同・窓・会~千葉大原町・不倫殺人事件~

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昭和62年6月

千葉県の海辺の小さな町で、中学校時代の同窓会がひらかれた。
25年経って再会したかつての級友らは皆、いい意味でも悪い意味でも年を取り、参加した元級友が昔ばなしに花を咲かせた。

「姿かたちは変わっても、あっという間にタイムスリップできちゃうんですね」

後に、この同窓会に参加したある出席者は週刊誌の取材にこう答えていた。
この同窓会から8か月後、女と男は殺人犯になった。

事件の夜

昭和63年2月18日夜、大原町(現・いすみ市)の会社の事務所の一部が焼け、焼け跡から男性の焼死体が発見された。
焼死体の身元は、同社専務の菅野泰夫さん(仮名/当時39歳)と判明、直前まで一緒似た妻の話から、深酒して寝入っていた泰夫さんがストーブの火を消し忘れたことで火災になった、とみていた。

泰夫さんはその日午後5時前には会社から自宅へと戻っていたが、妻にパソコンの操作方法を教えるためにふたりで事務所へ戻っていたという。
午後10時を回ったころ、明日学校で子供が使う乾電池を買わなければならなかったことを妻が思い出し、自宅へ戻って子供と近くのコンビニへ行っていたその間に、火が回ったと考えられた。

自宅で火災の一報を聞いた妻は、子供たちを連れて現場へ戻ると、火に包まれた事務所を見て半狂乱となった。
「中にヤッちゃんがいる!」
そう言って妻はそのまま気を失ってしまった。

火災から3日後に大原寺で営まれた泰夫さんの葬儀では、およそ700人の参列者が突然の死を悲しんだ。
泰夫さんの高2の長男が、「父の死を乗り越えて頑張ります」とあいさつをした際にはすすり泣きが漏れた。夫を亡くした妻も涙をこらえきれず、周囲の人の支えなしでは立っていることもままならないほどの憔悴であった。

泰夫さんは子煩悩で、人との付き合いもそつなくこなすとその人柄は定評があった。
立派な会社の専務という肩書、高2と小4の子供、美しい妻に囲まれ、働き盛りの39歳で突然の悲劇に見舞われてしまったあまりに悲しい事故だったが、その告別式のさなか、大原署には戦後初となる「捜査本部」が設置されていた。

司法解剖の結果、泰夫さんには致命傷ではないものの、殴られたような傷があったのだ。

夫婦の裏の顔

泰夫さんは長野県生まれ。高校卒業後、千葉県にあるデパートに就職し、そこで後に妻となる女性と知り合い、昭和44年に結婚した。
妻の実家の家業を継ぐことも視野に入れた、婿養子だった。

妻の家は昭和31年に設備保守点検などを請け負う会社を設立、その後順調に成長し、昭和51年には事件当時の社名に変更、この頃には泰夫さんも将来の後継者として仕事に携わっていたとみられる。

妻はずっと地元で育ち、また実家が会社経営をしていたことからもおそらく、経済的には恵まれた環境で育ったのだろう。
そのせいもあるのか、地元での妻の評判は芳しいとは言えないものがあった。
さほど大きな街でもない地元においては噂話はかっこうの娯楽である。その中でも、男女関係のうわさ話は面白おかしく尾ひれをつけて町中を駆け巡った。

この妻も、男女関係では話題に事欠かなかったと言い、泰夫さんと結婚後も様々な男女関係の噂が囁かれていたという。

夫である泰夫さんも、人当たりが良く子煩悩、という良い評価がある一方で、夜の街では有名だった。
とにかく酒好きだった泰夫さんは、飲み歩くことのほかにゴルフにも目がなかった。
会社の専務ということ、将来の後継者ということで接待や付き合いの場も多かっただろうが、それでも社長である義理の父親に叱られるほどだったというから、相当なものだったことは間違いなかろう。

事実、事件の2年ほど前にはあまりにも会社の金を使い過ぎるということから、妻と義理の父親に勝手に会社の金を使うことを禁じられていた。

そんな中で、泰夫さんにはある悩みがあった。

それは、妻の男性関係のことだった。

同窓会の夜

妻は40歳になった年、地元では恒例の同窓会に出席していた。
男性にとっては本厄の年でもあり、全国各地ではこの40歳の節目に同窓会を催すところは少なくない。

泰夫さんは、6月に開かれたその同窓会に出た直後から、妻の様子が変わったことに気付いていた。
妻には実は前科があった。4年ほど前、妻が事故に巻き込まれたと泰夫さんに連絡があったが、その際、妻の車には男性の姿があった。
その交際相手が暴力団関係者だったこともあり、事故後妻と泰夫さんは恐喝まがいのことをされたという。
詳しい話は分かっていないが、おそらく、事故の後遺症だとかそういったことを持ち出し、加えて不倫だったことを口実にされたのではないか。
その件は、泰夫さんが多額の金を支払って終わらせたという話があった。

