🔓双葉ハイムで死んだ女②~宇都宮・男女4人殺傷放火事件~

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平成一二年八月五日

茨城県大洗町の海岸から東に約四〇キロ離れた太平洋上で、その日釣りをしていた船が漂流遺体を発見した。
那珂湊海上保安部が収容したところ、その遺体は二〇代から三〇代半ばと思われる成人男性で、背中一面に入れ墨があった。刺青の状態から、おそらく日本人だと思われた。
ベージュの半そで姿にスウェット姿、足元は素足。遺体の状態から死後一週間ほど経過していると見られた。

平成一二年八月二一日


深夜二時半。その男性は、火災報知機のベルと、大きな叫び声で目を覚ました。

「助けてくれ!!」
宇都宮市一条にある双葉ハイム最上階の十二階の一室から聞こえるその声に驚いた男性は一一〇番通報。すぐさま宇都宮署員が駆け付けると、一二〇一号室から煙が出ており、室内には衣服の乱れた男性二名、女性二名が倒れていた。

部屋の主は小堀英二さん(仮名/当時三七歳)で、小堀さんも部屋の中で倒れており、それ以外に栃木県高根沢町の中村慎吾さん(仮名/時三七歳)、宇都宮市鶴田町の無職、稲見晃子さん(仮名/当時三一歳)そして、宇都宮市宝木本町の飲食店従業員、小林潤美(ますみ)さん(当時二四歳)がいた。
小堀さん、中村さん、稲見さんは胸や背中を刃物で刺されたような傷を負い、稲見さんは左腕に火傷も負っていた。
三人の命に別状はなかったが、小林さんは収容先の病院で死亡した。ただ、小林さんには致命傷となるような外傷が見当たらなかった。

室内はソファなどの家具が焼けており、三人の証言で暴力団員風の男らが複数で三人の両手足をひもで縛り、刃物で傷を負わせたうえに灯油をまいて火を放ったことが分かった。
男らが出て行った後、もがいているうちにたまたま縛られていたひもがほどけた中村さんが自力で消火したという。

外傷のないにもかかわらず死亡した小林さんの死因は、後に大量の覚せい剤を打たれたことによる急性薬物中毒死と判明。
その場に居合わせた三人の証言からも、犯人と思われる男らのうちの主犯格が、小林さんに無理やり覚せい剤を注射したことがわかった。
一命をとりとめた三人も、それぞれ覚せい剤反応が出たが、日常的に使用していた痕跡は四人になく、それらも犯人の男らが強制的に注射したということも判明した。
現場となったマンションは、大通りに面した大きなマンションで、周辺には店舗、学校もある。そういったどこにでもあるような日常の中で、若い女性二人を含む四人が脅迫され、覚せい剤を打たれた挙句室内に火を放たれ、結果、一番若い小林さんが死亡するという事件が起こり、この時点では犯人らも逃走中であったため、宇都宮市内は物々しい雰囲気に包まれていた。

被害者と犯人の関係

当初、被害者の小堀さんと中村さんらは、「四人組の男にやられた」「暴力団員風だった」などと、犯人を知らないといった供述をしていた。
しかし、捜査員らが話を聞くうちに稲川会系大前田一家後藤組の後藤良次(当時四二歳)が主導して事件を起こしたことを把握。その日のうちに放火、殺人未遂容疑で後藤を指名手配した。

ただこの時点では「何らかのトラブル」があったことは推測できるものの、なぜ稲見さんと小林さんまで巻き込まれたのかもわからず、そのトラブル自体もつかめていなかった。
中村さんは以前、後藤の運転手をしていたことがあったという。自動車販売を行っていた小堀さんとはその後親しく付き合っていた。小堀さんもまた、過去にマンションの家賃に関するトラブルを暴力団との間で抱えていたという。
当日は、午後九時ころに市内のパチンコ店で後藤と合流し、小堀さんが暮らす双葉ハイムへ中村さんとともに車で向かっていた。
しかしその際、部屋の鍵を小堀さんが持っておらず、交際相手の小林さんに鍵を持ってこさせることになった。そして、その小林さんを車でマンションへ送ってきたのが稲見さんだった。

この双葉ハイムは、一般の人々が多く入居している普通のマンションだが、当時の住民の話によれば、「事件の数か月前から暴力団員風の人の姿を見かけるようになった。それ以降、夜男性が怒鳴りあうような声を聞くこともあった」ということだった。
小堀さんが入居していた最上階の部屋は、同一部屋内に一階と二階があるメゾネットタイプで、他の部屋に比べるとつくりも家賃も立派である。マルチ商法なども手掛けていたという小堀さんにはある程度の収入があったと見られた。

