「餓死日記」とその不可解〜寝屋川・主婦餓死事件〜

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寝屋川の文化住宅

昭和525月。大阪府寝屋川市の萱島にある文化住宅ではいつものように主婦たちが朝餉の準備に追われ、子供達は次々と学校へ走り、家々からは仕事に向かう男たちが駅へと急ぐ姿が見られた。

文化住宅は薄いベニヤの壁の向こうに隣の部屋があるという作りのため、隣の話し声はまる聞こえだった。

その長屋の一室で暮らす主婦は、朝の家事仕事の合間に聞こえる隣家の子供の泣き声が気になった。あの声は一番上のマー君やろか。隣は5人目が生まれたばかり、お兄ちゃんがかまってもらえず泣いてるんやろか。

最初はそう思っていたが、隣家の子供はいつまで経っても泣き止まなかった。

午前7時半。さすがに不審に思った主婦は、隣の玄関へ回ると泣いている子供に呼びかけた。
「マー君、どないしたんそんな泣いてからに・・・」
その家の9歳になる長男に玄関の鍵を開けさせ中に入った主婦は、絶句した。

その家の主婦が、布団の中で冷たくなっていたのだ。その傍らには、3ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊がすやすやと眠っていた。 続きを読む 「餓死日記」とその不可解〜寝屋川・主婦餓死事件〜

LOVE STORY〜4つの愛の事件〜

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夫婦喧嘩は犬も食わないし、男女の諍いは時にそれ自体が二人を盛り上げるただの前戯のことも多い。

しかしそうならなかったら。そう思っているのは片方だけだったとしたら。

一度は愛し、愛されたはずの人たちがそれぞれを、或いは取り巻く人を傷つけ殺すハメになった、4つの事件。

ケンカをやめて

平成6年9月11日、病院に運ばれた男がいた。腹部に刃物による重傷があり、その刃物は柄が折れ腹部に刺さったままだった。
その状況からも、非常に強い殺意が見て取れた。

その頃、病院の待合では一人の男が所在投げに佇んでいた。
衣服には血液が付着、疲労困憊といったその男は、腹部に重傷を負った男を自らの自家用車でこの病院に担ぎ込んだ人物だったが、その様子は「人助けをした善意の人」とは程遠いものだった。

病院から通報を受けた警察が双方に事情を聴くと、思いもよらない答えが返ってきた。
「おれたちは決闘をした」
その答えは、けがをした男性の口からも、同じように語られた。

決闘

ケガをしたのは佐藤要次さん(仮名/当時35歳)。左腹部刺創による胃損傷、中結腸動脈損傷および左前腕切創の全治一か月の重傷だったが、命に別状はなかった。

佐藤さんを運んできたその決闘相手の男は、二宮亮平(仮名/年齢不明)。
二人の話によれば、9月11日の夜にとある事情から口論となり、佐藤さんから罵倒されたことで頭にきた二宮は、
「お前、俺と命を賭けて勝負するか?」
と申し向けた。
同じく頭に血が上っていた佐藤さんもそれに応じ、
「上等だ、すぐ来いよ。待ってるからな。」
と鼻息が荒かった。

その後、自宅から文化包丁(刃渡り18,3センチ)を持ち出すと、自家用車で佐藤さんを迎えに行った。
佐藤さんを助手席に乗せ、決闘場所に選んだ中央自動車道国立府中十二番通路に赴き、
「どっちがやってもやられても警察には言わない」
ことを約束した上で、ここに決闘する意思を確認しあった。

時刻は午前7時15分、頭上を出勤の車がごうごうと通りすぎるガード下で、男ふたりは朝日に照らされていた(想像)。
「これを真ん中に置くからよ」
二人の距離はやく3,5m。二宮は持ってきた包丁を、佐藤さんと自分の間に放り投げた。

そしてふたりはその包丁めがけて駆け寄ると、その包丁を奪いあった。先に包丁にてをかけたのは、二宮だった、ズルい。
しかし、すぐさま佐藤さんが上から抑え込む形となり、互いに組み合ってしばし奮闘したが、組み伏せられていた二宮が隙をついて包丁を突き上げたのだった。

裁判

警察には言わない、そう約束した二人だったが、決闘に勝ったはずの二宮は佐藤さんを車に乗せるとそのまま病院へ直行した。
病院に担ぎ込めばおのずとその決闘は露見するわけだが、もうこの時点でふたりにそんなことはどうでもよくなっていたのか。

病院の通報で駆け付けた警察に、二宮は決闘罪と殺人未遂の容疑で逮捕された。

裁判では、決闘罪と殺人未遂が両立するのかといった法律の議論も交わされた(※両立する)が、二宮は懲役3年、執行猶予が4年ついた。
決闘という性質上、結果的に被害者となった佐藤さんにも相当な落ち度が認められると判断されたことには異論はないだろうし、そもそも被害者の佐藤さん自身が二宮に対し寛大な処分をという嘆願書的なものを出していた。
二宮自身が佐藤さんを放置せず病院へ運んだことなども考慮された。