その頃、妻は出かける際に嘘の口実を作っていたわけだが、同窓会の直後から再びその時と同じ口実で妻が出かけるようになったという。
ピンときた泰夫さんは、事件当日の昼間、妻を尾行する。
車で出かけた妻は、とある場所で車を降りると、そこへやってきた別の車に乗り込んだ。
運転手は、男性だった。しかも、その男性を泰夫さんは知っていた。

ふたりが乗った車を尾行すると、車はモーテルへと滑り込んだ。泰夫さんは3~4時間待ったという。
そして、ふたりが再び車で出てきたところに立ちはだかったのだ。

妻と一緒にいたのは、妻のかつての同級生の男だった。泰夫さんは以前、自宅で開いたBBQパーティーの際、この男がいたことを思い出していた。
怒り心頭の泰夫さんは、ふたりを問い詰めるため、そして今後に向けての話し合いをするため、会社へ来るよう言い渡し、午後7時ころから会社の休憩室で3人は話し合ったという。

そこで何が起きたのか。

売り言葉に買い言葉で、不倫相手の男が泰夫さんを殴って死なせた、のか?
そして証拠隠滅のためにとっさに火をつけたのか?

実際には、泰夫さんの運命はこの日よりずっと前に決まっていた。

妻と不倫男

大原署は昭和63年3月9日、泰夫さんを殺害し、建物に放火したとして妻の亜沙子(仮名/当時40歳)と、その不倫相手で塗装会社社長の笠原良寛(仮名/当時40歳)を逮捕した。

笠原は同じ町内に住んでいて、妻も子もある立場であり、亜沙子との関係はW不倫だった。

調べでは、ふたりの交際は同窓会をきっかけに始まったが、深い関係となったのはそれから半年後の昨年末のことだったという。
そしてその頃には、ふたりの間で泰夫さんを亡き者にする計画が練られていたのだ。

亜沙子と泰夫さんの夫婦仲は、それぞれが好き勝手に生活していたこともあって冷え切っていた。
もちろん、亜沙子の過去の不倫問題もその大きな要因の一つだった。
冷え切った家庭を忘れるためか、亜沙子は頻繁に笠原に連絡を取ったという。
そして会話の中で、こんな話をした。
「夫が酒によって暴力を振るう」
実際に泰夫さんがDVをしていたという話は出ていないが、すでに冷え切った関係上、また、亜沙子の男性関係を問いただすうちに、手が出たことはあったかもしれない。

それを笠原はどうやら真に受けた。

笠原は知り合いの暴力団員を頼り、金を握らせて泰夫さんに危害を加えることを依頼。
亜沙子からは泰夫さんに8000万円の生命保険金がかかっていることも聞かされていた。
ふたりは寝物語で、「保険金が入ったらリゾートホテルを買おう」などと話していたという。
暴力団員には、笠原が150万円、亜沙子が無断で持ち出した会社の金150万円の合計300万円が支払われていた。

ところが当の暴力団員は、ふたりの話を全く本気にしておらず、金だけ受け取って泰夫さん殺害に動くつもりはなかった。
事故死に見せかけて殺害してほしいと持ち掛けていた笠原と亜沙子は、たびたび暴力団員に泰夫さん殺害の催促までしていたという。
ここで「金をだまし取られた」と警察の駆け込んでくれればあの憐れな消防署の女の話になってしまうが、ふたりはさすがにそこまではせず、とにかく早く殺してくれ、成功報酬も払う、と言って暴力団員をせかすのみだった。

そんな中で、逢瀬を楽しんだ二人に冷や水を浴びせかけた泰夫さんの登場。

もう、ふたりは待てなかった。

13年と、7年

平成3年4月23日、千葉地裁で二人に対する判決公判が開かれた。

起訴状によれば、ふたりは交際が泰夫さんの知るところとなったうえに、高額の慰謝料を請求されたことから、会社の休憩室で酒に酔って寝入った泰夫さんをゴルフクラブで殴ったうえ、室内に灯油をまいて火をつけ、焼死させた、とされた。

笠原は事実を認めていたが、亜沙子は一貫して否認していた。
亜沙子の言い分はあくまで、「150万円は笠原に対し貸したもの」であり、泰夫さんを痛めつけてほしいとは思ったけれど殺害までは頼んでいない、として、さらには実行の際現場にいなかったことを挙げて泰夫さん殺害は笠原の単独犯であることを主張した。

たしかに、泰夫さんを殴り、事務所に火を放ったのは笠原で、それは本人も認めていた。
しかしその前段階として、泰夫さんを殴った際に亜沙子もそこにいたようなのだ。
ただこれは致命傷ではないため、これだけならば亜沙子が言うように「痛めつけるつもり」ということだった、ともいえる。

