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平成3年5月25日
足立区花畑の第四都営アパート付近で、必死で何かを捜している女性がいた。
女性が捜していたのは、飼っていた一匹の猫。朝から行方が分からなくなっていたのだ。
どれくらい捜したろうか、女性はいったん自宅アパートへと戻った。
狭いアパートの三畳間にいた父に対し、「猫を捨てたでしょう!!」と詰め寄った。
老齢の父親はあいまいな返事に終始し、女性の苛立ちは頂点に達した。
女性は、父をその拳で殴りつけ、そして、目に留まった空のビール瓶を手に取った。
事件概要
平成3年5月25日、綾瀬署に女性の声で通報が入った。
「自宅で父が死んでいる」
駆け付けた綾瀬署員が部屋に入ると、三畳間においてこの家の主で、通報者の父親である高橋功さん(当時60歳)が倒れているのを発見。すでに死亡していた。
綾瀬署は、通報してきたこの家の長女で無職のあおい(仮名/当時23歳)に事情を聞いたところ、父親と口論になって殴りつけたと話したことから、あおいを尊属傷害致死の疑いで逮捕した。
あおいや家族らの話によれば、この日高橋家で飼っていた猫の姿が見えなくなったことで、朝からあおいと母親が周辺を捜していたが見つからず、冒頭の場面の通り帰宅して父に問いただした。
実は功さんは猫が嫌いだったといい、以前にも猫を勝手に捨てていたことがあったからだ。
その後、口論となったあおいと功さんだったが、あおいが一方的に手や物を使って殴り、功さんを死亡させた。
功さんは頭部、胸部、腹部など体中を殴られており、多発性肋骨骨折に加え無数の皮下出血の傷を負っていた。死因は多発性肋骨骨折による呼吸障害と、広範囲の皮下出血がもととなった外傷性ショック死だった。
家族のそれまで
昭和6年生まれの功さんは、妻・広江さん(仮名)と結婚後、昭和42年にあおいが、昭和44年には長男・康介さん(仮名/当時21歳)が生まれ、家族4人で生活していた。
あおいが生まれた当時は岩手県水沢市で生活しており、その後、東京へと上京したようだった。
あおいが高校を卒業した昭和61年ころまでは、特段大きな家庭の変化はなかったようだが、昭和62年、広江さんが交通事故に遭う。
一命は取り留めたものの、頭部に大きな怪我をしたことから記憶障害等の後遺症が残ることになってしまった。
当時、大学受験のための浪人生活を送っていたあおいは、そんな母の様子を見て、漠然とではあるものの、この先家事など家庭内のことは母に代わって自分が担わなければならない、と考えていた。
受験勉強の傍ら、日本料理店などでアルバイトをし、意思の疎通がうまく図れなくなった広江さんの世話などもあおいが担当していた。
長男の康介さんも、かなり内向的な性格だったといい、この頃はほとんど家の中から出ない、そういった生活ぶりだった。
ただ、この時点ではまだ功さんが現役で働いていたこともあり、家庭内には外の風も持ち込まれ、なんとか社会とのつながりも保てていたようだ。
しかし平成3年、功さんが退職して以降、高橋家には不穏な空気が立ち込める。
もともと仲が良くなかったあおいと功さんが顔を突き合わせている時間も増え、一方で母親と長男は意思の疎通もままならない状態ということで、あおいの負担もおそらく増えていたのだろう。
しかも康介さんは猫を拾ってくる癖があった。猫好きというわけではなく、拾ってきてしばらくはかわいがるものの、そのうち飽きて、時には虐待のようなことまでしていた。この時、猫の数は7匹にまで増えていた。
あおいは、そんな猫を弟から取り上げ、世話をしていたという。この頃、あおいの中では、「猫のようなか弱い動物の命はどうしても自分が守ってやらなくては」といった考えが生まれていた。
ただ、その優しさは、度を越していた。
あおい
あおいは小学生の頃から内向的な性格だった。感受性が強いというのか、周囲の言葉や態度に敏感に反応し、非常に傷つきやすい子供だったという。
その性格は成人しても変わらず、常にいじめの対象となり、また、他人から妬まれて嫌がらせを受ける、周囲が自分を傷つけようとしていると話していた。
が、実はこれはどうやらあおいの「何事も被害的に受け取りやすい」という性格が思い込ませた節があり、実際には単なる注意や指導までもが、嫌がらせ、いじめであると受け止めていたようだった。
高校生の頃、男子生徒からデートの誘いを受けたあおいは、なんとそれを「自分を侮辱している」と受け止めた。そして、担任教師に告げ口しかなりの騒動を引き起こしたことがあった。
とにかく自分の身の回りに起きることはすべて、自分を傷つけようとしている、貶めようとしているといった極端な被害妄想を割と早い段階からあおいは抱えていたとみられた。
それは母、広江さんへもむけられ、弟ばかり可愛がってあおいのことはむしろ傷つけようとしている、そんな風に思っていたという。
事件後、弁護士に対して出した手紙でも、母親と弟との関係を「異常なまでの執着を持って」書き綴ったという。
また、幼い頃から独り言も多く、高校卒業からはさらにひどくなってその症状は事件当時も治まっていなかった。歯磨きに1~2時間は当たり前、入浴や洗濯に半日を要することもあり、強迫様症状も認められた。
そう、あおいは精神的に全くの健康とは言えなかった。
ただ、あおいを鑑定した医師の診断によれば、この症状だけをもって統合失調症であるという判断は出来ないという。あおいには、幻覚や解離症状、思考障害といった統合失調症に欠かせない(?)症状は乏しかったのだ。