なんだか殺し合いの決闘に至る割に、ふたりの間に友情というか固い絆というかそういうものが見て取れるような気がしないでもないが、そもそもこのふたりが決闘に至ったその原因は何だったのか。

男が命を賭けると言えば、もうこれしかあるまい。
ご想像の通り、女の取り合いだった。

愛と友情

二宮には妻子がいた。その夫婦関係がどうだったかはわからないが、二宮には10年来の「13歳年下の愛人」がいたという。
この二宮については、事件自体がさほど大きくなかったからなのか、新聞等の報道がない。そのため二宮の年齢が分からないのだが、13歳年下の10年来の愛人がいるということで、少なくとも40歳以上かと思われる。
10年も不倫関係を続けてきたということで、さぞや愛し合った二人かと思いきや、実際はひどいものだった。

二宮はこの愛人に対し、10年間で4度妊娠させ、そのすべてを中絶させていた。

女性も女性だ、という意見はごもっとも、それは本人も同じだったようで、ある時別の男性と親密な交際を始める。それが、佐藤さんだった。

佐藤さんは二宮と友人であり、二宮との関係を承知のうえで女性に結婚を申し込んだ。女性も、佐藤さんとの結婚を望み、二宮との不毛な関係に終止符を打つと決心。
8月、佐藤さんは女性を同席させたうえで二宮を呼び出し、自分たちが結婚することを告げた。佐藤さんとしては友人である二宮に対し、本来通す必要はない筋ではあるが、通した形をとったのだ。

二宮は面食らった。長年、自分とは友人だったはずの佐藤さんと、10年も自分の言いなりだった愛人女性に裏切られた、その思いだけがこみあげた。自分が不誠実だったことは全力で棚の上だった。
散々女性にひどい仕打ちを繰り返してきたにもかかわらず、二宮は女性に執着し続けたという。
無理やり連れだしたかと思えば心中を持ち掛けたり、佐藤さんと二人きりで会わないという誓約書を書かせようとするなど、言動は常軌を逸していた。

事件当日、二宮は女性の自宅に電話をかけて復縁を迫ったところ、「会いたくもないし、話もしたくない」と邪険にされてしまう。すると、背後から佐藤さんの声が聞こえてきた。
この日、佐藤さんは女性宅に泊まっていたのだ。
さらにしつこい二宮に業を煮やした佐藤さんは、電話をひったくると「お前、いい加減にしろよ。しつこくするな!」と怒鳴りつけた。

そして、二人の決闘へと発展したのだ。

長年の泥沼にはまった女性は、佐藤さんに救われただろう。4度の妊娠中絶など、考えただけでも許せない。
が、女性とて二宮に妻子がいることを知らなかったわけはないだろうし、自分の不倫の後始末を新しい男にさせるというところに、言葉を選ばずに言えば「嫌な女だな」と思うのも事実である。

二宮と佐藤さんはその後どうなったのだろう。
誰にも言わない、命を賭けた男同士の決闘のはずが、結局、勝ったはずの二宮は法廷に引き出され、佐藤さんによる嘆願書が情状酌量となった。佐藤さんと女性とは縁を切ると、法廷でも誓った。
負けた佐藤さんは二宮に命を救われ、その後どうしたのだろうか。
命を賭けたその女は、以前と同じように守ってやりたい女に思えたろうか。

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参考文献
東京地方裁判所八王子支部 平成6年(わ)936号 判決

女々しくて女々しくて

男は女の言葉を待っていた。いいよ、帰っておいでよ。そう言ってくれると信じていた。
しかし女の口は動かない。期待している言葉は、いつまでたっても発せられないまま。
ふと、女が思い出したように手紙を差し出してきた。そこにあった文字は、「謝罪文」。以前、男が書くように要求したものだった。
「…これがお前らの答えなのか。」
謝罪文を読みながら、男の心はズタズタになっていた。そんな男の心を知ってか知らずか、女は身支度を整えるために洗面所へと消えていった。

男はバッグに手を忍ばせた。

ホテルマリオン

平成13年11月16日午前11時、川口市のラブホテルから川口署に通報が入った。
「女性のお客さんが死んでいる」
清掃に入った従業員が、ベッドにあおむけで倒れて動かない女性を発見、その状況から通報してきたのだった。
女性は後頭部を二か所、鈍器のようなもので殴られておりひどい出血をしていた。そして、遺体のそばには直径約20~30センチの血がついた石が転がっていた。