しかし、泰夫さんが深酒で寝入った後、亜沙子は灯油を事務所内に運び入れ、さらには火のついたタバコを事務所の畳の上に転がしているのだ。

酒に酔って寝ている人間のそばに、火のついたタバコを転がす。これだけでも十分殺意を見て取れる気がするが、この時は失敗に終わっている。
畳に火はつかず、亜沙子はこの時点で一旦家へと戻っていたのだ。
亜沙子がいなくなったあと、笠原は一人事務所へと戻った。そしてそこで泰夫さんの頭部をゴルフクラブで殴りつけたうえ、周囲に灯油をまいて火を放ったのだ。

泰夫さんを殴ったゴルフクラブは、笠原の供述通りの場所から二つに折れた状態で見つかった。

以上のことから亜沙子の弁護人は、亜沙子と笠原の間に共謀性はないと主張、殺人については笠原が暴走した結果であるとし、おそらく無罪の主張だったと思われる。

千葉地裁の上原吉勝裁判長は、笠原に対し懲役13年(求刑懲役15年)、亜沙子には求刑13年だったところをその半分以下の懲役7年とする判決を言い渡した。

新潮45でこの事件をまとめた駒村吉重氏によれば、求刑の半分以下の判決ということは、ある程度亜沙子の主張は認められたとみていい、と述べている。
一方で弁護人は、「共謀性がなかったことが認められなかったのは遺憾である」として控訴していることを見れば、殺害の実行犯でもなく、さらにはその場にもいなかった亜沙子が直接手を下した笠原と同罪とは言えないまでも、夫殺害を計画し、共謀したという点での懲役7年であり、まぁ、そんなもんなのかなとも思う。

このように、不倫のはてに邪魔になった人間を殺害する男女はいつの時代にもいて、このサイトでも東京の教師の事件や本当の狙いが違うとはいえ、長崎佐賀連続保険金殺人、そしてあの茨城のレンタルビデオ屋の事件などは性質として似ている。
ただあちらは、被害者となった夫が全く事実を知らず、かつ、ひよこみたいな童貞の若い不倫相手に夫の暴力を訴えて殺害を決意させたと思われてもおかしくない被害者の妻は、逮捕すらされなかった。

おそらく泰夫さんにかけられていた保険金を手にすることは出来なかったろう亜沙子は、出所してどこへ戻ったのだろうか。
「何でも思い通りになると思っている」
亜沙子を知る町の人は、亜沙子をそう評した。
亜沙子の父親が経営する会社は、名前が知られてしまったからか、事件直後の昭和63年には社名を変更。その後も同じ業界でこちらは順調に現在も経営を行っているが、そこには泰夫さんの姿は当然、ない。
ただ、その後も同じ苗字の人間が代表職に就いていることから、一家は事件後も離散することなく、家業を守り抜いていることがわかる。

実行していないとはいえ、自身の不倫相手に夫を殺害させた娘を、父親は受け入れられたのだろうか。父親を殺された子供たちは、母親を受け入れることができただろうか。

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参考文献

毎日新聞社 昭和63年2月21日東京朝刊、3月9日東京夕刊
朝日新聞社 昭和63年3月30日東京朝刊、平成3年4月24日東京地方版/千葉

密会を目撃され「同窓会不倫」相手に旦那を焼き殺させた美人妻/ 駒村吉重 著/ 新潮45 平成20年8月号

🔓嗤う霊能者~酒田市・男性傷害致死死体損壊遺棄事件~

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平成13年9月20日午前4時

秋田県由利郡象潟町の原野で女がひとり佇んでいた。
しばらくすると、女は自分が乗ってきた自動車に火を放ち、立ち去った。

「一緒に死のうと思ったが、死にきれなかった」

後に女はこの時の心境をこう供述している。
女が火を放った自動車には、女が長年連れ添った夫の遺体が載せられていた。

【有料部分 目次】
事件
横山家
狂気
長男の妻と、山形の女霊能者
やるせない結末
思い出の原野

特集:🔥4つの家族の事件簿🔪

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家族とは。

読者の皆さんは、どんな家族を持っていますか。
幼い頃から不遇な生活を送り、お世辞にも恵まれていたとは言えないけれど、精神的には家族のことが好きだという人、一方で経済的な問題はなくとも、寒々とした家庭しか知らずに来たという人、その両方を良くも悪くも兼ね備えた人。

私は今でこそ家族とのつながりは良好ですが、幼い頃を母親となった今振り返ると、経済的には非常に恵まれていましたが私の両親は毒親であったと言えます。

後期高齢者に差し掛かった両親は、今ではそれを悔いているところもあるようですが。

しかし事件が起こる過程というのは、すべてがそのように膿を抱えている家庭ばかりとも限りません、ある意味、健康であったはずの家庭のほうが、耐性がないというのか、崩れるときはあっという間、ということも。
良き母親が、良き父親が、何かのきっかけで子を道連れにしてしまう、あるいは、家族を思うがあまりに暴走してしまう、そういったケースは少なくありません。