もちろんだからといって正常とはいえず、むしろ統合失調症に極端に近い境界線上、と診断された。
あおいは、家族に対してはぎょっとするほど強い言葉などで非難する一方、自身については「我こそが正義」という確信を持っていた。裁判ではこのあおいの独善的な考え方は「常軌を逸している」と評されるほどだった。
尊属傷害致死
この事件が起きたのは平成に入ってからのことであるが、この時点ですでに尊属殺は違憲である、という判断は下されていた。が、違憲ではないとする意見もあったことで、刑法から条文を削除するということまでは行わず、いわば裁判所の裁量で通常の殺人と同様の刑の範囲で裁く、そういった運用がなされていた(詳細)。
この足立の尊属傷害致死事件についても、罪状は尊属傷害致死であり、裁判所としてはその運用について、当時のあおいの精神状態を注視するということで尊属傷害致死と通常の傷害致死との刑の均衡を図ったように見受けられた。
弁護側はあおいが事件当時、心神喪失であったとして無罪を主張したが、上記鑑定などから裁判所は心神喪失の訴えは退けた。
鑑定の結果以外でも、あおいは事件後、父の様子がおかしいことに気付くとすぐさま警察に通報、自らの行いもきちんと警察官に述べていたことや、暴行に使用したビール瓶のラベルに血がついていたことで、後に返却する酒屋に迷惑がかかるとしてラベルを剝ぐなどの行動もしていた。
このような点で、善悪を弁識する能力が喪われていたとは言えない、としたのだ。
が、一方であおいの極端に被害妄想的な性格や、強迫様症状、事件後においてもなお、父親を死に至らしめたその事の重大さよりも猫のことばかり気にするなど、弁識能力を疑うには十分だった。
尊属傷害致死事件であり、懲役3年以上無期懲役というのが刑法第205条2項であるが、心神耗弱で減刑というのが裁判所の判断となった。
平成4年3月25日、東京地裁はあおいに対し、心神耗弱を認め懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡した。
閉ざされた家族
裁判所は、あおいの精神状態のみならず、この高橋家という家族についても言及していた。
あおいと功さんの折り合いが昔から悪かったことは先にも述べたが、単に口を利かないとか、そういったレベルではなかった。
あおいは小学生の頃から、父親である功さんに暴力を振るっていたのだ。
それはあおいの成長とともに激しさを増し、手拳での殴打にとどまらず、物を使っての暴行へと変わっていく。
事件直前にも、功さんが扇風機を処分したことが気に入らないという理由で、あおいは功さんを空きビール瓶で殴るなどの暴行を加えていた。
当の功さんは、そんなあおいの暴力にどう対処していたのか。
功さんはなぜか、そんなあおいの理不尽な暴力に抵抗することはなかったというのだ。
しかもその暴行は数時間に及ぶこともあり、事件があった日の暴行も、3時間に及んでいた。
にもかかわらず、口で言い返すことはあっても、功さんが力であおいをねじ伏せるようなことはなかった。
同居の母、広江さんと弟の康介さんは、そんな父娘の姿をどう感じていたのか。
実はこの二人にも、問題と言っていいかどうかは別にして理解に苦しむ面があった。
広江さんは交通事故の後遺症で意思の疎通がなかなかうまく図れないという事情はあったが、事故に遭う以前から、あおいの父親への暴行を止めたり、諫めるといったことはしていなかった。
事件当日も広江さんはあおいとともに猫を捜していたが、家に戻ったあおいが功さんに暴行を振るっている場面にも居合わせている。しかしこの時も、広江さんはぼうっとそこにいるだけだった。そして、救急車を呼んでほしいと懇願する夫を放置し、あおいとともに再び猫を捜しに出かけた。
康介さんも同様だ。事件があったその瞬間、康介さんも在宅していた。狭い都営アパートの中で、ふすまの向こうの暴行に気付かないわけはなかったが、止めることはおろか、あおいと広江さんが再び猫を捜しに外出したのち、苦悶にあえぐ父、功さんのうめき声を聞きながらなんら救護措置も取らなかった。
結果論ではあるが、もしもあおいが外出した後すぐに救急車を呼ぶなどしていれば、功さんは死亡しなかったかもしれない。しかし功さんの大切な家族は誰一人として、功さんを救おうとはしなかったのだ。
裁判所は、この事件とその結果は、「このような家族が情緒的な結びつきもなく狭い都営アパートの一室に閉じこもるようにして暮らしていたという異常な家庭環境と密接不可分に発生したと考えられる」としている。
おそらく一家のことは、都営アパートの中でも気にかけた人は少なからずいたようで、近くの教会の女性があおいに対して援助を申し出、高校時代の恩師もまた、同じ申し出をしたという。
このような近隣の人々らの支えも、裁判所があおいを社会の中で更生させようという判断を後押ししたとみられる。
保護観察付きの執行猶予を得たあおいは、刑務所に行かずには済んだ。が、裁判の時も、彼女の心を占めていたのは、残された母と弟への呪詛と、いなくなった猫の行方だった。
彼女がその後、どう暮らしたのかは知る術はないが、幼い頃から抱えてきた彼女の心の病はケアされたのだろうか。
溢れ出る憤怒を受け止め続けてくれた父は、もういない。
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読売新聞 平成3年5月26日東京朝刊
平成3年(合わ)176号 尊属傷害致死事件 東京地方裁判所刑事第11部