🔓解体途中で投げ出した女が残した、鍋の中身~交野市・夫バラバラ殺人事件~

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平成9年8月12日

大阪府交野市幾野4丁目。そのマンションでは、5月くらいから異臭騒ぎが持ち上がっていた。
生ごみのような、明らかに何かが腐敗しているようなその臭いは、3階の部屋から漂っていた。
この部屋の住人は、たしか夫婦だったはず。しかし、住民らは分譲マンションのその部屋で、夫婦の姿を1年ほど前から見かけなくなっていた。

マンションの自治会では、再三警察に相談するなどしていたが、当初は真剣に向き合ってもらえずにいた。夏になり、異臭は凄まじいことになり、ドアノブから合鍵を作り、それが出来た12日に警察官、自治会長がその部屋に踏み込んだ。

ドアを開けた瞬間、もうこれはただ事ではないとその場にいた全員が悟っていた。
凄まじい腐敗臭、それは浴室からのものだった。
浴室のドアを開けると、そこにはバラバラに解体された性別不明の成人らしき遺体と、のこぎりが放置されていた。

消えた夫婦

この3LDKの部屋には、アパレル会社勤務の圓山裕昭さん(当時52歳)とその家族が住んでいるはずだった。
圓山さんは1989年の3月にこの部屋を購入、夫婦とその娘の4人暮らしだったが、妻とは1993年の暮れに病気で死別。その後、1995年11月に再婚し、娘らが独立した後は夫婦二人暮らしであった。

警察では娘らにも当然連絡したが、「鍵が違っていては入れない。父親ともかなり長いこと連絡が取れていない」と話した。

男性は大阪市内のアパレル会社に勤務していたが、1996年の初めから無断欠勤になっていたため、会社は同3月で退職の措置をとっていた。
しかし、妻は近隣や知り合いに、「夫が東京に転勤になった、すでに夫は東京へ行っているが、自分は娘の出産があって一緒に行けない」と話していて、実際に引っ越し作業も行われていた。
4月末、「娘の出産を手伝う」と言ってそのまま妻もいなくなり、それ以降マンションの自治会費も支払われなくなっていた。

浴室にあった遺体は、死後1年以上経過しており、洗い場には切断された頭部、胸部、左足、右腕があった。腹部はほとんどがなく、遺体は腐乱して白骨化していた。
胸部には右腕と左足が重ねておかれ、そのわきに鋸が立てかけてあったという。
まるで、作業の途中で放り出したかにも思える惨状であった。
さらに、電気が止められた冷蔵庫の野菜室からも黒いポリ袋に入った内臓らしきものも発見された。

【有料部分 目次】
前科持ちの後妻
結婚生活と潜伏生活
とばっちりの男
嘘にまみれた女
殺害の動機
バラバラにしてさらに煮込む人々
犬の話と、怖い話

🔓妻を切り刻んだ男が持ち出した写真38枚~長野・青木峠母子バラバラ殺人死体遺棄事件~

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平成元年5月13日

その日、測量のために長野県本城村の青木峠に分け入った森林組合の職員らが、国道沿いの斜面に黒いビニール袋が投げ棄てられているのを見つけた。
不法投棄かと近づいてみると、破れた袋の隙間から頭髪のようなものが見えた。まさか、と思いつつ目を周囲に向けると、そこにはオムツ姿の男児があおむけで横たわっていた。
そして、その周囲には人間の胴体、手足などがバラバラの状態で散乱していたのだ。

切断された部位は全部で11。中にはパジャマらしき衣類の上から切断された部位もあった。そして、遺体の一部をくるんでいた新聞が、千葉県内で配布された「聖教新聞」だったことも発表され、遺体の足には修行で出来るタコがあったことから、被害者は創価学会の信者の可能性が高いとされた。
バラバラの状態の遺体の損傷は激しく、身元確認のため大々的な報道で情報が集められると、事件発覚から二日後、「船橋にいる娘と孫ではないか」という福島県在住の男性から情報がもたらされた。

被害者は船橋市在住の阿部アヤ子さん(当時40歳)と、長男の秀之ちゃん(当時2歳)であることが判明した。

【有料部分 目次】
行方不明の夫
ふたりのそれまで
幸せな生活からの、暗転
亀裂
清算という名の嘘

🔓鬼畜の宴~群馬・赤城村男性リンチ殺害事件~

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平成一四年四月二三日

「また行き会ったな。早く車に乗れや。」
早朝の群馬県渋川市の路上で、男性(当時三九歳)は男らに声をかけられた。
男性が躊躇していると車から男らがおりてきて、男性を押さえ込み、そのまま車に無理やり乗せられた。
車はそのまま市街地を離れていき、北群馬郡榛東村へと移動した。そこの路上で男性は男らにこう凄まれる。
「お前、俺に金を借りて渡すって約束したろ。嘘ついてねぇで今日こそ金作ってこい」
男性は過去に、男らのうちの一人に言われるがまま、消費者金融で借金をしてその金を渡していたことがあった。
ただ事ではないと悟った男性はその場をやり過ごし、前橋市内の消費者金融までついていった。
そこで、「二〇万で許してやる」と言われて消費者金融の窓口へ行くよう命じられる。
男性はそこで警察に通報し、難を逃れた。

