特集:🔥4つの家族の事件簿🔪

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家族とは。

読者の皆さんは、どんな家族を持っていますか。
幼い頃から不遇な生活を送り、お世辞にも恵まれていたとは言えないけれど、精神的には家族のことが好きだという人、一方で経済的な問題はなくとも、寒々とした家庭しか知らずに来たという人、その両方を良くも悪くも兼ね備えた人。

私は今でこそ家族とのつながりは良好ですが、幼い頃を母親となった今振り返ると、経済的には非常に恵まれていましたが私の両親は毒親であったと言えます。

後期高齢者に差し掛かった両親は、今ではそれを悔いているところもあるようですが。

しかし事件が起こる過程というのは、すべてがそのように膿を抱えている家庭ばかりとも限りません、ある意味、健康であったはずの家庭のほうが、耐性がないというのか、崩れるときはあっという間、ということも。
良き母親が、良き父親が、何かのきっかけで子を道連れにしてしまう、あるいは、家族を思うがあまりに暴走してしまう、そういったケースは少なくありません。

家族のうちの誰かの心の闇が、ほかの家族を巻き込むケース、そこには思い込みや親子一体、言ってしまえば自分勝手な動機が介在していることもあります。
しかしもうその時は、それしかないと思い込んでしまっていることから、未然に防げない、他の家族の誰も気付けない、そんなことが重なって悲劇が起こるということが多いように思われます。

今回は、事件そのものは小さな扱いのものでも、その背景が特殊なケースを集めました。

思い込み~江東区・二児殺害事件~
親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~
堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~
誤算~赤穂・祖父母殺害事件~

堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~

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昭和63年5月24日午前9時

文京区小日向の営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅ホーム。
ふらふらと中年女性がホームに歩いてきた。
その視線は虚ろだったが、どこか目的を持ってその場にやってきた、そんな印象だった。

通勤ラッシュが終わった時間、それでも電車のを待つ人は多く、その多くの人は女性のことなど気にもしていなかった。

電車が入ってくるアナウンスが流れる。荷物を持つ人、歩き出す人の合間を縫って、女性はそのまま電車に飛び込んだ。

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親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~

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昭和62年11月5日

「あれ、奥さんたちどうしたの?」
杉並区下井草の住宅街で、住民が顔見知りの男に声をかけた。
その男はこの辺りでも名の知れた会社の次男坊で、父親である社長と育ての親である内妻、若く美しい妻にかわいらしい娘とともに5人で暮らしていた。この日、いつも姿の見える妻や娘がいなかったことから、住民は軽い気持ちで声をかけた。

「親父らと一緒に秋田の実家へ行ったんですよ。」

男はそう答えると、自宅のほうへ戻っていった。

しかし数日後、この男の家が全焼し、家の中からは家族4人の遺体が発見される。
その遺体の中に、この男は含まれていなかった。さらに、4人にはそれぞれ他殺をうかがわせる証拠が残っていた。

事件

昭和62年11月8日午前4時すぎ、東京都杉並区下井草の三階建てビルから出火、同ビルの一部と敷地内にある無人の木造住宅の一階部分が焼けた。
二時間後に消し止められたが、焼け跡からは大人3人、幼児一人の遺体が見つかった。

荻窪署の調べによると、亡くなっていたのはこのビルと住宅の所有者で会社社長の伊藤正之助さん(当時69歳)、内妻の笠井節さん(当時65歳)、正之助さんの次男の妻・香芳さん(当時27歳)、そして次男夫婦の娘・玲ちゃん(当時2歳)と判明。
さらにその後の調べで、玲ちゃんを除く大人三人には首をひものようなもので絞めた形跡があること、現場に灯油が撒かれていたことなどから殺人、放火事件と断定、警視庁捜査一課が特捜本部を設置した。

正之助さん方は三階建てのビルで、1階で正之助さんと節さんが暮らし、2階の一部と3階をマンションにしており、次男夫婦は2階のマンションの一室で暮らしていたという。

捜査本部では自宅にいない次男の行方を探したものの、車もなく、その行方が分からないままだったが、冒頭の通り、5日には家族で秋田に行っている、と近隣住民に話していたことがわかった。しかし、その事実はなかったこと、次男が7日の夕方近所のガソリンスタンドで灯油18リットルを購入していたこと、出火はしなかったが次男の部屋にも灯油が撒かれていたことなどを併せて、この次男が何らかの関与をしているとみて次男の行方を追った。

さらに、正之助さんの銀行口座から現金1300万円が引き出されていたことも判明。部外者が押し入った形跡もなく、そもそも正之助さんの印鑑や預金通帳を持ち出すことは他人にはできない事から、やはりこの次男の関与が濃厚となった。

捜査本部は次男が多額の現金をもとに長期逃亡を視野に入れている可能性を考え、車のナンバー、人相、着衣などを全国に指名手配し、殺人容疑で逮捕状を取った。

その後の展開は早かった。
事件発覚の翌日、次男は宮城県仙台市内の東北自動車道・仙台南インターに進入しようとしたところで、たまたま行われていた宮城県警の一斉検問に引っ掛かり、免許証不携帯だったために身分照会をされた。
この時点では宮城県警は事件との関連に気付いていなかったが、車のナンバープレートが折り曲げられていたり、そもそもたかが免許証不携帯のわりに顔面蒼白で狼狽える男の様子が気にかかり、何か隠しているのではと追及。当初、本名だけを名乗っていたという次男は、その後「東京で家族4人を殺した」と自供したため、駆け付けた警視庁の捜査員によって逮捕された。