事件から一週間たっても、依然として後藤の行方は知れず、共犯の男らの行方も分かっていなかった。
小堀さんらの供述もあいまいな部分が多く、捜査はなかなか進まなかった。
本人らの供述や知人らへの聞き取りで、小堀さんと後藤の間で金銭トラブル、人間関係のトラブルがあったことまではわかっており、その話し合いが決裂したあげくの犯行との見方は固まってはいたものの、大量の覚せい剤を打ち、縛り上げた状態で火を放つという犯行に至らせた決定的な動機はわかっていなかった。
三人は犯行時に大量の覚せい剤を打たれた影響で記憶もあいまいだったが、小林さんは交際相手の小堀さんから後藤の話を聞いてはいたもののそれ以上の接点はなく、稲見さんに至ってはまったく接点がなかった。
そのため、小林さんと稲見さんの二人は、たまたま巻き込まれたとの見方が強まっていた。

逮捕から起訴

事件発生から一〇日。この日宇都宮署の捜査本部は、埼玉県松伏町のホテルにいた後藤を発見。同時に、共犯として指名手配されていた後藤組幹部の小野寺宣之(当時三一歳)、無職の浦田大(当時三四歳)、そして出頭してきた土木作業員の沢村勝利(当時三七歳)を逮捕した。
容疑は後藤と小野寺が現住建造物等放火未遂、殺人未遂、逮捕監禁、浦田と沢村は逮捕監禁だった。
その際、沢村以外の三人は自動式短銃一丁も所持していたため、銃刀法違反(共同所持)でも逮捕された。

後藤と小野寺は容疑を否認したが、浦田と沢村は容疑を認めていた。

九月七日。送検された後藤は、当初こそすべてを否認していたものの、この頃から少しずつ同期に関する部分を話し始めていた。
また、死亡した小林さんを含めて四人に覚せい剤を注射したのも後藤本人であると認め、殺人容疑でも追及されることになった。
そして新たに暴力団幹部の吉澤浩(当時三七歳)と、暴力団員の男(当時二一歳)もこの日指名手配された。

九月二一日。最初に逮捕された四人はこの日宇都宮地裁に起訴された。また、警察ではこの四人を強盗致死の容疑でも再逮捕する方針を決めていた。
四人を監禁した後、稲見さんのセルシオと現金二万円弱、小堀さん宅にあったペアの腕時計などを奪っていたことが判明していたのだ。

後藤をはじめ、計六人が逮捕されたこの事件は、暴力団員が一般人四人を死傷させた事件として扱われたが、裁判が始まり、トラブルの全容などが明らかになると、複雑な人間模様が露呈することとなった。

【有料部分 目次】
事の発端
阿鼻叫喚
大洗町の漂流遺体
ヤクザのメンツと別の顔
人間性のかけら
人生が”あおり運転”
被害者と言えたか
凶悪

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🔓「子を置いて行け」と面罵した姑へ下した嫁の鉄槌~大田区・姑殺害事件~

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平成4年6月9日

東京都大田区西糀谷4丁目。

その日、買い物から戻った嫁が、いつものように風呂の水を入れ替えようと風呂場をのぞくと、水が張られた浴槽内で座り込む姑の姿が目に飛び込んできた。
服を着たまま、口元には半分取れかけた粘着テープがついたままで、大柄な姑がなぜか小さく見えた。

慌てた嫁は、体調不良で早退して2階で寝ている夫を叩き起こし、事の次第を伝えたが、姑はすでに息絶えていた。

一階の茶の間や、姑の鏡台などの引き出しが無造作に開けられたままになっていたことなどから、警察では物盗りの犯行も視野に入れた殺人事件として捜査本部を設置した。
ただ、外部から侵入した形跡が見当たらなかったことから、捜査は思うような進展を見せていなかった。

事件から2か月余りが経過した9月3日、警視庁蒲田署捜査本部は、第一発見者の嫁を姑に対する殺人容疑で逮捕した。

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男を無期懲役囚に変えた妄想と悪意~日立・仲人一家殺害放火事件~

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平成12年3月1日

男は疲弊していた。
日常で、いつも誰かに見張られているような気がし、些細なことがなぜかいつもトラブルに発展してしまう。
そう言っている最中にも、すれ違った大型トラックにパッシングされてクラクションも鳴らされた。恐ろしい。
どうしてこうなってしまったんだろう。
幸せな結婚をしたはずだった。子供にも恵まれ、仕事だって順調で貯金も人並みに蓄えてきた。
それなのにどうして・・・

男は台所に保管してあったペットボトルをありったけ抱えて車に乗った。胸ポケットには、妻にあてたメモ。
車を走らせ、男は一件の家を目指した。そう、その家ごと焼き払わなければ、男は死んでも死にきれなかった。 続きを読む 男を無期懲役囚に変えた妄想と悪意~日立・仲人一家殺害放火事件~