ホテルによれば、女性は男と二人で15日の夜9時ころにチェックイン、その後男だけが翌16日の午前10時半ころにチェックアウトしたのだという。

警察では、この男が何らかの事情を知っているとみて行方を追っていた。

同日午後8時45分、蕨署下戸田交番に一人の男がやってきた。
「西川口で人を殺した」
警察ではすぐにこの男がホテルの事件に関係しているとみて事情を聴き、容疑が固まったことから殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、川口市青木の無職、磯山清徳(仮名/当時49歳)。殺害されていたのは、磯山と内縁関係にあったというパート店員の滝下智美さん(仮名/当時36歳)だった。
智美さんは離婚歴があって、二人の子供を女手一つで育てていたという。ところが、いつのころからか磯山が智美さん方へ入り浸るようになった。二人の間には、女の子も生まれていたが、正式な夫婦ではなかった。
事件が起きた15日も、保育園に末っ子を迎えに来た智美さんは「今日の夜、西川口で(内縁の)夫と会うことになっている」
と話していたという。

警察は、現場に残された石が凶器であると断定していたが、その石はホテルの室内にあったものではなかった。ということは、磯山が外部から持ち込んだということである。
磯山は、その日最初から智美さんを殺害する気だったのか。

ふたりのそれまで

磯山は昭和27年生まれだが、6人兄弟の末っ子ということもあってか、1歳の時に養子に出された。
昭和34年にその養父母が離婚したため、実姉夫婦の養子として育つという、複雑な成育歴を持っていた。

中卒で働き始め、工場勤務や配送の仕事を転々とし、昭和55年に結婚、その後娘二人に恵まれた。
妻はスナックを経営し、磯山はタクシー運転手などをしていたが仕事は長続きしなかったという。家計は妻が支えた。

智美さんは昭和59年に結婚、長女と長男がいたが平成3年に離婚。その後は保険外交員をしたり、時に生活保護を受けるなどして女手一つで子供たちを育てていたという。

磯山と智美さんの運命が交錯したのは、お互いの子供たちを通してだった。
磯山は娘が通う小学校でミニバスケットボールのコーチをしていた。そこに、智美さんの長女も通うようになり、コーチと保護者という関係で知り合ったのだ。
このころ、磯山は既婚者だったがスナック経営の妻とは生活リズムが合わず、その関係はうまくいっていなかった。
若くて独身の智美さんとはウマが合い、やがてふたりは不倫関係へと陥った。

平成9年に磯山の離婚が成立、子供たちは妻が引き取ったことで磯山は一人になった。
その後はタクシー運転手をしながら一人暮らしをしていたというが、平成10年にタクシー会社を辞めるとたちまち家賃の支払いに窮することになってしまった。
そこで、とりあえず市内の健康ランドの会員となってそこで寝泊まりするようになる。わずかな生活費はパチンコ代に消え、自堕落な生活を送っていたが、智美さんとの関係は継続していた。

そして、智美さんが妊娠する。

平成10年12月に智美さんが出産したのを機に、磯山は再びタクシー運転手の職を得たが、アパートを借りる資金が追い付かずに健康ランド暮らしからは抜け出せていなかった。

磯山との間の子供は智美さんが育てていたが、そのころ智美さんの経済状況も思わしくなかったようだ。
ある時、智美さんがサラ金に借金していることを知った磯山は、不意に、生まれたばかりの娘のことが気になり始めた。
智美さんに任せておけない、自分の自堕落は棚に上げて、智美さんの経済状況を大義名分にして半ば強引に智美さんのアパートへ転がり込んだ。

お互い独身同士、しかも二人の間の子供もいるわけで、これを機に結婚するとか、そういう選択もあったと思われるが、そうはいかない事情があった。

智美さんの前夫との間の二人の子供は、磯山のことが大嫌いだったのだ。

嫌われる男

当時磯山はタクシー運転手としての稼ぎはあった。転がり込んだ当初こそ、その給料からいくらかのお金を智美さんに渡すなどしていたようだが、子供たちとの関係は最悪だった。

順序だてて、ごく常識的に考えれば自分がしていることが子供たちの理解を得るにはほど遠いことは分かりそうなものだが、焼け石に水程度の生活費を入れただけで、磯山は智美さんと同居する理由があると思い込んでいた。

智美さんの子供たちは長男が当時17歳。妹の父親であるだけの磯山が大きな顔で居座ることは理不尽だと思っても当然である。
子供たちは再三にわたり磯山に出て行ってくれと頼んだという。しかし、磯山にしてみれば、母親の借金を減らす協力までしている自分に対し、出て行けとは何事か、という身勝手な思いがあり、子供たちと磯山の関係は悪化の一途をたどる。

そのうち、磯山の中で「ここまで自分が協力しているのに子供たちが懐かないのは、そもそも智美がきちんと説明していないからだ」という思い込みが膨らみ始める。
タクシー運転手としてもそんなに稼ぎがあるわけではなかった磯山は、家に帰っても居心地が悪いことから次第に働く気持ちも失せていった。

平成13年の年明け、些細なことで智美さんと子供たちを相手に口論となった磯山は、仕事を辞めると宣言。お金も入れないし、これまで渡した金も返してもらうと一方的に宣言した。なにこのおっさん、中身は子供?