逮捕されたのは正之助さんの次男で、殺害された香芳さんの夫である伊藤竜(当時29歳)。
調べに対し、香芳さんとの間で娘の教育方針をめぐりたびたび衝突しており、激高して妻の首を絞め殺害してしまったと話した。玲ちゃんについては、母親を亡くして父親が殺人犯となればあまりに不憫だと思って殺害、正之助さんについては、事件を起こしたことを相談したものの、冷たくあしらわれたことで逆上し殺害し、節さんについては「ヤケになって殺した」と話した。

検察は11月29日、殺人、非現住建造物放火、死体損壊の罪で竜を起訴した。
当初は上記のように夫婦喧嘩、親子喧嘩の挙句の殺人と見られていたが、実際には、生々しい夫婦、親子間の情の縺れがあったことがわかっていた。

それまで

殺害された正之助さんは、秋田県の出身。高等小学校を卒業後、終戦までは旧満州で憲兵隊として任務に就き、昭和22年ころに日本に引き揚げた。
その後は埼玉県内で不動産関係の仕事をし、昭和33年に「矢留建築」を設立した。昭和45年には株式会社へと組織変更し、5階建ての自社ビルを建設した。
現場となった自宅マンションビルのほか、下井草駅近くにも4階建てマンションを所有し、仕事では農地売買なども手掛け、順調な経営状態だったという。

借金はなく、下請け業者らへの金払いも良く、その仕事ぶりは非常に手堅いと評判だった。

一方で、その家庭はというと、少々問題があったようだ。

正之助さんには、竜のほかに長男もおり、当然その子らの母親である妻もいた。
しかしこの妻は、子供たちに手を上げたり、家事を疎かにすることが度々あったことで、次第に夫婦仲は冷え込んでいった。
昭和41年ころまでには、正之助さんもよそに愛人(殺害された節さん)を作り、それらが原因となって正之助さん夫婦は別居することとなった。長男は母親とともにそれまでの住居で暮らし、竜と正之助さん、そして愛人だった節さんと3人で昭和45年5月、事件現場となった階建てビルに転居し、新しい暮らしを始めたのだ。

当時竜は中学生で、都内の大学付属の中学校で学んでいた。竜にしてみれば、父親とその愛人との生活は辛かったのではないかと思うのだが、竜にしてみれば実母から愛情をかけられた経験が少なく、竜自身も実母への執着がなかったことに加え、我が子のように親身に接してくれる節さんのことをむしろ「母親」と思うようになり、「おふくろ」と呼んで慕っていた。

父、正之助さんとの関係はどうだったか。

父親として、正之助さんは常々、
「友人は会社に役立つ人間を選べ」
と口にしていた。しかし竜はまだ中学生であり、損得勘定で人間関係を構築するようなことは難しかった。
それでも父の教えを実践するうち、友人は減り、その生活は空虚なものとなっていた。
さらに不幸な出来事がそれに追い打ちをかける。
昭和46年、実兄が交通事故でこの世を去ってしまったのだ。
長男を後継者にと考えていた父は落胆したが、すぐに竜を後継者に育てるべく動き始め、高校卒業後は建設を学べる大学へと進学した。
しかし正之助さんは実務も行うよう強い、大学在学中でありながら半ば強制的に矢留建築に入社させた。
結果、学業についていけなくなった竜は、退学せざるを得なくなってしまった。

正之助さんのもとで修業を始めた竜だったが、その働きぶりは頼りなかったという。
仕事ができる人間を重宝する主義だった正之助さんは、実子であっても竜に容赦はなかった。大正生まれ、職人気質の正之助さんからは時に理不尽な𠮟責も飛んだ。
それでも竜は、正之助さんの性格や生き方を理解している自負もあり、従順な態度で日々仕事をこなしていたという。

昭和58年、節さんがとある見合いの話を竜に持ち掛けてきた。節さんの知人の紹介だったという見合いで、竜はその女性に一目ぼれした。それが、香芳さんだった。
香芳さんは化粧品販売会社の店員だったというが、実は当時、交際している男性がいた。
しかし年齢的なことも考え、昭和59年に竜との結婚を決意、2月27日には挙式した。
新婚旅行から戻った若い夫婦は、自宅マンションをあてがわれてそこで新婚生活を始める。
すぐに香芳さんの妊娠が判明し、幸せが怒涛のように押し寄せていた……と思っていなかったのが、竜だった。

不可解な「受胎」

昭和59年3月28日、香芳さんから妊娠の事実を告げられた竜は困惑する。
出産予定日は11月中旬といって喜ぶ香芳さんを横目に、竜は疑問を抱いていた。

竜と香芳さんは2月27日に挙式後、数日かけて九州地方をめぐる新婚旅行に行っていた。
その時の、と思えば計算上おかしくはない気もするが、実はその時期、性的関係を持っていなかったのだ。
新婚旅行中はもちろん、東京に戻って以降も疲労やお祝いなどで飲酒が続き、実際に香芳さんと初めて性的な関係を持ったのは3月も終わりの20日頃だったと竜は記憶していた。

それが、なぜ一週間後に妊娠判明なのか。

ただ香芳さんが積極的にその週数の数え方などを竜にレクチャーし、竜もなんとなく矛盾を感じなかったため、その話はうやむやになったものの、竜の心にはしこりとして残っていた。