家族のうちの誰かの心の闇が、ほかの家族を巻き込むケース、そこには思い込みや親子一体、言ってしまえば自分勝手な動機が介在していることもあります。
しかしもうその時は、それしかないと思い込んでしまっていることから、未然に防げない、他の家族の誰も気付けない、そんなことが重なって悲劇が起こるということが多いように思われます。

今回は、事件そのものは小さな扱いのものでも、その背景が特殊なケースを集めました。

思い込み~江東区・二児殺害事件~
親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~
堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~
誤算~赤穂・祖父母殺害事件~

堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~

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昭和63年5月24日午前9時

文京区小日向の営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅ホーム。
ふらふらと中年女性がホームに歩いてきた。
その視線は虚ろだったが、どこか目的を持ってその場にやってきた、そんな印象だった。

通勤ラッシュが終わった時間、それでも電車のを待つ人は多く、その多くの人は女性のことなど気にもしていなかった。

電車が入ってくるアナウンスが流れる。荷物を持つ人、歩き出す人の合間を縫って、女性はそのまま電車に飛び込んだ。

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親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~

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昭和62年11月5日

「あれ、奥さんたちどうしたの?」
杉並区下井草の住宅街で、住民が顔見知りの男に声をかけた。
その男はこの辺りでも名の知れた会社の次男坊で、父親である社長と育ての親である内妻、若く美しい妻にかわいらしい娘とともに5人で暮らしていた。この日、いつも姿の見える妻や娘がいなかったことから、住民は軽い気持ちで声をかけた。

「親父らと一緒に秋田の実家へ行ったんですよ。」

男はそう答えると、自宅のほうへ戻っていった。

しかし数日後、この男の家が全焼し、家の中からは家族4人の遺体が発見される。
その遺体の中に、この男は含まれていなかった。さらに、4人にはそれぞれ他殺をうかがわせる証拠が残っていた。

事件

昭和62年11月8日午前4時すぎ、東京都杉並区下井草の三階建てビルから出火、同ビルの一部と敷地内にある無人の木造住宅の一階部分が焼けた。
二時間後に消し止められたが、焼け跡からは大人3人、幼児一人の遺体が見つかった。

荻窪署の調べによると、亡くなっていたのはこのビルと住宅の所有者で会社社長の伊藤正之助さん(当時69歳)、内妻の笠井節さん(当時65歳)、正之助さんの次男の妻・香芳さん(当時27歳)、そして次男夫婦の娘・玲ちゃん(当時2歳)と判明。
さらにその後の調べで、玲ちゃんを除く大人三人には首をひものようなもので絞めた形跡があること、現場に灯油が撒かれていたことなどから殺人、放火事件と断定、警視庁捜査一課が特捜本部を設置した。

正之助さん方は三階建てのビルで、1階で正之助さんと節さんが暮らし、2階の一部と3階をマンションにしており、次男夫婦は2階のマンションの一室で暮らしていたという。

捜査本部では自宅にいない次男の行方を探したものの、車もなく、その行方が分からないままだったが、冒頭の通り、5日には家族で秋田に行っている、と近隣住民に話していたことがわかった。しかし、その事実はなかったこと、次男が7日の夕方近所のガソリンスタンドで灯油18リットルを購入していたこと、出火はしなかったが次男の部屋にも灯油が撒かれていたことなどを併せて、この次男が何らかの関与をしているとみて次男の行方を追った。

さらに、正之助さんの銀行口座から現金1300万円が引き出されていたことも判明。部外者が押し入った形跡もなく、そもそも正之助さんの印鑑や預金通帳を持ち出すことは他人にはできない事から、やはりこの次男の関与が濃厚となった。

捜査本部は次男が多額の現金をもとに長期逃亡を視野に入れている可能性を考え、車のナンバー、人相、着衣などを全国に指名手配し、殺人容疑で逮捕状を取った。

その後の展開は早かった。
事件発覚の翌日、次男は宮城県仙台市内の東北自動車道・仙台南インターに進入しようとしたところで、たまたま行われていた宮城県警の一斉検問に引っ掛かり、免許証不携帯だったために身分照会をされた。
この時点では宮城県警は事件との関連に気付いていなかったが、車のナンバープレートが折り曲げられていたり、そもそもたかが免許証不携帯のわりに顔面蒼白で狼狽える男の様子が気にかかり、何か隠しているのではと追及。当初、本名だけを名乗っていたという次男は、その後「東京で家族4人を殺した」と自供したため、駆け付けた警視庁の捜査員によって逮捕された。