以降、昼間から家に居座り酒を飲み、時には智美さんや子供らに暴力まで振るうようになった磯山は、これまで以上に忌み嫌われるようになる。

そしてその年の11月、決定的な事件が起こる。

どうぞどうぞ

智美さんの長男の友人が遊びに来ていた時のこと。虫の居所が悪かったのか、理由は定かではないが磯山はその友人を突然蹴ったという。
当然長男は怒り、二人の間で激しい口論となったが、その際思わず
「2~3日中には出ていく」
と啖呵を切ってしまう。
磯山としては、すでに智美さんや子供らへの責任感や愛情というよりは、行くあてがないことであらゆることに理由を見出して居座っている状態だった。
引っ越ししようにもその費用すらなく、かといって必死に働きその費用を作るというのもバカバカしいという思いでいた。

加えて、磯山には大きな勘違いがあったようだ。

子供たちにしろ、智美さんにしろ、出て行ってほしいと口では言うが内心は違うのでは、という希望的観測があったのだ。
子供まで作った相手であり、現に今だって性的な関係も持っているのだ、いざ出ていくとなれば翻意するのではないか。哀れな男は、その期待にすがるしかなかった。

しかし、子供たちは磯山の口から出ていくという言葉が出たことでそれは言質を取ったかたちとなり、一方の智美さんも、磯山の期待とは裏腹に「今日までに出ていくんでしょ?」などという始末。吐いたつばを飲むこともできず、磯山は追い詰められていく。
それでも、磯山には智美さんに金を「貸している」という思い込みがあったために、それを持ち出せばまだ何とかなると考えていた。

そのうえで、子供たちにしっかりと金銭的援助を磯山がしてきたことを伝えさせ、これ以上子供たちが横着な態度をとらないよう智美さんを説得しようと考えた。
智美さんを説得するためには、強い態度に出なければ、とも。

11月15日、磯山は待ち合わせた公園で智美さんを待っていた。ふと、公衆電話ボックスのそばに、大きな石が落ちているのが目に留まる。磯山は吸い寄せられるようにその石塊を拾うと、そっとバッグに入れた。

愛と憎しみ

検察は、智美さんの子供たちが自分に懐かないのは智美さんがきちんと説明していないからという身勝手な思い込みから、殺意を持って智美さんの後頭部や顔面を石で殴り、その後絞殺に至ったとして、懲役15年を求刑。

平成14年7月16日、さいたま地裁は磯山に懲役13年を言い渡した。

確かに、磯山は一時期智美さんの生活を助けるために、金を渡した経緯はあった。中絶費用を工面したり、借金の返済を手伝ったこともあった。
また、智美さんとの間に子供が生まれた際も、その出産費用を工面していた。が、出産経験のある人は分かる通り、基本的な分娩費用は健康保険から一時金が支払われるため、実際には何十万もかからない。智美さんはそれを隠していたのだという。
自身も苦しい生活の中で、なんとか愛する人とまともな生活を作ろうとしていた節も、見えなくはない。

こういった面からみれば、智美さんにも相応の落ち度があるように思えるが、そもそも二人(磯山と智美さん)の子供を出産したわけで、父親である磯山が、お金を貸したも何もないはずだ。支払って当たり前の費用ともいえる。

加えて、磯山が智美さん宅へ転がりこんだ経緯を考えれば、その磯山の献身がどれほどのものだったかは疑わしい。
結局は、智美さんを見下し、その子供たちをあたかもいうことを聞いて当たり前の相手だと見くびっていたのだ。
娘のことが心配だと言いながら、自分の住む場所を手っ取り早くつかもうとしただけだ。

智美さんとて、子供を作った相手である磯山を憎んだり、顔も見たくないほど嫌っていた、という風ではない。
現に、殺害されることも知らずホテルに行っている。さらに、その場で磯山に対し、小銭をかき集めて5000円を手渡したという。それまでも、なんども磯山に小遣いをせびられていた。

決して、磯山を無碍にしたわけでもない。ただ、子供たちとうまくいかない以上、一緒に暮らすことは無理だと、そう言っていただけなのだ。
それを、磯山が求めていた「謝罪文」に、他人行儀な言葉が並んでいたというだけで磯山は智美さんへの思いを憎しみに変えた。
石で何度も殴りつけ、挙句首を絞めて殺害し、その遺体の横で朝まで寝ていた。

その時見た夢はどんなものだったのか。そして、目覚めて何を思ったのか。

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読売新聞社 平成13年11月17日、12月8日東京朝刊、
朝日新聞社 平成13年11月18日東京地方版/埼玉