6月、産婦人科へ通うために中野区の実家へ戻っていた時、不審な電話を竜は自宅で受けた。
それは若い男の声で、ただ香芳さんの在宅の有無を確認するだけのものだったという。
中野の実家を訪ねた際、何気なくその話をしたところ、香芳さんの実母が
「あら、それはAくんじゃないの?」
と言った。Aくん?誰だそれ、と竜が訝しんでいると、それを聞いた香芳さんが慌てて実母を制止した。
その行動に引っ掛かるものを感じた竜は、自宅へ戻って香芳さんの私物を探ってみた。すると、まさにAと同姓同名の差出人からの「手紙」を発見したのだ。
しかもその内容は、ラブホテルへの誘いだった。

仰天した竜だったが、その手紙が出された時期がわからず、もしかしたら自分と結婚する前の話かもしれないと思い直し、それを見つけたことなどを含め、香芳さんには黙っていた。

竜の心の燻りは消えることはなかったものの、同年11月、予定通りに香芳さんは女児を出産、玲ちゃんと名付けられた。

玲ちゃん出産後は、周囲の皆が大喜びし、さらには玲ちゃんが竜とよく似ているなどといわれたことから、竜の中での不信感はなりを潜めていた。
竜も、あまりにも我が子が愛おしく、このような幸せを運んでくれた香芳さんに対してもいっそうその情愛を深め、一家はどんどん幸せになっていく、そう誰もが思っていた。

強烈な捨て台詞

玲ちゃんが一歳になったころ、竜は香芳さんのある変化に気付いた。
香芳さんが外出する際の服装や化粧の仕方がなんとなく派手になったように思えたのだ。

しかし香芳さんを愛していた竜は、直接問いただすことなど出来ず、香芳さんの外出先を探って男と密会しているのではないかなどと思い悩むようになった。
ただ、実際に香芳さんの外出先や行動、帰宅時間などを考えた時、男と浮気を楽しむような時間的余裕が見当たらないことから、思い過ごしだと自分を納得させつつ、それでも心にはずっとAのことがわだかまりとして残ったままだった。

昭和61年に入り、竜は任された仕事が思うように運ばず、苛立ちを募らせていた。
しかも、今回の施主は香芳さんの叔父であり、その叔父から工事内容にクレームをつけられるという事態が起きていて、日ごろから香芳さんの実家や親族らに対し思うところがあった竜は、自宅で香芳さんと口論になってしまう。

きっかけは、玲ちゃんに対する教育方針の違いだった。

竜は子供らしくのびのび育てたいと思っていたが、香芳さんは早期教育をすることを望んでいた。
意見はかみ合わず、次第にヒートアップしていく中で、話は玲ちゃんを中野の実家が独占している、というものへ発展した。
どうやら香芳さんは、実家にばかり玲ちゃんを連れて行き、同じビルで暮らしている正之助さんや節さんにあまり玲ちゃんを遊ばせようとしていなかったように思われた。竜はそれを香芳さんに問いただすと、香芳さんは途端にむくれ、口を利かなくなってしまった。

しばらくして、冷静さを取り戻した竜が、仲直りをしようと香芳さんのいる寝室へと向かうと、突然、
「竜ちゃんは、いつもお父さんやお母さんのことばかりで私のことなんか何にも考えてない」
と責められた。驚いた竜が売り言葉に買い言葉で、
「それなら子供を置いてお前だけ実家に帰れ!」
というと、香芳さんの口から驚愕の捨て台詞が飛び出した。

「この子はあんたの血なんか入ってない。私の子供なんだから、私が連れて帰る。わかってるでしょう、Aくんの子よ。」

香芳さんの性格はわからないが、これは絶対に口にしてはいけない言葉だった。いや、そうでもしなければ玲ちゃんを取られてしまうと恐れてのことだろうとは思うが、それでもこれは、相手を完膚なきまでに叩きのめす言葉である一方で、相手を見境を無くすほどに激昂させるには十分すぎる言葉でもあるのだ。

竜は、後者だった。

追い討ち

香芳さんの首を絞めて殺害した後、竜はその傍らで眠る愛娘の顔を見た。
自分の娘と信じて愛しんできた。今日この日までは。
何も知らずに安心しきった表情ですやすやと眠る玲ちゃんを見ても、もはや竜の心は憎しみしか浮かばなかった。

玲ちゃんを殺害後、竜は途方に暮れていた。しかしもう時を戻すことなど、出来ない。
心が決まらぬまま一日を終え、竜は自首する気持ちを固めていた。ただ、これまで自分を見守ってくれた父と節さんだけには、きちんと報告したうえで送り出してもらおう、そう考えて、4日夜7時半ころ、1階の正之助さん宅を訪れ、事の次第を説明した。

「香芳と玲を殺してしまった。何の親孝行もできずすみません。二人の遺体の供養をお願いします。これから自首します。」

そこで正之助さんから出た言葉は、打ちひしがれる竜をさらに奈落の底へ突き落すに等しいものだった。

「お前はやっぱりあの女の子なんだなぁ。お前など、俺の子でもなんでもないから、孝行されんとも何とも思わん。」

竜は意味が分からなかった。俺の子でもなんでもない?とは?パニックに陥る竜を、正之助さんは別の部屋へ連れて行き、そこにあった古いスナップ写真を見せられた。そこには、懐かしい実母の若かりし頃の姿があり、傍らには正之助さんではない男性の姿があった。