しかし、男たちはこれより前に、ひとりの男性を激しいリンチの末に殺害し、山中に遺棄していた。

もう一つの事件


群馬県赤城村 樽(現在は渋川市赤城町)。
この地域で、平成一三年の春、ひとりの男性の姿が消えていた。
男性は島村昭二さん(当時四一歳)。父親と兄妹との四人暮らしだった。
島村さんはとび職や建設現場の作業員などをしていたが、安定した収入はなく、その時その時で職を転々としていた。
行方が分からなくなった後、当時乗っていた軽自動車が群馬県北群馬郡子持村(当時。現在は渋川市)で発見されていたが、足取りはつかめていなかった。

島村さんの行方が分からなくなってから一年半がたった平成一四年の暮れ、赤城村深山の山中で成人の遺体が発見される。
遺体は焼かれており、損傷が激しかったものの司法解剖の結果、島村昭二さんであることが確認された。
その後の警察の調べで、島村さんと同じ赤城村津久田在住の角田篤人(当時四八歳)、北群馬郡子持村中郷の解体作業員信沢藤利(当時四〇歳)、そして渋川市坂下在住のとび職七海幸一(当時三四歳)の三名が、島村さんの遺体を遺棄した疑いで逮捕された。
逮捕当時、角田は別の窃盗の罪で金沢刑務所に服役中の身であった。

島村さんとこの男たちはどうつながっていたのか。
そして、なぜ島村さんの遺体を遺棄したのか。調べが進むにつれ、そして裁判が始まると、その凄惨極まりない所業が明らかになっていった。

【有料部分 目次】
男たちの素性
捕獲
カタツムリ
あいつ生かしといても仕方ねぇべ
なぶり殺し
何かが欠落した人々
ハエみたいなやつ

暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件~

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平成26年5月30日

神奈川県厚木市下荻野のアパートに、警察官に連れられた男の姿があった。
男は警察官に促されて自室のアパートの玄関を開けた。
室内は真っ暗だったが、それでもゴミだらけの凄まじい状態であることは一目瞭然、カビとも腐敗臭ともつかない異様な臭いがたちこめていた。

警察官らが室内に入るのを横目に、男はその場に立ちすくみ、額から汗を滴らせている。

室内奥の六畳間を開けた警察官らは、にわかに騒がしくなった。
ゴミをかき分け進んだ6畳間の布団の上で、小さな小さな白骨遺体が発見されたのだ。

男はその部屋に住んでいた斎藤幸裕(当時37歳)。トラックの運転手をしていた。
その年の3月、厚木児童相談所が所在のつかめない児童を掲載したリストの一斉点検を行ったところ、小学校に入学していない男児の存在が明らかになったことで、父親であり、該当の住所に住んでいた男のアパートを警察が任意で調べることになったのが事件発覚のきっかけだった。
白骨遺体は、幸裕の長男で所在不明になっていた斎藤理玖くんだった。所在が不明になってから10年近くが経過し、さらにはいつ死亡したのかもわからなかった。

「誰も知らない」

幸裕と理玖くんがどうやらこの部屋で生活していたということは分かったが、二人がなぜ、二人暮らしになり、なぜ、理玖くんが死亡したのか全くわからずにいた。
事実として、幸裕はその時点で妻(理玖くんの母親でその時点では所在不明)がおり、別の女性と数年にわたって別のアパートで同棲していること、トラック運転手という仕事を持っていること、その上で、この厚木のアパートの家賃を今の今まできちんと払っているということだった。