翳りゆく部屋

「やっぱりやるわ。今、包丁持ってる。」

電話口の女は落ち着いていた。先程までの興奮が嘘のように、淡々とこれから自分が何をしようとしているのかを、電話の相手に告げた。

「親から、一番大事なものをとってやるから。」

電話相手の友人は必死で女を呼び止める。電話を投げたら、やる合図……
友人は電話の向こうの様子を聞き漏らさまいとぎゅっと受話器を耳に押し当てた。

事件

平成3年1月21日午後7時半頃、「夫を刺した」という119番通報が入った。川口市内のアパートの一室に署員が急行すると、そこには住人の男性が腹部から大量に出血した状態で倒れていた。
都内の病院へ搬送されたものの、男性はその後死亡が確認された。

死亡したのは、川口市在住の塗装工、垣内拓海さん(仮名/当時21歳)。拓海さんは腹部を包丁で一突きにされており、腹部盲管刺創による臓器損傷に伴う出血性ショック死だった。

現場の状況から、通報者であり拓海さんの妻である幸子(当時20歳)を、拓海さん殺害容疑で逮捕した。幸子は妊娠6ヶ月の身重だった。

若く、子供にも恵まれた前途のある夫婦の間に何があったのか。

そこにはありがちな浮気や嫉妬、経済的な問題などということのみならず、幸子の過酷な人生と、直前の出来事が影響していた。

二人のそれまで

幸子と拓海さんの出会いは中学時代。その頃から交際をしていたという二人だったが、とにかく拓海さんは幸子にとって恋焦がれた最愛の人物であった。

平成2年6月に二人は若くして結婚。できちゃった婚でもなく、そこには愛し愛される若い幸せな二人の絆を感じられた。
しかし若い二人の経済観念は乏しく、結婚しても趣味の車いじりをやめられなかった拓海さんが幸子に渡す家計費は月6万円ほどだったという。

それでも愛する人と結婚できた喜びが遥かに勝っていた幸子は、不満を口にすることもなく、時折実母から食料の援助やお小遣いをもらってそれなりに慎ましい生活を送っていた。

その年の秋、幸子の体に変調が現れる。生理が来なくなったのだ。
ただ幸子自身、虚弱体質で小柄だったということで、おそらくそれまでにも生理不順などあったのだろう、その時は特に何も気にしていなかったようだ。

ところが平成3年になって、胎動のようなものを感じたことから幸子は産婦人科を受診。そこで初めて、自身が妊娠5ヶ月目であることを知る。
エコー写真を見せられ、幸子はいたく感動した。愛する人との、それこそ愛の結晶だった。私も母になるのだ。お腹の中ですくすくと育っている赤ちゃんに愛おしさを感じ、その喜びを夫である拓海さんとも分かち合いたいと帰路を急いだ。

しかし、帰宅した拓海さんの口からは信じられない言葉が発せられた。

面罵する義母

「いや、無理。まだ遊びたいし、やりたいこともあるし。」

おさらいだが、この二人は正式に結婚しており、確かに貧しい暮らしではあったようだが拓海さんは職も持っていた。
その状況で妊娠を告げた時、まさか夫からこのような言葉が出ると思うだろうか。
健康な男女が結婚し、同居しそれなりに夫婦生活を健全に行なっていれば妊娠は自然なことである。もちろん、諸事情で妊娠を先延ばしにしたい夫婦もいるだろう、それならば避妊するなどして家族計画をしていくのだ。

しかし拓海さんは特にそのような、「妊娠してほしくない」という様子もそれまで見られなかったし、妊娠しても不思議はないSEXをしていた。

にもかかわらず、「いや、無理」とはどういうことか。

混乱した幸子が縋っても、拓海さんの態度は変わらなかった。それだけではなく、拓海さんの両親らまでもが幸子の出産に猛反対してきたのだ。

拓海さんの両親による出産への反対は熾烈を極めた。
言葉で翻意させるにとどまらず、幸子は義母に産婦人科へと強制的に連れていかれる。そして、中絶手術を強要されたのだ。
さらにはあまりの事態に仲裁をしようとする産婦人科医を前に、中絶に同意しない幸子を罵倒したという。
当然、幸子本人の同意なしでの中絶などできるはずもなかったが、あまりの屈辱と恐怖からショックを受けた幸子は泣きながらやっとの思いで自宅アパートへと帰った。

そして、唯一の友人である女性に電話をすると、事の次第を話したという。

その女性は、拓海さんの実家が経営する塗装店の従業員で拓海さんとも親しい人物と交際しており、かねてから幸子の悩みを聞いていた。
その日も、幸子をなだめ、慰めながら話を聞いていたというが、この日幸子はいつもと違っていた。
普段は少々わがままで依存体質ではあるものの、凶暴な面はなかったというが、この日の幸子は興奮冷めやらずといった体で、
「寝ている間に拓海を刺して自分も死ぬ」
などと物騒なことを口にした。