続けて、メモを書きつけたものも見せられ、実母が浮気をしていたことや、竜を妊娠したとされる頃は実母と関係を持っていなかったことなどを告げられた。
正之助さんは、竜が自分の子でないことを知りつつも、実の子である長男が動揺するのを恐れて知らん顔をしてきたのだと話したのだ。

自分は騙されていたのか?実の父だと思っていたからこそ、理不尽な思いにも耐え、会社を継ぐために努力してきたのはいったい何だったんだ。竜の心の中にはそれまでの不満や我慢が一斉に吹き出していた。

次の瞬間、竜は室内にあった果物ナイフを手に取ると、正之助さんの左胸を一突きし、正之助さんが倒れこんだところを浴衣の紐で首を絞めて殺害した。
正之助さんが絶命したことを確認すると、節さんのことを思い出した。
愛人とはいえ、長年母のように接してくれた節さん。しかし今の竜には、節さんへの感謝も愛情も消え失せ、正之助さんと一緒になって自分を騙してきた難い相手でしかなかった。

2階にいた節さんを見つけると、背後から先ほどの浴衣のひもを首にまわし、そのまま絞めて節さんも殺害。
4人の遺体を正之助さんの寝室へ集めるた。

その後、7日までの間、正之助さんらの姿が見えないことを不審がる従業員らに取り繕っているうち、家を燃やしてしまえば証拠もなくなると考え、敷地内で誰も使用していなかった木造住宅に灯油をまき、さらには正之助さんらの遺体のある寝室にも灯油をまいたうえ、火をつけたのだった。

そして、正之助さんの預金を引き出し、逃走した。

この事件では、当初から竜について以下のような話が報道されていた。

竜はその年の4月に、交通事故を起こしていた。
乗用車で工事現場へ向かう途中、飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切り、土手下に車ごと転落するという大事故だった。
命に別状はなかったものの、その事故で竜は一時的な記憶を失ってしまったという。
事故後、竜を診断した東京女子医大病院によれば、逆行性健忘症とのことだった。

その後も、記憶がおかしくなったり自分の名前を言えなくなるなど、症状は時折出ていたといい、事件直前の1日も、杉並区内を一人でふらついているのを警察官に保護されるということもあった。

正之助さんも、周囲の人らに「竜はもう元に戻らないかもしれない」と涙ながらに話すことがあったという。仕事にもかなり支障をきたしていた。

東京大学病院精神神経科の平井富雄医長(当時)によれば、逆行性健忘症の場合、数日で記憶が戻ることが普通だが、再発を繰り返していることを考えれば心因性のストレスが事故を契機に記憶喪失という形で表れたと解釈できる、と読売新聞の取材に答えている。
また、心因性の記憶喪失の場合、感情的な爆発が起こり、突如暴れだすということもあるが、当の本人はその行動を覚えていないケースも多いという。

警察ではそれらの事情を踏まえ、当初は竜に対して精神鑑定も考えていたが、逮捕後の供述ははっきりしていたことや、他の証拠類との相違もなかったことから、検察も起訴に際し責任能力に問題はないと考えていた。

一方弁護側は、「通常人の理解を越えた事件で、当時、被告は心神喪失か心神耗弱状態にあった」と主張した。

検察は死刑を求刑、弁護側は上記を理由に無罪もしくは減刑を求めた。
裁判の中で、ひとつの事実が明らかとなる。
竜の逆行性健忘症は、詐病だったのだ。

竜は事故を起こしたころ、仕事に行き詰っていた。先にも述べたが、当時担当していた現場は妻の香芳さんの叔父が施主で、たびたび工事内容にクレームが来ていたという。
昭和61年3月、やけになった竜は、その自分が担当している工事現場に放火。一度では飽き足らず二度も放火し、ボヤ騒ぎを起こした。
当然、警察の捜査が行われるわけだが、その直後、先述の自動車事故を起こす。竜はそれを理由に、記憶喪失を装っていたのだ。

さらに、東京都から受けるはずの融資がうまくいかないことを正之助さんに叱責された際は、たまたま公衆トイレで転倒したことを理由に、またもや記憶喪失を装って仕事がうまくいかないことを取り繕うなどしていた。

こうなると、そもそもその自動車事故も何だったのか疑わしいではないか。
もっというと、やけになって後先考えず行動し、その方法が「放火」というのは、竜にとって家族殺害の時が初めてではなかったというわけだ。
そして、自己保身のために壮大な嘘をつくことを厭わなかった。

となると、はたして事件当夜、夫婦間で交わされた言葉、親子間で交わされたあの非情なやりとりは、本当のことなのだろうか?

真実の行方

裁判所は、竜が面倒なことにぶち当たると逃避行動をとること、その逃避行動の内容が理解可能なものであることなどから精神障害については退けた。
一方で、被害者らのあまりに無慈悲な言葉が事件を引き起こした要因の一つであることは認め、竜に対する酌量に値するとした。

さらに、正之助さんの遺産から数千万円を香芳さんと節さんの遺族にそれぞれ支払っている(竜本人ではなく、おそらく正之助さんの親族が支払ったと思われる)ことで示談が成立していること、それぞれの遺族が極刑を望んでいないこと、とりわけ、香芳さんの両親からは、
「被告人の家庭環境や生育歴を考えると、被告人も被害者であり、現在では被告人を宥恕(ゆうじょ=許す)しているので、寛大な判決を求める」
との申し出もあった。