そして、驚くべきことにある時を境にして、このアパートで幼い子どもと父親が二人で暮らしていたことを、誰も知らなかったというのだ。そして、それは10年間発覚することはなかった。
あの是枝裕和監督作品で有名な「誰も知らない」という映画、あれも実際に起きた巣鴨での4姉弟妹置き去り事件を題材にしたものだが、あの4人はある程度年齢がいっており子供ながらに知恵を出し合うことも可能で、外出することもある程度は可能だった。一番下の妹が、外の世界とつながった兄とその友人らによって暴行されて死亡する結末(映画では不慮の事故、みたいに描かれていたが、実際は兄とその友人らによる激しい暴行の末の死)とはなったが、少なくとも餓死はしていないし、その暴行事件がなければだれも死なずに済んでいたかもしれない。
この厚木の事件の場合は、たった一人でしかも自力では絶対に生きていけないレベルの年齢でのことで、普通に考えれば悲惨な結末しかないというのは明らかだった。
報道では当初からこの父親のあきれ返るほどの無責任、無知がクローズアップされ、可愛らしい理玖くんの写真が見る者の涙と怒りを増幅させた。
自身は新しい女を作って家を空け、理玖くんを邪魔者扱いして放置し餓死させた、事実から見ると確かにそうだが、調べていくと、そして実際に幸裕に取材をしたルポライターらの著書を読むと、いささか見える風景が変わってくる。

幸裕は、理玖くんを邪魔に思っていたのか。死んでしまうかもしれないという結末が見えていたのか。死んでもいい、と思っていたのか。
そして、10年間も理玖くんの存在が周囲にわからなかった、そんなことなんてあるのか。その原因はなんだったのか。

子どもの事件や貧困、虐待に関する著書も多いルポライターで作家の石井光太氏、大阪2姉妹遺棄事件の取材で有名なフリールポライターの杉山春氏、この両者の、幸裕本人への面会や丁寧な取材によるルポをもとに、見えてくる父子の姿、10年間を私なりに考えてみた。

破綻まで

理玖くんが生まれたのは、2001年の5月30日。その時すでに事件現場となったアパートに、幸裕とその妻は暮らしていた。
幸裕は当時23歳と若かったが、運送会社に勤務しておりおよそ20万円から25万円程度の収入があったという。妻は当時二十歳。若いながらも、親子三人での暮らしを成り立たせようと当初はしていたようだ。
しかし、結婚前から幸裕は気に入らないことがあると手を挙げることがあった。これは後述するが、妻によれば「酷いDVであり、自分は怖くてたまらなかった」らしいが、幸裕に言わせると少し違う。
少しずつ綻びが見え始めた2002年の年末には、「経済的な理由」から、妻が幸裕には内緒で風俗店に勤務するようになった。
幸裕からは月に5~10万の生活費を渡されていたというが、妻によると生活には困窮していたという。
それをカバーするために選んだのが風俗というのは突飛な気もするが、ともあれ託児所付きのその風俗店で妻は午前10時から深夜まで働いた。

幸裕も、仕事で帰宅が深夜になるため、そういった妻の生活に気づかなかった(わけはないか)、もしくは無頓着だったのか。
いずれにせよ、夫婦の関係は悪化の一途をたどり、2004年の秋頃にはもう修復不可能な状態に陥っていた。
そして10月7日の未明、アパート付近の路上をオムツに赤いTシャツで裸足の理玖くんが泣きながら歩いているのを近隣の人が発見、警察が保護して午前8時ころに厚木児童相談所が幸裕に連絡した。
仕事中の幸裕から連絡を受けた妻は、2時間ほど後に理玖くんを迎えに赴いた。その時はしきりに反省の弁を述べ、夫に任せて外出していたと言った。
対応した児相がアホ過ぎたため、この時の一件は「迷子」で処理されてしまう。ありえん。
しかし、その日の午後、幸裕が仕事から帰ったのを見計らうかのように、妻は「買い物してくる」と言って家を出、そのまま戻らなかった。
私の知り合いでも10年位前から豆腐を買いに行くと言ったまま帰宅しない妻を持つ夫がいるが、これではおちおち買い物にも行かせられない。

待てど暮らせど帰ってこない妻に、幸裕は何度も連絡をつけようと試みたというが、妻とは一切連絡が取れなかった。

若い二人の結婚生活は、この日事実上破綻した。

「これからは二人だから」

幸裕は幼い理玖くんを自分一人で育てると決めた、というより、そうする以外の選択肢を知らなかった。
実家は経済的に迷惑をかけていたこともあり、また、相談すべき先も幸裕の頭の中にはなかったのだ。
幸い、普通の収入を得ることが出来るトラックの仕事はあった。理玖くんにはさみしい思いをさせるかもしれないが、幸裕は何とかなると考えていた。

「これからは二人だから。二人で生きていこうね」

幼い理玖くんと向き合い、そう話したと幸裕は言う。
もちろん、世の中にはこのような父子家庭は山ほどあり、しかも父親がきちんと仕事を持っているとなれば、ハードルはあるものの何とかやれそうに思うのだが、それは「普通の感覚」をもっている常識的な人間にしか当てはまらない。