そして電話を切った幸子は、その言葉を裏付けるかのように金物店へ出向いて刃渡り16.7センチの文化包丁を一丁購入し寝室のベッドの下にしのばせた。

懇願と絶望

それでも幸子は最後までどうにか出産を拓海さんに認めてほしいと強く願っていて、何度も何度も、拓海さんに出産への思いを切々と訴えていた。
実家へと戻って実母に状況を説明した際も、あまりにむごい仕打ちに実母が直接拓海さんを諭すこともあった。その甲斐あってか、拓海さんも「もう一度考えてみるから待ってほしい」といい始めたことで、幸子は一縷の望みを託していた。

1月21日、この日こそは拓海さんから良い返事がもらえると期待して拓海さんの帰りを待っていた幸子だったが、やはり不安もあって、友人女性に電話して心を落ち着けようとしていた。
5時半ころ、仕事から帰宅した拓海さんが食事を始めたため、電話をいったん保留にしたうえで幸子は拓海さんに恐る恐る、聞いてみた。

「一緒にやってくれる(出産し結婚生活を続けていく)ことになったの?」

しかし、拓海さんの返事は無情なものだった。

「やっぱりだめだ。親もだめだと言っているし、俺もやりたいこともあるし、遊びたいから駄目だ。」
「おれの気持ちはもう変わらない。冷蔵庫、たんす、テレビは置いて行ってやるから」

この時拓海さんは、出産はおろか、幸子との結婚生活にも終止符を打つと、断言したのだった。

幸子の胸の内はいかばかりだったろう。
電話をとり、ふたたび友人女性と話をし始めた幸子は、もはや正常な判断が下せるような状況になかった。

「拓海が子供を生むなら別れると言って全然賛成してくれない。拓海が自分以外の人と結婚したら嫌だから別れない。あんな男をこの世にのさばらせておくのは許せないので殺す。」

話は拓海さんを殺害する内容が繰り返され、友人女性が思いとどまるよう諭すことで幸子もいったんは落ち着いたようにも見えたが、拓海さんが風呂に入ったころ、幸子は友人女性に決意を伝えた。

精神遅滞と、二律背反

裁判では幸子の生い立ちのみならず、その精神年齢や事件直前の幸子の精神状態も審理された。
弁護人は、確定的な殺意に基づくというよりも、幸子の命そのものと言ってもいい最愛の夫への信頼が崩れたこと、裏切られたことによる異常行動であるとし、犯行動機そのものを否認した。

検察はこれに対し、幸子の嫉妬深い性格が、中絶か離婚かの選択を迫られた挙句無理心中に走らせたとし、事前に包丁を準備し、その旨友人女性に話すなどしていたことから計画性もうかがわれるとした。
加えて、確かに妊娠中でありその責任能力もかなり減弱していたことは否めないとしながらも、弁護人が主張する、心神耗弱は認められないとした。

鑑定を行った医師によれば、幸子のIQは55(数字上では軽度の知的障害)で、加えて精神遅滞もあったという。精神年齢は9~10歳程度だった。
幸子は日ごろから口が重く、問われたことに対しても即答するようなことができなかった。
幼いころから両親は不仲で、父親の暴力のせいで両親は別居していた。そのため、母親が不在の時は鍵のかけられた部屋で過ごさざるを得ないなど、極めて不遇な幼少時代を送っていた。

さらに、虚弱体質や知的な問題で小学校の途中からは勉強についていけなくなり、両親の状況からもそれを気にかけてくれる大人にも恵まれず、幸子自身勉強への意欲が失せたという。
それだけが原因ではないだろうが、幸子は友達もできず、したがって健康的な社会性やコミュニケーション能力も育つことなく成長せざるを得なかった。

一方で、幸子に対して理解を示したり、優しくしてくれる人に出会うと極端に依存し、それは執着へと変わった。
その中の一人が、拓海さんだった。

人とのかかわりの中で、孤独に生きてきた少女は自分を愛してくれた拓海さんに全人生を賭けてもいいとさえ、思っていた。
しかし、幸子の中にもう一つのかけがえのない大切なものが、しかも愛してやまない拓海さんとの大切なものが宿ったことで、「それまでの」唯一無二の存在が幸子を苦しめることになってしまう。

鑑定した医師は、幸子の状態を「二律背反」とした。
二律背反とは、二つの命題、願望がそれぞれ両立しうると同時に、それらを達成させるためにはそれぞれの命題が致命的なネックになる状態をいう……幸子の場合でいえば、愛する人との結婚生活を継続することと、その愛する人との子供を出産することは本来両立しうることだが、結婚の継続のためには中絶が必須となり、出産を望めばそれを望まない拓海さんとの結婚生活は継続できなくなる、こういった状況にあった。

究極の二択というには、あまりにも乱暴かつ幸子の感情を著しく踏み躙っていた。

幸子は妊娠自体を5か月まで知らず、その事実を認識した直後から心身ともに疲弊する日常に直面していた。
不眠、下痢、頭痛などに悩まされ、おそらく妊娠による体調、心理面での変化もあっただろう。