男を無期懲役囚に変えた妄想と悪意~日立・仲人一家殺害放火事件②~

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被害妄想

憲司にはA子さんとのこと以外にも悩みがあった。
近頃、どうも電話をしている最中に「雑音」が入るのだ。最初は気にしていなかったものの、気になり始めると頭から離れなくなった。
思いかえすとおかしなことはかなり前からあった。結婚してすぐの頃、防錆管理士や危険物取扱者の資格者証が家からなくなったことがあった。板金工場を営んでいた時も、スプレーガンがなぜかいつも無くなっていた。
また、送風装置を作った際にも、その装置がうまく働かず仕事が中断されることが何度もあった。
それだけではない、町内会の旅行の幹事を請け負ったとき、不参加になった人に旅行代金を返金したにもかかわらず、返してもらっていないと言われたこともあった。憲司はこの時、不本意ながらも自腹で穴埋めをした。
それ以外にも、いつも行くプールの駐車場で駐車をめぐってトラブルになったこと、警備会社の食堂で食事をすると腹痛を起こしたこと、あぁそういえば、板金の仕事に使用していた「つなぎ」の同じ個所にいつも穴が開いていた。

憲司はこれらの事象のすべてを、「何者かによる悪意ある仕業」であると思うようになっていた。
そしてそれは、すべてA子さんと結婚した後で起こっていること、しかも、今橋さんから入会を誘われたあの宗教団体に入るのを拒否した後で起こっていることから、憲司の頭の中には宗教団体による組織的な「嫌がらせ」という構図が出来上がっていた。
そうだ、なにもかも、今橋さん夫婦が「仕組んだ」ことに違いない。言いなりにならなかった自分への嫌がらせを組織的にあの宗教団体がやらせているのだ、そう考えればすべてつじつまが合うではないか…
憲司の頭の中ではそれは抗いようのない事実となっていた。

決行の夜

憲司は自分の人生にすでに見切りをつけていた。
貯蓄もほとんど使い果たし、仕事もなく、体も思うようにならない。大切な子供たちに事由に会うことすらできない。
実は平成10年の秋、ヒッチハイクで茨城県内へ出向いた憲司は、そこで自動車を盗み逮捕されてしまう。
憲司は自殺する意思を固め、母や元妻であるA子さんらに宛てた遺書のようなものも準備していた。
そこには、自分が死ぬのは子供たちをあの宗教団体から遠ざけるためなのだから、それだけはしないでくれ、という趣旨のことを記した。
それと同時に、今橋さんにさえ関わらなければ、A子さんと結婚しなければ、憲司は今の自分の境遇もすべて含めて今橋さん夫婦の責任であると思い込むことで、なんとか自分を保っていた。

そして、自分一人が死んでも何も変わらない、A子さんを道連れにしてしまうと子供たちが不憫であるから、いっそ諸悪の根源である今橋さん方を巻き込んで騒ぎを大きくすれば、世間の目があの宗教団体に向くのではないか、とも考えるようになった。

遺書を用意して一か月ほどが経過した平成12年2月29日の深夜。
A子さん方の様子をうかがいに行った帰り、大型トラックにクラクションを鳴らされた上パッシングされた。
憲司はそれもあの宗教団体の仕業だと思い込んだ。

先の述べた通り、ガソリン入りのペットボトルをおよそ15リットル分持ち出し、そのまま今橋さん宅に向かった。
勝手口をバールでこじ開けて室内に入り、今橋さん夫婦の寝室を探していると、二組の布団が敷かれた部屋を見つけた。
そこが夫妻の寝室だと思った憲司は、人の形に盛り上がった布団を確認して布団にガソリンをかけた。
躊躇することなくライターで火を放つと、それに気づいた二人が起きだしてきた。
その部屋で寝ていたのは今橋さんの妻・とし子さんと13歳の孫で、憲司はとし子さんの背後からさらにガソリンをかけた。
既に火の手が回っていた部屋の焔がそのままとし子さんの体に引火、瞬く間にとし子さんは火に包まれてしまった。

さらに、茶の間へ移動した憲司のもとに、騒ぎに気付いて起きだしてきた娘婿のCさんがやってきた。そこでも憲司は、パニックのCさんの体にガソリンをかけ、室内の火を引火させた。
続いて勝手口で鉢合わせた今橋さんの娘・Bさんに対して、真正面からガソリンをかけた。
このようにして憲司はとし子さんを焼死させ、BさんとCさん、そして孫の一人に大やけどを負わせたうえ、今橋さん方を全焼させた。

裁判

裁判では憲司の精神状態についても審理された。
憲司は裁判が始まっても一貫して「宗教団体による嫌がらせ」を主張、さらにはとし子さんが病院で死亡したことまでも、「宗教団体の指示で医師が殺害した」という荒唐無稽な主張をした。
そういった言動もあり、憲司は「パラノイア(妄想性障害)」であり、それによって犯行前後は心神耗弱の状態にあったと弁護側は主張した。

第11回公判調書においては、医師の鑑定書が提出された。
それによれば、憲司は幼いころから父親の影響でA子さんが信仰する宗教に対して拒否感を持っていたところ、A子さんとの結婚によって自らその宗教にかかわらざるを得ないような状態が作り出され、加えて自身の境遇や、人生においての不愉快な出来事がすべてその宗教と関係しているという考えに支配されているものであって、程度としては中程度の重さであると考えられるものの、離婚を子供らのために思いとどまったり、元来の憲司の性格(物事を機械的にとらえる、被害感情を持続しがちな性格)によるところも大きく、本人の全生活を支配するほどの重症とはいえない、とした。