竜の実母、正之助さんの兄をはじめ、親類、従業員、下請け業者らも多数が竜の更生に尽力することを約束していた。

ここまで言われてしまうと、もはや結果は見えている。

昭和63年3月18日、東京地方裁判所の島田仁郎裁判長は、竜に無期懲役の判決を言い渡した。
遺族のほとんどが竜を許し、同情まで寄せたことが死刑回避の大きな理由になったのは間違いないだろう。精神状態に問題がない以上、これ以上の減刑は求められないであろうし、被害者のうち節さんと玲ちゃんには一片の落ち度もないわけで、その二人を殺しただけでも死刑であってもおかしくないのだから、竜にとってはありがたい判決だった。

検察は量刑不当で控訴したが、その後確定した。

玲ちゃん、正之助さんとの竜の関係については、超有名サイト「無限回廊」によると、

事件後、血液型を調べた結果、R(竜)が正之助の実の子であることが法医学的に確認されている  ※()内は事件備忘録の補足

となっている、が、判決文の時点では言及はない。当時の新聞報道でもそこまで踏み込んだものは見当たらなかった。血液型だけではなかなか鑑定できない気もするのと、当時の親子鑑定のレベルで、焼損した遺体の血液でどこまでできるのかちょっと不明なため、この事件備忘録では断定は避けたい。
玲ちゃんについては、判決文の中で「被告人の子ではないとまでは認められない」としている。

ただ、いつもこういう事件で思うのだが、客観的な証拠が乏しい中での被告人と被害者しか知らない会話が、どこまで真実なのか、と思う。
もちろん、香芳さんについては他の男性の存在があったのは間違いなく、また実母についてもそうだろう。
しかし、本当にそんな言葉を発したのか?
正之助さんは、竜のことを叱りはしていたものの、それでも後継者にすべく教育してきた。それだけではなく、竜が事故に遭った後は何かと気にかけ、心配し、時には周囲に竜が不憫だと涙ぐむこともあった。

節さんにいたっては、まったく血縁のない他人の竜を、我が子同然に育ててきた。母の愛を知らなかった竜には、節さんこそが母親だった。

香芳さんがしたとされるその発言も、どこか竜の疑念に沿い過ぎているような気もする。確かに、香芳さんの実母も知るその別の男性の存在はあったし、事件の一週間前に香芳さん自らその男性に連絡して会っていたという事実もある。
しかしだからといって、玲ちゃんが実の子ではないというのは、竜が証言したこと「だけ」で成り立っている話だ。もう香芳さんの言い分は聞けない状況で、である。

しかも、その直後に正之助さんからも同様のことを言われるというのも、どこか出来過ぎているような気もする。

ともあれ、裁判ではこれらのことが認定され、それらはすくなからず竜にとって有利に働いた。
本当のことは、もはや竜しか知り得ない。

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参考サイト
無限回廊「杉並一家皆殺し放火事件」

参考文献
朝日新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月30日東京朝刊、昭和63年2月8日東京夕刊
読売新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月10日東京夕刊、昭和62年2月6日 東京朝刊、昭和63年3月18日東京夕刊

昭和63年3月18日/東京地方裁判所/刑事第1部/判決
昭和61年(合わ)258号
判例時報1288号148頁

D1-Law 第一法規法情報総合データベース

思い込み~江東区・二児殺害事件~

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昭和62年7月28日

東京地方裁判所。
村上光裁判長は、法廷でうなだれる女に対し、懲役5年の判決を言い渡した。
女の罪は殺人と同未遂。女が手にかけたのは、幼い娘と息子、そして夫という、家族そのものだった。

判決は確定、女は刑務所へと収容された。
女は家族を葬り去らなければならないと思い込んでいた。しかし、それは全くの思い込みであり、女が思い悩んで悲嘆にくれる必要など本来どこにもなかった。

女は何をそこまで思い詰めていたのか。

事件

昭和62年4月30日早朝、江東区の運送業・相羽幸次郎さん(仮名/当時37歳)方から、
「子供が刺された」
と通報があった。深川署員が駆け付けると、3階建ての自宅の1階部分にあるダイニングで通報者と思われる幸次郎さんが、腹から血を流してうずくまっていた。
署員が子供を探して3階へ上がると、その廊下に、返り血を浴びて立ち尽くしていた母親がおり、3階の子供部屋には二人の子供が血まみれで息絶えていた。

深川署は、幸次郎さんの証言と、現場に血塗れでいた母親の自供から、この母親が子供たちを殺害し、夫である幸次郎さんを殺害しようとしたとみて逮捕した。

逮捕されたのは相羽まりえ(仮名/当時36歳)。なくなっていたのは、まりえと幸次郎さんの長女・里織さん(当時13歳)と、長男・健太郎くん(当時9歳)だった。

調べに対し、まりえは
「今年に入って体重が減り、体調も思わしくなかったので病気だと思った。悩むあまりここ数日眠れていなかった。」
と話しており、深川署では自身の健康を悲観し、発作的に家族を刺したのでは、とみていた。

家族を道連れにしてまで思い悩んだというその病気は何だったのか?