逮捕されたのは正之助さんの次男で、殺害された香芳さんの夫である伊藤竜(当時29歳)。
調べに対し、香芳さんとの間で娘の教育方針をめぐりたびたび衝突しており、激高して妻の首を絞め殺害してしまったと話した。玲ちゃんについては、母親を亡くして父親が殺人犯となればあまりに不憫だと思って殺害、正之助さんについては、事件を起こしたことを相談したものの、冷たくあしらわれたことで逆上し殺害し、節さんについては「ヤケになって殺した」と話した。

検察は11月29日、殺人、非現住建造物放火、死体損壊の罪で竜を起訴した。
当初は上記のように夫婦喧嘩、親子喧嘩の挙句の殺人と見られていたが、実際には、生々しい夫婦、親子間の情の縺れがあったことがわかっていた。

それまで

殺害された正之助さんは、秋田県の出身。高等小学校を卒業後、終戦までは旧満州で憲兵隊として任務に就き、昭和22年ころに日本に引き揚げた。
その後は埼玉県内で不動産関係の仕事をし、昭和33年に「矢留建築」を設立した。昭和45年には株式会社へと組織変更し、5階建ての自社ビルを建設した。
現場となった自宅マンションビルのほか、下井草駅近くにも4階建てマンションを所有し、仕事では農地売買なども手掛け、順調な経営状態だったという。

借金はなく、下請け業者らへの金払いも良く、その仕事ぶりは非常に手堅いと評判だった。

一方で、その家庭はというと、少々問題があったようだ。

正之助さんには、竜のほかに長男もおり、当然その子らの母親である妻もいた。
しかしこの妻は、子供たちに手を上げたり、家事を疎かにすることが度々あったことで、次第に夫婦仲は冷え込んでいった。
昭和41年ころまでには、正之助さんもよそに愛人(殺害された節さん)を作り、それらが原因となって正之助さん夫婦は別居することとなった。長男は母親とともにそれまでの住居で暮らし、竜と正之助さん、そして愛人だった節さんと3人で昭和45年5月、事件現場となった階建てビルに転居し、新しい暮らしを始めたのだ。

当時竜は中学生で、都内の大学付属の中学校で学んでいた。竜にしてみれば、父親とその愛人との生活は辛かったのではないかと思うのだが、竜にしてみれば実母から愛情をかけられた経験が少なく、竜自身も実母への執着がなかったことに加え、我が子のように親身に接してくれる節さんのことをむしろ「母親」と思うようになり、「おふくろ」と呼んで慕っていた。

父、正之助さんとの関係はどうだったか。

父親として、正之助さんは常々、
「友人は会社に役立つ人間を選べ」
と口にしていた。しかし竜はまだ中学生であり、損得勘定で人間関係を構築するようなことは難しかった。
それでも父の教えを実践するうち、友人は減り、その生活は空虚なものとなっていた。
さらに不幸な出来事がそれに追い打ちをかける。
昭和46年、実兄が交通事故でこの世を去ってしまったのだ。
長男を後継者にと考えていた父は落胆したが、すぐに竜を後継者に育てるべく動き始め、高校卒業後は建設を学べる大学へと進学した。
しかし正之助さんは実務も行うよう強い、大学在学中でありながら半ば強制的に矢留建築に入社させた。
結果、学業についていけなくなった竜は、退学せざるを得なくなってしまった。

正之助さんのもとで修業を始めた竜だったが、その働きぶりは頼りなかったという。
仕事ができる人間を重宝する主義だった正之助さんは、実子であっても竜に容赦はなかった。大正生まれ、職人気質の正之助さんからは時に理不尽な𠮟責も飛んだ。
それでも竜は、正之助さんの性格や生き方を理解している自負もあり、従順な態度で日々仕事をこなしていたという。

昭和58年、節さんがとある見合いの話を竜に持ち掛けてきた。節さんの知人の紹介だったという見合いで、竜はその女性に一目ぼれした。それが、香芳さんだった。
香芳さんは化粧品販売会社の店員だったというが、実は当時、交際している男性がいた。
しかし年齢的なことも考え、昭和59年に竜との結婚を決意、2月27日には挙式した。
新婚旅行から戻った若い夫婦は、自宅マンションをあてがわれてそこで新婚生活を始める。
すぐに香芳さんの妊娠が判明し、幸せが怒涛のように押し寄せていた……と思っていなかったのが、竜だった。

不可解な「受胎」

昭和59年3月28日、香芳さんから妊娠の事実を告げられた竜は困惑する。
出産予定日は11月中旬といって喜ぶ香芳さんを横目に、竜は疑問を抱いていた。

竜と香芳さんは2月27日に挙式後、数日かけて九州地方をめぐる新婚旅行に行っていた。
その時の、と思えば計算上おかしくはない気もするが、実はその時期、性的関係を持っていなかったのだ。
新婚旅行中はもちろん、東京に戻って以降も疲労やお祝いなどで飲酒が続き、実際に香芳さんと初めて性的な関係を持ったのは3月も終わりの20日頃だったと竜は記憶していた。