また、通常妄想障害が重くなって事理の弁識すら困難になると、きっかけの出来事があると爆発してしまい、唐突な行動に出るケースが多いにもかかわらず、憲司の場合はいわゆる「ため」の期間があること、子供達のことを考えて手続きなどを踏んでいることなどが見られ、その点でも心神耗弱に値するような妄想障害であったとは言えない、とされた。

裁判所はこれを採用し、憲司の心神耗弱を退けた。

憲司が一番訴えたかった「宗教団体による嫌がらせ」についても、そもそも今橋さんが繰り返し勧誘したのは結婚後の1年程度であり、その後は特に入会を促すような話はしていなかった。
A子さんの行動には、確かに宗教に起因するものがありはしたが、かといってそれを憲司にも強要するようなことはなかった。
むしろ、自宅の洋服ダンスに曼荼羅をかけても良いかとわざわざ憲司の許可を得ようとしたり、憲司があまりにも怒るためにA子さん自身も信仰しないと一旦は口にするなど、決して憲司に入会させるために今橋さんやA子さんが動いたという印象もない。
憲司は宗教団体から命を狙われているとまで思い込んでいたと供述したが、当時勤務していた警備会社の社員食堂で腹痛を起こしたことや、夜中に治療中の歯が痛むといったことをその理由としており、到底理解できるものではなかった。

なにより、恨みがあったのは今橋さん本人であるはずで、妻のとし子さんにいたっては憲司に勧誘すらしていない。ましてや、娘夫婦やその子供たちは全くと言っていいほど憲司とはかかわりがなかった。
にもかかわらず、家人が寝静まった頃を見計らって、大きな損害が確実に出る放火という手段を用いて殺害しようとするなど、どう考えても微塵の同情も出来るはずがなかった。
しかし憲司は、そうすることが世間の注目を集め、結果として自分には同情が集まると考えていたのだ。

実際には、A子さんとの結婚生活の破綻は、自らの疑り深い性格によるもので、正直宗教全く関係ないやんと言わざるを得ない。
さらにはその疑いから暴力行為にまで及んでいる以上、A子さんが離れていったのは憲司の行動によるものでしかなかった。

判決は死刑。
自殺を図り憲司自身も重症のやけどを負ったことや、全てを売り払って1500万円を今橋さんに提供したことが情状酌量に値するかも慎重に審議されたが、そもそも慰謝料として支払った1500万円も、憲司が自ら行ったのではなく、憲司の兄がしたことであること、結果として4人は助かったとはいえ、子供達も含めて目でわかる傷が残っていること、恨まれるいわれもないとし子さんが殺害されたこと、そしていまだに憲司が妄想の中で生きていることなどを踏まえると、矯正可能とは言えないとされた。
その後の控訴審で、死刑相当であるとしながらも心神耗弱が認められ無期懲役。そのまま確定した。

信仰の自由

この事件は、被害妄想に陥った男が逆恨みのはてに仲人一家を惨殺しようと企て、結果一人が死亡、4人が生涯に残る傷を負わされ、一家は住む家と家族の思い出を失った事件だ。

しかし、憲司にしてみればそうではない。
真面目に、こつこつと生きてきたのが、あの見合いをしたことでじわりじわりと得体のしれないものに侵食され、きがつくと足元だけを残してすべてが崩れ去っていたわけだ。
もちろんこれは憲司の被害妄想でしかないし、憲司自身もそれらのことに宗教団体がかかわっているという証拠はないと話している。

私自身は特に強く信仰心を抱いているわけでもなく、結婚式は神前だったしクリスマスは一年で一番好きだし、初詣にもいくし短大はカトリック系だったので食前のお祈りも出来る。たまにやってくるエホバのおばさんとも友達だし、選挙のたびに誰だよみたいな同級生からも連絡があったりする。
けれど実家は曹洞宗だし葬式はお寺でするし、お墓も仏式だ。
この混沌とした宗教観が当たり前であるにもかかわらず、特定の宗教や新興宗教に対しては嫌悪の感情を抱くこともある。
憲司はとりわけその意識が強かった。そこへ、結婚した後でその忌み嫌う宗教を妻が信仰していたことを知ったら。
今橋さんは確かに無理強いもしていないし、自分たちが信仰する宗教の内容を教えたりするにとどまっている。

しかしおそらく憲司が許せなかったのはそこではない。断言するが、今橋さんは勧誘目的で妻の姪であるA子との見合いを持ってきた、これは間違いない。
その宗教団体では、お題目を唱えることよりも新しい会員を捕まえることの方に重きが置かれていたのも事実で、となれば同じ宗教に入っている人同士をくっつけるより、会員でない人間とA子さんを引き合わせた方が、新規会員の獲得につながる。
しかも、結婚となれば宗教は切っても切れない話であり、それを言わなかったというのは私からしてみれば「悪意」と思えてしまう。
憲司と同じ立場に立った時、絶対に同じような妄想を抱かないと言えるだろうか。
歯が痛むことまで関連付けるとは思えないにしても、不可思議なことが起きてしまうと、ふと、なにかに理由を求めてしまうかもしれない。
さすがに殺そうとは思わんにしても、「騙されて結婚させられた」という部分だけは拭いきれないかもしれない。