まりえ

まりえは東京の生まれだったが、幼い頃に父親が失踪、その後はまりえだけ母の兄弟夫婦に預けられだが、まりえ自身は時折寂しさを覚えはしたものの、自分の境遇を呪うことなく健やかに成長していた。

中学に入ったころ、職を得て安定していた実母の元へ戻ったが、やはり母を助けたいという思いもあって高校は定時制を選ぶ。
町工場などで働きながら母を支え、無事、定時制高校も卒業するという非常に健気な少女だった。
昭和45年からは新宿のおそらくデパートと思われるが、そこの化粧品部門で働き始め、翌年には夫となる幸次郎さんに出会う。
交際を始めて間もなく二人は結婚し、すぐに里織さんを、そしてそののちに健太郎君を授かり、幸せな家庭を築いていく。
昭和50年ころには幸次郎さんの両親らとともに江東区の事件当時の場所で同居を始め、まりえ自身も近所の喫茶店でパートをするなど、この時代のごく普通の暮らしを送っていた。

まりえ自身、子供の学校関係もうまくやれていて、PTAの役員を引き受けることもあった。
そして昭和57年6月、そのPTAの役員仲間と出かけた夜の女子会で、ある出来事が起きた。

神経質な女

昭和57年6月、まりえはPTAの役員仲間と連れ立って、六本木へと繰り出した。今でいう女子会の流れである。
平凡な主婦が久しぶりに感じる夜の世界は、普段しっかり者のまりえの心に隙を作らせてしまう。

一週間後、まりえはひとり悶々と悩む日々を送っていた。まりえの口に、口内炎ができたのだ。
普段なら、口内炎ごときで狼狽などしないのだが、この時のまりえの頭の中には、あの六本木のディスコでのとある出来事がこびりついて離れなくなっていた。

あの夜、まりえはその場のノリで見知らぬ男性とチークダンスを踊っていた。その際、男性から突然キスされたという。
まりえは神経質な一面があったと言い、口内炎ができたことから梅毒に感染したのではないかと気が気ではなかったのだ。
梅毒は今でも感染の可能性のある性感染症で、平成24年ころには密かに感染者が増加しているなど、結構身近にあるものだ。現在では治療法も確立されていて重篤化することは稀というが、この昭和の終わりはまだその「梅毒」という病名の強烈さや症状のひどさ、そしてなにより「性病」ということで、いろんな意味で恐れられていた。

まりえは悩んだあげく意を決して都内の皮膚科泌尿器科を訪れ、梅毒の検査を受けたところ陰性と分かり、一応は安堵したという。

しかしこの「梅毒騒動」は、数年後にふたたびまりえを苦しめることになってしまう。

暴走する妄想

なにごともなくその後を過ごしていたまりえだったが、昭和62年になったころ、まりえの脳裏に再びあの梅毒騒動がよみがえる羽目になった。
その前年、苦労をかけた実母が急逝し、まりえは深く落ち込んでいた。疲労も重なり、なんとなく体の調子が悪いなぁ、と思っていたところへ、「ある報道」が飛び込んできた。

神戸市で昭和62年1月、ある病気で、日本初の女性死亡者が出たと報道されたのだ。
その病気は、「エイズ」だった。

今でこそエイズは不治の病というよりも、適切なコントロールをすることで日常生活を送ることができるし、社会の中に普通にHIVに感染している人も存在する。
治療を適切に行うことでその予後は無治療に比べれば劇的に伸びるわけで、感染についても現時点(令和3年)では新型コロナの感染者のほうが忌み嫌われるほどだ。

しかし時は昭和、エイズ=死の病、他人にうつる、そしてなにより「性感染症」という強い負のイメージばかりが先行し、正しい知識が一般に知れ渡っていない時代だ。
HIVは濃厚な粘膜接触や血液による感染、母子感染が感染経路だが、当時は空気感染するだの、握手でうつるだの、今となっては信じられないような話がまことしやかに囁かれていたのだ。

まりえも、報道などで見聞きした素人の考えにとらわれ、現在の自分の体調不良は、あのディスコでキスされた際に梅毒ではなくエイズをうつされたのではないのかと、ふと、思ってしまった。

それに思い当たったのが、結果としてはこの一家の運命を決めてしまった。

体のだるさ、食欲不振、微熱、首のコリ、さらにはリンパも腫れているような気がしていた。寝汗もひどい。
これはまるで、エイズの初期症状ではないのか。しかもエイズはキスでもうつる(※基本的に唾液での感染可能性はない)というではないか。
まりえの中でその不安は日に日に肥大していった。

2月下旬、思い悩んだ挙句、かかりつけ医院においてとりあえず腎臓や胃などの検査を受けた。その後、肝臓、甲状腺の状態を検査したのち、意を決してエイズの検査も受けた。
結果は「陰性」。しかしまりえは念のためもう一度検査を受けてみた。当然それも陰性だった。
公的機関での2度の検査で陰性と言われれば安堵しそうなものだが、まりえは違った。
検査結果や医師の判断よりも、自身の体調を信じたのだ。

まりえは検査後も首のコリやそれ以外の体調不良が続いており、その間飲んでいた風邪薬の影響で検査結果が間違ったのではないかと勘繰り始めた。
4月中旬、墨東病院において3回目のエイズ検査を受けるも、こちらも陰性だった。しかしまりえは、
「異常がないのにこんなに体調不良が続くのはおかしい。エイズはまだ未知の病気であり、私は新種のエイズにかかっているとすれば納得がいく」
という、なんとも理解しがたい思い込みに囚われていた。