それが、なぜ一週間後に妊娠判明なのか。

ただ香芳さんが積極的にその週数の数え方などを竜にレクチャーし、竜もなんとなく矛盾を感じなかったため、その話はうやむやになったものの、竜の心にはしこりとして残っていた。

6月、産婦人科へ通うために中野区の実家へ戻っていた時、不審な電話を竜は自宅で受けた。
それは若い男の声で、ただ香芳さんの在宅の有無を確認するだけのものだったという。
中野の実家を訪ねた際、何気なくその話をしたところ、香芳さんの実母が
「あら、それはAくんじゃないの?」
と言った。Aくん?誰だそれ、と竜が訝しんでいると、それを聞いた香芳さんが慌てて実母を制止した。
その行動に引っ掛かるものを感じた竜は、自宅へ戻って香芳さんの私物を探ってみた。すると、まさにAと同姓同名の差出人からの「手紙」を発見したのだ。
しかもその内容は、ラブホテルへの誘いだった。

仰天した竜だったが、その手紙が出された時期がわからず、もしかしたら自分と結婚する前の話かもしれないと思い直し、それを見つけたことなどを含め、香芳さんには黙っていた。

竜の心の燻りは消えることはなかったものの、同年11月、予定通りに香芳さんは女児を出産、玲ちゃんと名付けられた。

玲ちゃん出産後は、周囲の皆が大喜びし、さらには玲ちゃんが竜とよく似ているなどといわれたことから、竜の中での不信感はなりを潜めていた。
竜も、あまりにも我が子が愛おしく、このような幸せを運んでくれた香芳さんに対してもいっそうその情愛を深め、一家はどんどん幸せになっていく、そう誰もが思っていた。

強烈な捨て台詞

玲ちゃんが一歳になったころ、竜は香芳さんのある変化に気付いた。
香芳さんが外出する際の服装や化粧の仕方がなんとなく派手になったように思えたのだ。

しかし香芳さんを愛していた竜は、直接問いただすことなど出来ず、香芳さんの外出先を探って男と密会しているのではないかなどと思い悩むようになった。
ただ、実際に香芳さんの外出先や行動、帰宅時間などを考えた時、男と浮気を楽しむような時間的余裕が見当たらないことから、思い過ごしだと自分を納得させつつ、それでも心にはずっとAのことがわだかまりとして残ったままだった。

昭和61年に入り、竜は任された仕事が思うように運ばず、苛立ちを募らせていた。
しかも、今回の施主は香芳さんの叔父であり、その叔父から工事内容にクレームをつけられるという事態が起きていて、日ごろから香芳さんの実家や親族らに対し思うところがあった竜は、自宅で香芳さんと口論になってしまう。

きっかけは、玲ちゃんに対する教育方針の違いだった。

竜は子供らしくのびのび育てたいと思っていたが、香芳さんは早期教育をすることを望んでいた。
意見はかみ合わず、次第にヒートアップしていく中で、話は玲ちゃんを中野の実家が独占している、というものへ発展した。
どうやら香芳さんは、実家にばかり玲ちゃんを連れて行き、同じビルで暮らしている正之助さんや節さんにあまり玲ちゃんを遊ばせようとしていなかったように思われた。竜はそれを香芳さんに問いただすと、香芳さんは途端にむくれ、口を利かなくなってしまった。

しばらくして、冷静さを取り戻した竜が、仲直りをしようと香芳さんのいる寝室へと向かうと、突然、
「竜ちゃんは、いつもお父さんやお母さんのことばかりで私のことなんか何にも考えてない」
と責められた。驚いた竜が売り言葉に買い言葉で、
「それなら子供を置いてお前だけ実家に帰れ!」
というと、香芳さんの口から驚愕の捨て台詞が飛び出した。

「この子はあんたの血なんか入ってない。私の子供なんだから、私が連れて帰る。わかってるでしょう、Aくんの子よ。」

香芳さんの性格はわからないが、これは絶対に口にしてはいけない言葉だった。いや、そうでもしなければ玲ちゃんを取られてしまうと恐れてのことだろうとは思うが、それでもこれは、相手を完膚なきまでに叩きのめす言葉である一方で、相手を見境を無くすほどに激昂させるには十分すぎる言葉でもあるのだ。

竜は、後者だった。

追い討ち

香芳さんの首を絞めて殺害した後、竜はその傍らで眠る愛娘の顔を見た。
自分の娘と信じて愛しんできた。今日この日までは。
何も知らずに安心しきった表情ですやすやと眠る玲ちゃんを見ても、もはや竜の心は憎しみしか浮かばなかった。

