてもらえるなんて羨ましい、女性からの暴力なんて可愛いもんだろう、そういうあなたにも悪い部分があるんじゃないの……

多くのDV加害者は非常に外面がよく、他人には良い夫、良い妻に見られがちである(人前でもやる奴はただのアホである)。だから被害者は相談しても周囲に理解してもらえず、そのうち相談すらできなくなり、自分が死ぬか相手を殺すかはたまた全員で死ぬかみたいな話に発展することもあるのだ。

配偶者ならば無理矢理SEXしたっていい、配偶者ならば子供の面前で罵倒したって良い、そんな勘違いをしている人は令和になっても山ほどいる。

配偶者であってもやっていいことと悪いことがあるという基本の事件、接近禁止命令下での凶行そして、邪魔した人を殺害した事件。
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励ます女~大津市・女性殺害死体遺棄事件~

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男は思いつめながらも、それでも決断できずにいた。
このままでは、恋焦がれたこの人はいずれ誰かのものになってしまう。男にとってそれは耐えがたいことだった。

「何もできそうにありません。私がしていることは正しいことなんだろうか?」

男は縋るような思いで聞いた。

「これしかないし、それが一番だと思っています。」

本当に?果たしてこれが一番の方法なんだろうか?

「幸運を祈っています。」

男の心は決まった。 続きを読む 励ます女~大津市・女性殺害死体遺棄事件~

🔓みんな、気持ち悪い~札幌・次女三女殺傷事件~

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平成24年10月、札幌市豊平区の担当者に対し、一人の母親が家庭の不安を口にしていた。
自身の母親と妹らと同居しているというその女性は、母親との関係がうまくいかないことから世帯分離について相談したいと話した。
女性自身にも3歳の子供がおり、交際相手との子供の妊娠が発覚したばかりだという。これまで、生活能力に問題のあった母親と、まだ幼い妹たちの面倒を見てきた女性だったが、ここへきてその母親との関係が深刻なレベルの悪化しているといい、身重の体を守るためにも世帯を分離したい、というのが理由だった。

ただ、世帯を分離できたとしても、女性には妹たちのことが気にかかっていた。
「母が私に向けていた暴力を、妹たちに向けるかもしれない」

3か月後、その話は最悪の形で現実となった。

事件

平成25年1月26日、札幌市豊平区平岸のマンションで、11歳と8歳の姉妹が腹部を刺されるなどして、そのうち11歳の一戸楓香さんが出血多量で死亡した。
おなじく左わき腹を刺された妹(当時8歳)は、重傷ではあったが一命をとりとめた。
さらに現場のマンション室内では、二人の女児の母親とみられる女性も刃物で腹部を刺して倒れており、状況や通報者の証言などからこの母親が娘を道連れに無理心中を図ったとみて捜査を開始、比較的軽傷で済んだ母親が28日退院したのを待って、殺人と殺人未遂容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、二人の母親である一戸みゆり(仮名/当時38歳)。
調べに対し、「子供と一緒に死のうと思い、寝ているところを刺した」と供述。事件直後、当時同居していた男性に対し電話で「やっちゃった、ごめんね」などと犯行をほのめかしていたことや、そのさらに前、男性が在宅していた時にも娘らの首を絞めるなどしていたことから、みゆりが無理心中を図ったことに間違いはなかった。

事件が報道されると、関係者らの間には衝撃が走ったのと同時に、「あぁ、やはりこうなってしまったか」という思いに駆られる人々もいた。
実はこの一戸家は、数年前より様々な事情で福祉や行政、警察や児童相談所などがかかわり続けてきた家族だったのだ。

そして、事件が起こる18日前には、亡くなった楓香さんが家出をし、警察に保護を求めるという事態まで起きていたのだ。

にもかかわらず、助けられなかったのはなぜだったのか。

事件後、みゆりには精神鑑定が行われ、その間には札幌市がまとめた検証報告書が公開された。
その後行われた裁判ではみゆりの知的障害が判明、そしてみゆりの壮絶なそれまでの人生と、事件に至る経緯が明かされた。
その中では、長年妹らの世話をし、事件直前にはみゆりとの関係悪化で家を出ざるを得なかった長女(当時21歳)が、
「深く悲しんでいる。妹が死んだことは信じられない。妹たちには学校に行って、普通に結婚して欲しかった。母が憎い。殺されるのは自分が代わりになれれば…」
と検察に託したコメントも読み上げられた。
自分が家を出たばっかりにこんなことになってしまった、長女の悲痛な思いは、母親への憎しみとなってぶつけられたが、それでも生活能力のない母親を支えてきたのもまた、この長女だった。

札幌地裁は、みゆりに対して懲役14年(求刑懲役15年)の判決を言い渡した。弁護側が主張した知的障害や、当時のみゆりは心神耗弱状態にあったという主張は、親として子に手をかけることは絶対に許されないし、第三者の責任という問題ではなく、被告が責任を負うべきとして退けた。

みゆりは事件以前から自殺未遂を繰り返しており、特に事件直前は自ら110番したり、児相に対して自殺をはかってしまったと告白するなど、かなりSOSを出していた。
それでも、問題行動のあった長男以外の子供らは保護されることなく、すべてをみゆりに任せた結果、最悪の事態が起きてしまった。
弁護側は、そういった点を踏まえてもっと関係機関が踏み込んでくれていれば少なくとも楓香さんが死ぬことはなかったとした。
加えて、このような事態につながったその「背景」についても裁判ではいろいろと明かされていたのだが、中身が中身だけに表に出ることがなかった。
市の検証報告においても、その肝心の部分は「深刻なトラブル」という表現で誤魔化された。

いったい、何が起きていたのか。

【有料部分 目次】
穢れを畏れぬ人々
知的障害
長女
狂いゆく母
やぶれかぶれ
「ごめんね、やっちゃった」
気持ち悪い人々