憲司は真面目で礼儀正しい男だった。決して、最初から向こう側の人間ではなかった。昭和の時代、誰もが思い描く「中流の普通の家庭」を作り、人生をより良いものにしようと仕事も計画的にやってきた人間だった。
それがどうしてこうなったのか。
裁判ではもともとの性格にも問題があったというが、言い方の問題で、被害感情を持続させがちというのは、言い換えれば何かあっても強く出られず自分の中に溜め込んでしまうともいえるし、機械的に物事をとらえるというのも、曖昧なことが嫌いで白黒はっきりさせたいという性格ともいえる。
そんな人は世の中に山ほどいるし、はたして特筆すべき稀有な性格と言えるんだろうか。しかし、もしも結婚の際にA子さんの宗教の話を憲司が知り得ていたら、もしかしたら違う人生のレールに乗っていたかもしれないと考えてしまう。
少なくとも先に知っていれば、たとえ結婚したとしても「騙された」とは思わないだろうから。

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参考文献
判決文

夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人①~

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平成10年10月27日

諫早市の幹線道路にあった「ファミリーマート小長井店」に主婦らしき女性が駆け込んできたのは深夜を回った頃だった。

店の前に乗りつけられた白の軽自動車から降りたその主婦は、息せき切って店内に駆け込むと
「早く!捜索願を出して!息子がいなくなった」
と叫んだ。
慌てた店員が事務所から110番通報すると、主婦はその電話をひったくって自ら状況を説明していたという。
よく見ると、主婦もずぶ濡れで、警察に通報する内容からもどうやら息子が海に転落したようだということが分かった。

地元警察から依頼を受けた小長井漁協の組合員らは船を出して捜索に参加し、40分後、岸壁から50m離れたところで少年を発見。
引き上げられた少年は靴を履いたままだった。
捜索に参加した組合員らは胸に引っかかるものを感じていた。

「靴が脱げてないということは、溺れたにもかかわらずもがかなかったということか?落ちた瞬間に心臓麻痺でも起こしたのだろうか。溺れた割には腹も膨らんでないから水も飲んでない。
それにしても、明日も学校があるのに深夜からイカすくいなどするもんだろうか。なにより、イカの時期はもうとうに終わっているのに…」

違和感

この日、長崎新聞の社会面に悲しい記事が掲載された。
「27日午前零時頃、北高来郡小長井町井崎名の岸壁で、イカを網ですくっていた佐賀県立鹿島実業高校1年の山口吉則くん(16歳)が海中に転落した、と母親(40歳)から110番通報があった。諫早署が海中に沈んでいた吉則君を発見、引き揚げたが死亡していた。死因は水死。調べによると、吉則君は26日の夜、母親と妹と三人で岸壁に来ていた。網でイカをすくっていた際、誤って転落したらしい」

昨晩、捜索に駆り出された警察官らも、漁協の組合員ら同様の「違和感」を覚えていた。
吉則君が引き揚げられた際、通報してきた母親は息子に取りすがりもせず、それどころか顔さえ見ようとしなかった。
自分の車の中でじっとしているその母親に対し、当初は事実を受け入れられない心理状態なのかも、と心配していた警察官だったが、真夜中に船を出して捜索してくれた漁協の人らに「落ち着いたら挨拶しておきなさいね」とだけ声をかけたという。

その後、遺体は長崎大学で司法解剖されたが、その際、同行した吉則君が通う鹿島実業高校の校長は、泣きすがる母親の姿を見た。
しかし、後日執り行われた吉則君の葬儀では、参列した人々の間で息子を亡くした母親のその様子に注目が集まることとなる。
母親は涙一つ見せず、終始冷静にふるまっていたという。それは悲しみに茫然自失、というよりは、どこか「ひと段落ついた」ようでもあった。そして、吉則君の家を知る一部の人々の間では、さらに踏み込んだ話が取りざたされていた。
吉則君は虐待を受けているのではないか。それは近所の人々や、吉則君の同級生らの間で幾度となく囁かれていたことだった。

中学の頃は、いつも顔に擦り傷が絶えず、ある時は鼻骨や眼底を骨折するなどしていた。それを、「兄弟げんか」と母親も吉則君も話していた。しかし、3つ年上の兄は体こそ大きかったが弟妹思いの仲の良い兄だったため、父兄たちも首をかしげていた。
夜、自販機の灯りや街灯の下で本を読む姿、雨の日でも犬の散歩を欠かさない吉則君の姿を見てきた人々は、家にいたくない、あるいはいられない事情があるのではとうすうす感づいていた。