玲ちゃんを殺害後、竜は途方に暮れていた。しかしもう時を戻すことなど、出来ない。
心が決まらぬまま一日を終え、竜は自首する気持ちを固めていた。ただ、これまで自分を見守ってくれた父と節さんだけには、きちんと報告したうえで送り出してもらおう、そう考えて、4日夜7時半ころ、1階の正之助さん宅を訪れ、事の次第を説明した。

「香芳と玲を殺してしまった。何の親孝行もできずすみません。二人の遺体の供養をお願いします。これから自首します。」

そこで正之助さんから出た言葉は、打ちひしがれる竜をさらに奈落の底へ突き落すに等しいものだった。

「お前はやっぱりあの女の子なんだなぁ。お前など、俺の子でもなんでもないから、孝行されんとも何とも思わん。」

竜は意味が分からなかった。俺の子でもなんでもない?とは?パニックに陥る竜を、正之助さんは別の部屋へ連れて行き、そこにあった古いスナップ写真を見せられた。そこには、懐かしい実母の若かりし頃の姿があり、傍らには正之助さんではない男性の姿があった。

続けて、メモを書きつけたものも見せられ、実母が浮気をしていたことや、竜を妊娠したとされる頃は実母と関係を持っていなかったことなどを告げられた。
正之助さんは、竜が自分の子でないことを知りつつも、実の子である長男が動揺するのを恐れて知らん顔をしてきたのだと話したのだ。

自分は騙されていたのか?実の父だと思っていたからこそ、理不尽な思いにも耐え、会社を継ぐために努力してきたのはいったい何だったんだ。竜の心の中にはそれまでの不満や我慢が一斉に吹き出していた。

次の瞬間、竜は室内にあった果物ナイフを手に取ると、正之助さんの左胸を一突きし、正之助さんが倒れこんだところを浴衣の紐で首を絞めて殺害した。
正之助さんが絶命したことを確認すると、節さんのことを思い出した。
愛人とはいえ、長年母のように接してくれた節さん。しかし今の竜には、節さんへの感謝も愛情も消え失せ、正之助さんと一緒になって自分を騙してきた難い相手でしかなかった。

2階にいた節さんを見つけると、背後から先ほどの浴衣のひもを首にまわし、そのまま絞めて節さんも殺害。
4人の遺体を正之助さんの寝室へ集めるた。

その後、7日までの間、正之助さんらの姿が見えないことを不審がる従業員らに取り繕っているうち、家を燃やしてしまえば証拠もなくなると考え、敷地内で誰も使用していなかった木造住宅に灯油をまき、さらには正之助さんらの遺体のある寝室にも灯油をまいたうえ、火をつけたのだった。

そして、正之助さんの預金を引き出し、逃走した。

この事件では、当初から竜について以下のような話が報道されていた。

竜はその年の4月に、交通事故を起こしていた。
乗用車で工事現場へ向かう途中、飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切り、土手下に車ごと転落するという大事故だった。
命に別状はなかったものの、その事故で竜は一時的な記憶を失ってしまったという。
事故後、竜を診断した東京女子医大病院によれば、逆行性健忘症とのことだった。

その後も、記憶がおかしくなったり自分の名前を言えなくなるなど、症状は時折出ていたといい、事件直前の1日も、杉並区内を一人でふらついているのを警察官に保護されるということもあった。

正之助さんも、周囲の人らに「竜はもう元に戻らないかもしれない」と涙ながらに話すことがあったという。仕事にもかなり支障をきたしていた。

東京大学病院精神神経科の平井富雄医長(当時)によれば、逆行性健忘症の場合、数日で記憶が戻ることが普通だが、再発を繰り返していることを考えれば心因性のストレスが事故を契機に記憶喪失という形で表れたと解釈できる、と読売新聞の取材に答えている。
また、心因性の記憶喪失の場合、感情的な爆発が起こり、突如暴れだすということもあるが、当の本人はその行動を覚えていないケースも多いという。

警察ではそれらの事情を踏まえ、当初は竜に対して精神鑑定も考えていたが、逮捕後の供述ははっきりしていたことや、他の証拠類との相違もなかったことから、検察も起訴に際し責任能力に問題はないと考えていた。

一方弁護側は、「通常人の理解を越えた事件で、当時、被告は心神喪失か心神耗弱状態にあった」と主張した。

検察は死刑を求刑、弁護側は上記を理由に無罪もしくは減刑を求めた。
裁判の中で、ひとつの事実が明らかとなる。
竜の逆行性健忘症は、詐病だったのだ。

竜は事故を起こしたころ、仕事に行き詰っていた。先にも述べたが、当時担当していた現場は妻の香芳さんの叔父が施主で、たびたび工事内容にクレームが来ていたという。
昭和61年3月、やけになった竜は、その自分が担当している工事現場に放火。一度では飽き足らず二度も放火し、ボヤ騒ぎを起こした。
当然、警察の捜査が行われるわけだが、その直後、先述の自動車事故を起こす。竜はそれを理由に、記憶喪失を装っていたのだ。