幸裕は、「なんとかなる」ということをいつも漠然と思っていたようだった。

しかしその「なんとかなる」は、私たちが想像もできないようなことを平気でやってのける上での「なんとかなる」であったことが裁判の過程で明らかになっていく。

普通、幼い子どもがいて自分しか養育者がいない場合、仕事をする時間帯はどこかに預けなければならないと考える。片親の場合は保育所への入所も、両親のいる子供に比べればポイントが高い。
そこが無理でも、託児所などを探す、とにかくどこかに預けなければならない、ということは誰でも理解できることだし、避けて通ることのできない部分である。
幸裕はそれをすっ飛ばした。というか、「家においておけば問題ない」と考えていた。保育園については一応考えたものの、送迎が出来ないことで無理だと思った、という。もちろん、相談などはしていない。

迷子事件から学んだのか、幸裕は家中のカーテンを閉め、外からは中が窺えないように細工した。
さらに、理玖くんがいる和室の戸に目張りをして、理玖くんが開けられないようにもした。とにかく、幸裕からすれば理玖くんが家の中にさえいれば、安全だと思っていたのだろう。それを世間では放置、虐待と呼ばれることもおそらく理解できていなかった。
食事は、仕事の日は昼以外の朝と晩の2回。休みの日は普通に3度の食事。ただし、自炊などをしない幸裕が理玖くんに与えるのは、コンビニのおにぎりや総菜パンなどだった。幼い理玖くんでも自分で持って食べられるからだろう、幸裕自身は弁当の時も、理玖くんはパンかおにぎりだった。
それ以外の育児は、オムツ交換、お風呂、月に1~2度の外出などだったという。

経済的にはどうだったろうか。
トラック運転手として20万円以上は手取りがあったというが、妻が出て行ってからはそれまで妻がしていた公共料金の支払いなどを失念したり、払えないことなどがあったようで電気、ガスはすぐに供給停止となった。
普通は、こうなる前に、いや1万歩譲って最悪停止されてから急いで払いにいく、となる。ガスは人によっては後回しになるかもしれないが、電気が止まれば相当困ったはずだ。支払いも、コンビニなどで24時間可能だ。

しかし、幸裕は電気が止まっても料金を払うよりも「そのままの生活」を選択した。
この話を聞いたとき、ふと誰かが言った「脳は三日で慣れる」という言葉を思い出した。
脳は順応性が高く、たとえ天地がさかさまになったとしても3日あれば慣れる、といった話で驚いたのだ。
だが、この幸裕のとった行動を見ていくと、おそらく幸裕は私たちよりもそのことをよく理解し、というか、これまでに嫌というほど経験してきているのだろうなと思った。事実、幸裕は暗闇での生活を裁判で聞かれた際、「暗かったけれど慣れれば理玖がどこにいるのかはわかった」と平然と答えている。
ていうか、そういうことを聞かれたわけじゃないんじゃないかなー、と思わなくもないが、とにかく幸裕にとって暗闇での電気がない生活、子育ては「成立」していたのだった。

この、私たちには考えられない驚異の「慣れ」はどうやって身に付いたのだろうか。
そのカギは、幸裕の子供時代に隠されていた。

 

🔓暗闇で「やったつもり」の育児の果て~厚木・男児死体遺棄事件②~

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幸裕の幼少時代と、家族

幸裕が生まれたのは1978年で、私とほぼ同世代である。一部上場企業の工場で勤務する父親と、専業主婦の母親。年子の妹と4つ下の弟という、その時代の主流ともいえる家庭がそこにあった。
当初は横浜の鶴見区で暮らしていた一家だったが、幸裕の小学校入学に合わせるかのように神奈川県愛川町に誘致された系列会社の工場に父親が勤務することとなって、一家は引っ越してくる。

まだまだ好景気だったその時代、次々と工場が誘致され、そこに働く人々のために大きな団地も次々と建設されていった。
その時代、今よりも一家の大黒柱と家庭を支える妻の役割ははっきりしていて、男は外で仕事、家庭や子育ては妻、というのは当たり前だった。もっとも、会社としてもよほどのことがなければ終身雇用は当たり前、家族への手当ても充実していた。だから、妻らは余裕をもって専業主婦になれたのだ。
斎藤家も同じで、3交代で勤務する父親にはそもそも子育てに深く関わったり、家事を手伝うなどといった考えはなかったし、現実的でもなかった。
そんな中で育った幸裕だったが、父親との記憶はほとんどない。それでも友達も多く、外で元気に遊ぶ幸裕は弟や妹との関係も良く、大きな問題などはないように見えた。

その生活が暗転したのは小学校6年生の時だ。

【有料部分 目次】
もう一人の保護責任者
「だって仕事があったんですよ!」
懲役19年
殺人罪からの、保護責任者遺棄致死
発覚が遅れたのはなぜか
紙吹雪

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