母親が数年前から交際している「外尾のおじちゃん」という男性の存在。本来、資産家だったはずの家は田畑を売り払ったと聞く。母親自身も、顔を腫らしたり、突然髪の毛が「どこでやってもらったんだ」と思うほど酷い短髪になっていたり、不自然なことが多かった。
さらに、母親の前夫の話は極め付けだった。

「あの家は、お父さんも数年前に同じように海に落ちて亡くなっていたよね…」

弟の出棺の際、すでに家を出ていた19歳の兄は、こぶしを握り締めて涙をこらえ「くそっ!!」と何度もこぶしを振り下ろしていた。

逮捕

警察はハナから事故ではないと疑っていた。聞き込みをするまでもなく、吉則君の父親が6年前に佐賀県太良町の大浦海岸で事故死していることも把握していた。
県をまたいでいるとはいえ、地理的に言うと小長井の岸壁と大浦漁港は車で20分ほどで、目と鼻の先に位置している。

「父親を亡くした場所のすぐそばで、イカすくいなんかするかな」

警察は遺体を司法解剖に回す。それと並行して、母親の交友関係、経済状況などをつぶさに調べ上げていた。
母親の名は山口礼子(事件当時40歳)。涼しげな目元が印象的ではあるが、どこにでもいるごく普通の主婦だった。だが調べていくと、礼子は6年前の1990年、当時の夫であった克彦さん(当時36歳)が海でおぼれ死亡した際に保険金や退職金など総額1億600万円を手にしていた。
大金を手に入れたはずの礼子だったが、家は廃屋と見紛う程荒れ果て、学校関係者の話では給食費などの滞納が常態化するなどしており、生活はかなり困窮していたようであった。
さらに、1995年には次男吉則君に3,500万円の定期付き養老保険が、その翌月には長男に2,000万円、翌1996年には長女(当時11歳)に1,000万円の保険が掛けられていた。
長男と長女は、それぞれその後増額され、最終的に長男は4,000万円、長女には2,500万円、全員合わせると1億円の生命保険が掛けられていた。

そして、その陰にある男性の存在があることも突き止められていた。
男は、名を外尾計夫(ほかお・かずお/当時51歳)といった。佐賀で親から引き継いだ古美術商をやっているということだったが、実際にはとんでもないバクチ好きで、仕事という仕事はしておらず、家族の年金を食いつぶして生活していた。
さらに、外尾は親しくなった女性らに対して言葉巧みに金を出させることも頻繁に行っており、礼子もどうやら外尾に言われるがまま、夫の遺した保険金などを「貢いで」いたと思われた。

こうしたことから、長崎県警はまず、内縁関係にあった外尾を殺人容疑で逮捕、その後、外尾の自供などから礼子に対しても同じく殺人容疑で逮捕状を取った。

1999年8月30日。
礼子は吉則君を殺害し、保険金を得ようとしたとして逮捕された。

礼子のそれまで

礼子は昭和33年、佐賀県で生まれた。4人兄弟の末っ子だった礼子は、小中学校ともに何の問題もなく過ごし、級友らからも「我慢強く、一生懸命頑張る人」といった印象を持たれていた。男子生徒とはほとんど口もきかない、おとなしくまじめな生徒だったという。
一方で、礼子の生まれ育った家庭は少々寒々しい面があった。
農村の家に婿養子としてきた父親は警察官だったが、仕事上、あまり家にいることはなかった。加えて、元来無口であった父親に上の三人の子供らはあまり寄り付かず、ノンフィクションライター・杉山春 氏によれば、「女にだらしなかった父親は酒もよく飲んだ。そんな父に母は愛想をつかしていたが、経済的なことから離婚には踏み切れなかった」と兄弟の一人が話しているという。
そんな父親に対し、礼子だけは、父をねぎらい、普通に接していた。

鍼灸師の仕事をしていた母親に代わり、家事も手伝い、礼子は武雄市内の短大付属女子高へ進学する。
しかし、成績不振だった礼子は付属校だったにもかかわらず、内部進学ができなかった。そのため、武雄市内の別の短大へ進学。高校での専攻は被服科だったが、栄養士になるべく食物科へ変更、栄養士の資格を取って卒業した。
その後は地元鹿島市内の個人病院に栄養士として就職し、かつ、准看護師の資格も取得するべく、個人病院の寮に入って看護学校へも通っていた。

病院に勤め始めてすぐ、知人の紹介(礼子の勤務していた病院に入院していたという説もあり)で電気設備会社勤務の野中克彦さんと出会う。
すっかり意気投合した二人は急速に親密な関係となり、昭和54年12月、結婚した。
礼子は同時に、まだ1年も勤めていない病院を退職し、看護学校も退学した。(Wikipediaはじめ多くのサイトで「礼子は看護師の資格を持っていた」との記載があるが、それは間違いである。)