浦和地方裁判所(当時)は、確定的殺意はその程度は弱いとしてもあったと認定、そのうえで、精神的な動揺が激しい状態であったこと、元来悩みや問題を適切に処理する能力が劣っていたこと、事件当日の拓海さんからの最後通牒を受けた以降の記憶が脱失していること、電話の相手の友人女性が「事件直前の電話の内容は支離滅裂だった」と証言していること、そして、友人女性に対し殺人の予告を行うこと自体が異常な状態であり、普段の幸子の人格からは考えられないということなどから、「本件犯行直前において、心因性意識障害に基づき、是非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力が著しく減弱した状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったもの」として、懲役3年執行猶予5年の判決(求刑懲役6年)を言い渡した。

輝きは戻らない

幸子は事件後、無事に子供を出産していた。しかし、その子の父親である拓海さんはこの世にもういなかった。
愛する人を失いたくないと必死だった幸子は、それでも拓海さんと引き換えに子供を産んだ。
裁判所は、拓海さんが一人っ子であり、しかも子供のなかった拓海さんの両親が特別養子縁組で育てた大切な大切な存在だったことや、拓海さん自身の無念さに思いを寄せつつも、量刑の理由のそのほとんどを幸子への同情を禁じ得ないと綴った。

幸子は拓海さんとの結婚をこれ以上ない幸せだと受け止めていて、それは「拓海と一緒にいられれば、おなかがすいても耐えられる」と話していた通り、何にも代えられないものだった。
しかし、その延長線上といえる妊娠が、何にも代え難い存在だったはずの拓海さんを上回った。というか、そもそもこんな理不尽な二者択一をせざるを得なくなるなど幸子でなくてもだれも思わない。
愛してやまない人との子を、なぜ、その愛する人と一緒にいるために天秤にかけなければ、諦めなければならないのか。

裁判所は、それを「不可能な選択」とした。

また、産婦人科に幸子の首根っこをひっつかんで連れて行き、医師の前で面罵した拓海さんの母親も、事件後は反省したのか幸子に対し厳しい処罰を望まないと述べていた。

そして何よりも、幸子がその命を守ったといってもいい子供が、幸子が収監されれば養育者を失うということになり、それこそ子供に不測の悪影響が懸念されるとして執行猶予がつけられた。

その名の通りの、幸せを願わずにいられない。

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読売新聞社 平成3年1月22日東京朝刊

信濃川エレジー

昭和40年5月9日、新潟県小千谷市高梨町。そこを流れる信濃川は、雪解け水が流れ込み増水していた。
5月とはいえ、まだまだ早朝は肌寒いこの日、その夫婦は朝からくるみの木を伐採するために家を出た。

夜が開け始めた午前5時、夫婦は信濃川の中洲に渡るため、川舟に乗り込むと本流に向けて漕ぎ出した。
櫂を繰りながら、慎重に進んでいると、不意に夫が妻に声をかける。

「危ないから、ポットに掴まっとれ!」

水嵩が増して激流となった信濃川。もし誤って落ちてしまえばあっという間にのまれてしまう。妻は咄嗟に立ち上がると、及び腰で舟の近くの水制ポットに掴まろうとした。

あっという間のできごとだった。水制ポットを過ぎる頃、妻の姿は舟の上から消えていた。

仲人の直感

それは悲劇的な事故として扱われた。信濃川に転落した妻の行方は分からず、新聞報道でも仲の良い夫婦に起きた悲劇というものが掲載された。

行方不明になったのは、小千谷市の水島マスミさん(仮名/当時40歳)。夫と二人の子を持つ主婦だった。その後マスミさんは溺死体で発見された。

夫婦が一緒にいたときの不慮の事故ということに思われたが、どうしてもマスミさんの死を事故だと思えない人物がいた。

「新聞報道を見たとき、とうとうやったかと思いました。」

そしてその人物の疑念は、現実のものとなった。

マスミさんが死亡したのち、警察は夫で当時舟に一緒に乗っていた水島謙作(仮名)を、妻殺害の容疑で逮捕したのだ。
さらに、謙作を唆してマスミさんを殺害させたとして、小千谷市内の女も逮捕された。
二人は三年来の不倫関係にあり、女はこの年の3月に別の男性と結婚したばかりだった。
マスミさんの死が事故ではないと思ったのは、この女の結婚を取り持った仲人の男性だった。

契り

謙助と共に逮捕されたのは田辺典子(仮名)。世間的には新婚のごく普通の主婦だった。
しかし先に述べたとおり、典子には謙作という愛人がいたのだ。

二人の出会いは昭和37年。同じ職場で働いていたことから親密になり、やがて性的な関係を持つようになる。この時は典子は独身であったが、謙作にはマスミさんという妻も、二人の子供もいた。

昭和39年になると、典子に縁談が持ち上がる。この時代、まだまだ親や親せきが持ち込んだ縁談を「気に入らない」で無碍にできるほど、女性の立場は高くはなかったろう。
が、典子は烈火のごとく怒り、その縁談を全力で拒否したという。その際、謙作との不倫をぶちまけ、自分はこの人を愛している、いずれ結婚するのだと言い張って、父親らを仰天させた。