さらに、そのころ長男・健太郎君が肺炎で入院するという出来事が起き、それがさらにまりえの妄想に拍車をかけた。

「あぁ、家族全員にエイズを私がうつしてしまった……」

殺害計画

体調を崩したのは健太郎君だけではなかった。夫の幸次郎さんも、寝起きが悪く首や肩がこる、という話をしていたし、里織さんも4月以降、疲れが取れないなどと話していた。

冷静に、というか、普通に考えたら、新年度が始まった4月というのは子供もいろいろと疲れるだろうし、夫はアラフォー、なにもなくても体調の変化が如実に表れる年ごろである。しかも幸次郎さんは運送業で、体を使う仕事なのだからそんなことは良くある話だ。
そもそもまりえの体調不良も、実母がなくなって気落ちしたところへ、葬儀や相続の手続きで知らぬ間に相当な疲れが溜まっていたと考えるのが普通である。
健太郎君とて、それまで健康優良児だった、というわけではなく、もともと体は弱く喘息持ちだったことを考えれば、季節の変わり目などで肺炎になってしまったとも考えられるし、どれもこれも、「よくあること」だったはず。

しかしまりえには過ちともいえるあのディスコでの出来事が重くのしかかっていた。
事が事だけに、誰にも相談は出来なかった。一人思い悩むうちに、検査の結果も医師の言葉も、もうなにも信じられなくなっていた。医師はエイズだと言い出せないがために、嘘をついているのだとさえ思っていた。

もはやまりえは狂気だった。

自身が幼い頃親せきに預けられ寂しかったことまで思い出し、自分が死んだら子供たちがかわいそうだと思い、いっそ一家心中すればいい、まりえの狂気はそこまで達していた。
そして子供と夫の具体的な「殺害方法」についても、思いを巡らせるようになる。
4月下旬、健太郎君が退院すると、このあとやってくる天皇誕生日(現・昭和の日)の前日に実行すると決め、あらかじめ夫のネクタイと柳葉包丁を手の届くところに隠した。実兄や親友らに手紙を書き、預かっていた積立金などの配分も書面に残した。

さらには、心中後に発見した人を巻き込まないよう、「エイズです、3Fに上がらないで、血に触ると危険です」などと書いた紙まで用意した。
しかし28日には踏み切ることができず、その日は何事も起こらなかった。

29日、子供たちが寝て、幸次郎さんも日付が変わるころまでには就寝。まりえは夫とともに布団には入ったものの、まりえをとらえて離さない「一家心中」について思いを巡らせていた。
深夜1時を過ぎた頃、まりえは起きだし、隠しておいたネクタイを手に取ると健太郎君の部屋へと向かった。
2本を束ねてその両端を握り締めると、何も知らずに寝入っている健太郎君の首にまわして一気に絞めあげた。

しかし、殺すことは出来なかった。

躊躇したために力が入らなかったのか、健太郎君は目を覚まし、「ママどうしたの!なんでこんなことをするの?気持ち悪い、苦しいよ」と訴えた。
そこで我に返ったまりえは、健太郎君をなだめすかして一旦は部屋を出て、自分の寝室で眠った。
しかし4時半頃、目を覚ましたまりえは、完全に鬼になっていた。

「もう、駄目なのよ」

一度はやめたはずの一家心中を、まりえは今度こそやり遂げなければならないという気持ちになっていた。
しかし体の小さな健太郎君でさえも殺しきれなかったのだから、もう首を絞めるのではなく、包丁で刺し殺すことに決めた。
用意していた注意書きの便せんを3階に上がる途中の階段に置くと、手にはバスタオルと柳葉包丁を持ち、3階の子供部屋へと向かった。最初は、里織さんと決めた。

苦しむ顔を見ることは出来そうもなかったので、眠っている里織さんの顔にそっとタオルをかけると、里織さんの心臓めがけて逆手で包丁を振り下ろす。
と、里織さんが寝返りを打った。包丁は狙いを外し、里織さんの腕の付け根あたりに刺さったという。
当然、痛みで目を覚ました里織さんは、「痛い!ママ何するのよ!!」と叫び、ただ事ではないと察して這うように逃げ出した。
まりえは里織さんを部屋の隅へと追い詰めると、「助けて」と懇願する娘に対し、

「もう、駄目なのよ」

と呟くと、里織さんの胸を複数回、メッタ刺しにした。

次は健太郎君だった。
健太郎君は眠りが深かったのか、バスタオルを顔にかけても、体の向きを変えても起きなかった。
刺しやすいように体を仰向けにし、バスタオルを顔にかけるとその頭を手で押さえ、里織さん同様心臓めがけて何度も突き刺した。

「どうしたんだ、なにしてるんだ」

ふと、背後で声がした。寝ていた幸次郎さんが物音に気付いて起きてきたのだ。
まりえはそのまま両手で包丁を順手に握ると、振り向きざま幸次郎さんに突進、無防備だった幸次郎さんの胸を一突きした。
しかし包丁を抜いた瞬間に幸次郎さんが包丁を取り上げたため、それ以上刺すことは出来なかった。

幸次郎さんは血を流しながらも階下へ降り、110番通報したのだった。

エイズパニックシンドローム

裁判では、弁護人は事件当時まりえが心神喪失だったとして無罪を主張、加えて、まりえの知人ら約1200人の嘆願書が届いていると話した。

事件自体は、結果は幼い子供2人が死亡、夫も重傷という重大な事件であり、人数の面から言えば無期懲役、死刑だってありえるものだ。
里織さんは第三肋軟骨切断、右心房を貫通しさらには横隔膜まで貫通し肝左葉に達する長さ21.5センチの傷、第四肋軟骨一部切断し、同じく横隔膜を貫通して右肺下葉貫通、肝右葉に達する18センチの傷があり、心臓損傷による失血死だった。
暗闇の中、突然の激痛で目覚めた後に13歳の里織さんが見たものは、暗闇で右手に包丁を逆手に振りかざす母親の、鬼と化した姿だった。