婚姻の数か月前、克彦さんの父親がかねてからの知り合いであった鹿嶋市古枝在住の山口クヨさん(当時89歳)という女性に身寄りがないことから、息子である克彦さんをクヨさんの養子にする話をまとめていた。
そのため、礼子は結婚し、克彦さんとともにクヨさんの家に入ることになり、名前も野中ではなく「山口」を名乗ることになった。
この山口家は、鹿島市内でも古い歴史のある地域にあり、ほとんどが農家で成り立っていた。山口家もみかん畑や田畑を有しており、ひとり息子を戦争で亡くし、夫の死後は親戚の人の力を借りてクヨさんがその土地を守ってきたが、高齢になり立ち行かなくなったことで克彦さんを養子に迎えた。
つまり、土地をもつ山口家の家督を継ぐために、克彦さんは養子となったのだ。

礼子はクヨさんの介護を担い、密接な関係の残るこの集落で新婚生活を始めた。

しかし、養子となってからも克彦さんは田畑を切り盛りすることはせず、相変わらず他人に任せきりであった。その集落では月に一度は寄り合いがあったが、礼子は時たま顔を出して近所づきあいをするものの、克彦さんは一度もその寄合に顔を出すことはなかったという。
そのせいか、近所では「あの夫婦は山口の財産狙いでやってきた」と噂されることもあった。
加えて、電気設備の仕事をしていた克彦さんは出張も多く、2~3週間家を空けることもあった。

昭和55年に長男が、続いて57年に次男吉則君、63年には長女が生まれたが、その間にクヨさんは亡くなっている。
クヨさんは痴呆症も出ており、幼い子供を抱え、介護に明け暮れる礼子に対し、克彦さんは非協力的であった。
そもそも実の親でも祖母でもないクヨさんのことを気にかけることもなく、休みの日にはパチンコに出かけるなど家のことの一切を礼子に押し付けていた。
さらに、克彦さんの実母も、礼子に冷たかったという。ただ、当のクヨさんだけは、礼子に対しねぎらいの言葉をかけてくれていた。

疲労困憊の礼子に追い打ちをかけたのが、克彦さんの「浮気」だった。

長女が生まれた直後、克彦さんは鹿島市内のスナックに足繁く通うようになっていた。たまたま仕事関係の人らと訪れたのがきっかけというそのスナックで、克彦さんは酔いつぶれては泊っていくようになる。
ママだった女性は、当時の週刊新潮の取材に対し、こう答えている。
「克彦さんはマージャンなどかけ事が好きで、店でひとしきり飲むと二階で徹マンをやり、そのまま泊まって朝私がコーヒーを淹れてあげてから会社に行く、そういうことも何度もありました。」
「克彦さんと関係ができたのは、店を開けてすぐです。当時の夫であるマスターと離婚することになっていて、それもあって克彦さんは2階で寝泊まりしていたんです。」
「克彦さんにはほかにも女性がいました。直接、「若い女がいる」と克彦さんから聞きました。礼子さんとの夫婦関係は冷え切っているように見えました。」

礼子は克彦さんのこの開き直ったともいえる浮気を知っていた。
礼子にそのことを教えたのは、ほかならぬママの夫であった。礼子は平成2年、なんと夫の浮気相手がママをしているそのスナックでホステスとして働き始めるのだ。
それには、抜き差しならない理由があった。

虐げられた日々

それでも当初は、克彦さんの好物である「いなりずし」を頻繁にこしらえては、たまに会う幼馴染に嬉しそうに話すこともあった。
少なくとも礼子は、この結婚を喜んでいたし、新婚早々から始まったクヨさんの介護もこなしていた。
しかし、克彦さんはおそらくそうではなかった。そもそも、克彦さんは礼子を「妻」として結婚を決めたのではなかった節がある。
出会ってすぐに結婚の話を持ち出し、1年もたたないうちに夫婦となったのには理由があった。

克彦さんは会社での評判も芳しいとは言えなかった。
チームで仕事をしているのに突然無断欠勤をしたり、どこか他人の迷惑を省みないところがあった。
金遣いにしても、年収に見合わない車を買ったり、ギャンブルも好きだった。釣りにも高額な道具を用いていた。もともと女性にもてるタイプだったのか、女性とのトラブルを金で解決した、という話もあった。
ただ、バブル直前の時代で年収も相応にはあったようで、当初は克彦さんが浪費してもなんとか家計は回っていたし、夫婦仲、家族の仲も傍目にはなんのトラブルもないかに見えていた。

しかし、あるスナックのママと克彦さんが浮気を始めたことで、事態は悪化していく。

平成2年のある日、一人の男が山口家に怒鳴り込んできた。
「(お前の夫が)浮気しとっと、知っとうとか!!そのせいでめちゃくちゃにされた、どうしてくれると!」
克彦さんが浮気していたスナックのママの元夫・Aさんだった。
実は、その1年前に克彦さんとスナックのママとの浮気は、このAさんの知るところとなっていた。二人の浮気現場をおさえたという。
妻であるスナックのママとは即離婚となったものの、Aさんがスナックのオーナーであったため、店だけは続けていた。
怒りを抑えつつ悶々と過ごしていたそのAさんは、それでも妻とよりを戻す意思があったが、妻は応じなかった。それにイラ立ったAさんは、その怒りの矛先を浮気相手である克彦さんに向けた。
同じように家庭をめちゃくちゃにしてやったらいい、そういう思いで山口家に乗り込み、150万円の慰謝料請求もした。
しかし克彦さんは動じる様子もなく、
「うん、よかよ。一週間待ってくれんね」
と事も無げに言ったという。それに拍子抜けしたAさんは、腹の虫がおさまらなかった。