さらに、東京都から受けるはずの融資がうまくいかないことを正之助さんに叱責された際は、たまたま公衆トイレで転倒したことを理由に、またもや記憶喪失を装って仕事がうまくいかないことを取り繕うなどしていた。

こうなると、そもそもその自動車事故も何だったのか疑わしいではないか。
もっというと、やけになって後先考えず行動し、その方法が「放火」というのは、竜にとって家族殺害の時が初めてではなかったというわけだ。
そして、自己保身のために壮大な嘘をつくことを厭わなかった。

となると、はたして事件当夜、夫婦間で交わされた言葉、親子間で交わされたあの非情なやりとりは、本当のことなのだろうか?

真実の行方

裁判所は、竜が面倒なことにぶち当たると逃避行動をとること、その逃避行動の内容が理解可能なものであることなどから精神障害については退けた。
一方で、被害者らのあまりに無慈悲な言葉が事件を引き起こした要因の一つであることは認め、竜に対する酌量に値するとした。

さらに、正之助さんの遺産から数千万円を香芳さんと節さんの遺族にそれぞれ支払っている(竜本人ではなく、おそらく正之助さんの親族が支払ったと思われる)ことで示談が成立していること、それぞれの遺族が極刑を望んでいないこと、とりわけ、香芳さんの両親からは、
「被告人の家庭環境や生育歴を考えると、被告人も被害者であり、現在では被告人を宥恕(ゆうじょ=許す)しているので、寛大な判決を求める」
との申し出もあった。

竜の実母、正之助さんの兄をはじめ、親類、従業員、下請け業者らも多数が竜の更生に尽力することを約束していた。

ここまで言われてしまうと、もはや結果は見えている。

昭和63年3月18日、東京地方裁判所の島田仁郎裁判長は、竜に無期懲役の判決を言い渡した。
遺族のほとんどが竜を許し、同情まで寄せたことが死刑回避の大きな理由になったのは間違いないだろう。精神状態に問題がない以上、これ以上の減刑は求められないであろうし、被害者のうち節さんと玲ちゃんには一片の落ち度もないわけで、その二人を殺しただけでも死刑であってもおかしくないのだから、竜にとってはありがたい判決だった。

検察は量刑不当で控訴したが、その後確定した。

玲ちゃん、正之助さんとの竜の関係については、超有名サイト「無限回廊」によると、

事件後、血液型を調べた結果、R(竜)が正之助の実の子であることが法医学的に確認されている  ※()内は事件備忘録の補足

となっている、が、判決文の時点では言及はない。当時の新聞報道でもそこまで踏み込んだものは見当たらなかった。血液型だけではなかなか鑑定できない気もするのと、当時の親子鑑定のレベルで、焼損した遺体の血液でどこまでできるのかちょっと不明なため、この事件備忘録では断定は避けたい。
玲ちゃんについては、判決文の中で「被告人の子ではないとまでは認められない」としている。

ただ、いつもこういう事件で思うのだが、客観的な証拠が乏しい中での被告人と被害者しか知らない会話が、どこまで真実なのか、と思う。
もちろん、香芳さんについては他の男性の存在があったのは間違いなく、また実母についてもそうだろう。
しかし、本当にそんな言葉を発したのか?
正之助さんは、竜のことを叱りはしていたものの、それでも後継者にすべく教育してきた。それだけではなく、竜が事故に遭った後は何かと気にかけ、心配し、時には周囲に竜が不憫だと涙ぐむこともあった。

節さんにいたっては、まったく血縁のない他人の竜を、我が子同然に育ててきた。母の愛を知らなかった竜には、節さんこそが母親だった。

香芳さんがしたとされるその発言も、どこか竜の疑念に沿い過ぎているような気もする。確かに、香芳さんの実母も知るその別の男性の存在はあったし、事件の一週間前に香芳さん自らその男性に連絡して会っていたという事実もある。
しかしだからといって、玲ちゃんが実の子ではないというのは、竜が証言したこと「だけ」で成り立っている話だ。もう香芳さんの言い分は聞けない状況で、である。

しかも、その直後に正之助さんからも同様のことを言われるというのも、どこか出来過ぎているような気もする。

ともあれ、裁判ではこれらのことが認定され、それらはすくなからず竜にとって有利に働いた。
本当のことは、もはや竜しか知り得ない。

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参考サイト
無限回廊「杉並一家皆殺し放火事件」

参考文献
朝日新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月30日東京朝刊、昭和63年2月8日東京夕刊
読売新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月10日東京夕刊、昭和62年2月6日 東京朝刊、昭和63年3月18日東京夕刊

昭和63年3月18日/東京地方裁判所/刑事第1部/判決
昭和61年(合わ)258号
判例時報1288号148頁

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