健太郎君は、おそらく最初に首を絞められたことは夢か何かだと思ったのかもしれない。泣きもせず、そのまま寝入っていたことを考えれば、まさか母親が殺意を持ってした行動だとは夢にも思っていなかったのではないか。
健太郎君の胸にも深さ21センチの刺し傷があり、同じく失血死だった。

この、深さ21センチという刺し傷には相当な確定的な殺意が見てとれる。普通、愛している相手を殺害するとき、なかなか深くは刺せないものだ。だから浅い傷が何度もつく。あの新居浜の両親殺害事件でも、母親の背中には六ケ所の刺し傷があったが、いずれも致命傷ではなかった。
「母親だから、躊躇った」
そう、高平剛志受刑者は裁判で話していた。そう、躊躇うものなのだ。
まりえもためらった、健太郎君の首を絞めた時は。おそらく。
しかしまりえはそこで学び、殺害を確実のものにするために刺し殺すことを選んだ。

幸次郎さんの傷も浅くはなかった。両手に刃物を持ち、体当たりしたというその傷は、血気胸、横隔膜ならびに横行結腸損傷の傷を負わせた。

裁判所は弁護人の主張を受け、都立松沢病院の金子嗣郎院長に精神鑑定を依頼。
金子医師は、「まりえは気が強い半面、一人で悩みを抱え込んでしまう性格」とし、実母の急逝で心労が溜まっていたところに報道されたエイズ患者の死亡でディスコでのキスを思い出し、エイズではないのかという不安が「訂正不能な観念」にまで達し、善悪を判断する能力が著しく弱まっていた」と鑑定した。

検察側もそれを受けて、「エイズ妄想から精神耗弱状態にあったと認定するのはやむを得ない。しかし、耗弱状態とはいえ、短絡的な性格にも問題があり、結果を考えれば刑事責任は極めて重い」としたものの、それでも求刑は懲役8年だった。二人殺して、8年。うーん。

昭和63年7月28日、まりえに対し、懲役5年の判決が言い渡された。
裁判所は、心神耗弱を認めたが、心神喪失という弁護側の主張を退けた。
また、まりえが思い詰めてしまった要因の一つとして、エイズに関する社会不安(エイズパニックシンドローム)と、マスコミによるエイズの報道は無視し得ない、としたが、それは限定的に考慮されるにすぎない、とも述べた。

まりえは自身のちょっとした過ちをおそらく許せなかった。なによりも、自分自身を罰したかったのだろう。しかし単なる偶然だった自分と家族の体調不良によって、また、連日報道されるエイズ報道に恐れをなした。まりえにとってエイズは、遠くの人の話ではなく、まさに今家の中で起こっていることだったのだ。結果としてそれが壮大な勘違い、思い込み、妄想だったとしても。

まりえは逮捕後、どの段階で自分がエイズでないことを納得したのだろうか。まりえの言葉は報道されていないし、もしかしたらまりえは逮捕後も公判中も、エイズであるという思いが払しょくできなかったのかもしれない。

いや逆か、こうなったらなにがなんでもエイズでなければ困るのではないか。
そうでないなら、思い込みだったならば自分がしたことは頓珍漢どころの話ではない。その事実に耐えられるのだろうか。たかが口内炎で梅毒を疑い、その数年後に梅毒じゃなくてエイズだ!と思い込んでしまうような人間が、家族を皆殺しにしようとしたという事実を受け止めきれるのだろうか。

裁判長は、
「子供を愛していればこそ、選んではいけない道を選んでしまった。これからの人生は悲しみと後悔を背負っていかなくてはならない」
と説諭したという。

はたしてまりえは、その後生きて行けたのだろうか。

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参考文献
朝日新聞社 昭和62年4月30日東京夕刊、昭和63年7月28日東京夕刊
読売新聞社 昭和62年4月30日東京夕刊、5月1日東京朝刊
中日新聞社 昭和62年5月1日朝刊
毎日新聞社 昭和63年6月29日東京夕刊

ニュース三面鏡 エイズ妄想殺人の主婦、求刑へ
朝日新聞社 昭和63年6月27日東京朝刊

昭和63年7月28日/東京地方裁判所/刑事第9部/判決
昭和62年(合わ)80号
判例時報1285号149頁、判例タイムズ683号213頁

残念な家族~岐阜・嬰児殺害コインロッカー遺棄事件~

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昭和60830

暑い盛りの岐阜市。名鉄新岐阜駅はその日も多くの乗客や、隣接する新岐阜百貨店の客らで賑わっていたが、その百貨店の一階北東側のコインロッカーの周辺には警察官らの姿があった。

異臭がする、という通報で駆けつけた警察官がコインロッカーを開けると、そこにはビニール袋に包まれた嬰児の遺体が押し込められていたのだ。

嬰児は生後間もない男児で、へその緒が付いたまま。当然ながらすでに死亡、腐敗が始まっていた。

警察では生後間もなく殺害して遺棄されたとして、岐阜市内の産婦人科などに聞き込みをしたが、不審な妊婦や、出産したのに出生届が出ていないといった事案は見つからなかった。

しかし2年後、ひょんなことからこの事件が解決となった。そこには、登場人物全員残念としか言いようのない秘め事があった。

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