「正直、克彦に妻ば寝取られたもんやけん、やり返しちゃれいう気持ちもあった」

おとなしそうな礼子は、Aさんの好みでもあった。
何度も電話をかけてきたというAさんの執拗な態度に、礼子は折れたが、内心では克彦さんの浮気の状況を知りたいという思いもあってAさんと会うことに応じたという。
ホテルに連れ込まれた礼子はAさんに強姦され、ヌード写真をポラロイドカメラで撮影された挙句、その後長い間その写真をネタにAさんと会うことを強要された。

「夫とAはグルだったと思います。Aは、妻に浮気をさせてその相手の男から金銭を巻き上げるような男です。自分を捨てなければどうしようもなかった」

礼子は後に、ルポライター・橘由歩氏に対して手紙でこのように書いている。克彦さんがAさんとグルだったと礼子が思うのにはいくつか理由があった。
Aさんが怒鳴り込んできたとき、いとも簡単に金を払った夫。その後Aさんからの脅迫めいた電話を録音して聞かせたにもかかわらず、放っておけばよい、となんの助けにもなってくれなかった。
さらに、Aさんが経営するスナックでホステスとして働くことを強要される。なぜ夫の浮気相手がママをしている店で働かなければならないのか。夫に訴えると、「子供は見よくから」と働くことを勧められた。
ヌード写真を撮影されたことで、礼子は警察にも訴えたが、警察が動いてくれることはなかった。
加えてその頃、山口家の家計は火の車だった。スナックのママ以外にも女性がいたという克彦さんは、家にお金を入れることもおろそかになっていた。

四面楚歌の礼子は、Aさんのスナックでホステスとして働くことを選んだ。
「私は泥沼を見ました。」
幼い子どもら3人を抱え、夫にも頼れないばかりか実家や夫の実家にも頼れず、礼子は流されるように「子供のため、私さえ我慢すれば」という気持ちにだけすがって生きるようになっていた。

家庭内ももはや冷え切るどころの話ではなかった。

運命の出会い

礼子は疲弊しきっていた。
そんな折、克彦さんと口論になった際、「お前はお手伝いさんたい」と言われ唖然とする。
平成4年の正月には克彦さんの母親からも、「克彦が離婚ば考えよるとよ。財産は全部こっちのもんやけんが。子供らも全部引き取ってうちで面倒ばみるけん」と追い打ちをかけられた。

Aさんとの関係はいまだに続いていた。仕事はパートを転々としてはいたが、自分一人で自立できるには危うく、ましてや子供たち3人を連れていけるわけもなかった。
さらに、家計が回らず、町内会の会費を60万円使いこむなどしており、その穴埋めのために山口夫婦は相当な借金があった。礼子名義の借金だけでもなんと一千万円に上っていたという。

そんな時、スナックを訪れたのが外尾だった。

克彦さんの母親から離婚の話を聞かされる少し前、礼子が勤めるスナックの客として訪れたのが、外尾だった。
外尾は礼子を指名し、接客下手な礼子にも優しかった。時には、経済的に困窮している礼子に対し、小遣いを渡すこともあった。
そんな外尾に対し、礼子は本来自分が求める男性像を見出すようになっていく。
会話の中で、礼子がAさんに脅されていることを知った外尾は、スナックの中でAさんを呼びつけ殴りつけた。
この時の外尾は、礼子にとってみれば「救世主」であった。この男こそ、自分をこの泥沼から引き揚げてくれる存在であると思えたのだろう。

Aさんの背後には暴力団があった。外尾は、それにもしっかり手をまわしていた。そのため、Aさんも礼子と関係を切らざるを得なかった。
外尾の登場で、礼子はその「泥沼」から抜け出せた。はずだった。

しかし外尾は白馬の騎士ではなかった。
外尾はこれまでも、女性を食い物にして金をせびってきていた。今回のターゲットは、礼子だった。
スナックに通ううち、礼子の境遇を嫌でも耳にした。礼子から直接話も聞いた。そこで、外尾はある算段をしたのだ。
Aさんに手をひかせ、男気のある所を礼子に見せた上で、礼子を食い物にしようとしていたのだ。
しかし、外尾の皮算用とは裏腹に、その後礼子と克彦さんは連れ立って、「また二人でやっていくから」とスナックを辞める挨拶をしに来た。
その時のことを、裁判で証人として出廷した外尾の知人は、「外尾は二人が元のさやに収まったと聞いて『金にもならんことをしてしまった』とボヤいていた」と話す。

礼子はAさんから解放され、夫もスナックのママと別れ、もう一度家庭を再構築しようとしていたように見えたが、その半年後、克彦さんが死亡する。
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