結局、不倫という状態では世間体もはばかられ、かつ謙作の職場にも迷惑がかかるということから、勤務先の工場長も交えての話し合いがもたれ、念書が交わされた。
その後、工場長は謙作を同行の上で典子の家に赴くと、典子の父親同席のもと典子に対し、「水島のことはあきらめて、嫁に行きなさい」と諭した。
同行した謙作も、典子と父親に対し、「典子さんとは別れます」と約束をした。

そして昭和40年3月、典子は婚約者の男性の許へ嫁いだのだった。

しかし、典子はこの結婚を受け入れた形をとりながら、謙作に対し一つの誓いを立てていた。

それは、たとえ結婚しても、謙作以外と肉体関係を持たないというものだった。

貯水池の密会

結婚した後も、典子は謙作と逢瀬を重ね、それまで同様肉体関係を持っていた。
一方の夫とは、あの契りのとおり、一度たりとも関係を持っていなかったという。典子が言うには、そもそもケチのついた結婚でもあり、事情は夫も承知だったとのことで、そもそも夫からの求めもなかったらしいが、これは後の公判において夫は否定していた。

4月15日、小千谷市にある旧陸軍の貯水タンク付近で典子は謙作に対し、
「私が夫と離別しても、あなたに妻がいたのでは一緒になんかなれない。後々未練が残らぬように、いっそ殺してくれ。」
と執拗に迫っていた。

謙作の心はどうだったか。

謙作は実にズルい男だった。不倫している時点でそうなのだが、謙作は3年間の不倫関係において、3度も典子を妊娠させ、そのたびに中絶させていたのだ。

もちろん、典子にも多大な非はある。しかし、謙作は典子を愛人にしておきながら、実はほかにも複数交際している女性がいたのだ。

典子がそれを知っていたかどうかはわからないものの、親に背いてでも、邪魔な妻を殺害してでも謙作と一緒になるのだという強い思いがあった(いいか悪いかは別です)。

典子の思いをこの時謙作は思い知ったとみえた。
以降、典子の「妻を殺してくれ」という願いが謙作の心をぼんやりとではあるが、捉えて離さなかったようだ。

そして前々から決まっていたクルミの木の伐採の日、濁流に揺れる木の葉のような舟の上で、事故に見せかけてマスミさんを殺害することを思いついたのだった。

告白

一審の新潟地方裁判所長岡支部では謙作に対し無期懲役、典子に対して懲役10年が言い渡された。
典子、謙作ともに控訴したが、東京高裁ではいずれも棄却。特に謙作に対しては、長年善き妻、善き母として尽くしてきたマスミさんを事故に見せかけて殺害するなど言語道断、極刑に近い厳罰を持って臨まなければならないと厳しく批難した。

一方で、謙作が殺意を持ってマスミさんを殺害したとする物的証拠はなかった。
典子がマスミさんを殺してくれと頼んだというのも、いわゆる寝物語でのことであり、言葉のあやとでもいうべきか、そこまでしてでもと思うほどの強い愛情を示しただけであると弁護側は反論した。

しかし裁判所はこれを一蹴。
実は典子は、あの貯水池での密会以外でも、謙作に対してはっきりと「奥さんを殺してもらって…」という教唆をしていたのだ。
それは、謙作にあてた恋文の中にあった。

また、典子がつけていた日記の中で、マスミさんが行方不明になったという新聞記事の切り抜きが貼られているのも見つかっていた。
そしてそれらの存在は、典子の夫と仲人も、事件発覚より前に知っていたことだった。

裁判では、典子の手紙が貯水池でのやり取りとあわせて教唆の証拠となり、典子の日記に貼られた新聞記事は、願いを叶えてくれた謙作への感謝と記念であると認定した。

二人は上告。そこでは弁護側から原審にはいくつかの違法な点を審理していないことなどが上告の理由として挙げられており、最高裁はそれら(被告人の知る権利を侵害したと思われる点)は違法であると認定したが、そのうえでその違法は判決に影響を及ぼさないとして上告を棄却、二人の刑は確定した。

信濃川にも、ようやく夏の気配がしていた。

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昭和41年7月18日/新潟地方裁判所長岡支部/判決/
昭和42年11月13日/東京高等裁判所/第7刑事部/判決
昭和43年6月25日/最高裁判所第三小法廷/決定
昭和43年(あ)267号
最高裁判所刑事判例集22巻6号558頁
D1-Law第一法規法情報総合データベース

 

ある少年の死~明石市・日本刀重過失致死事件~

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ある夜の夫婦喧嘩

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母の涙が問うもの~宇和島・6歳双子金網監禁事件~

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法廷にて

「私、前に自分一人で解決しないといけないと思い込んでしまって、失敗したことがあるんです。だから今度は、ちゃんと相談しようと思っていました。」

松山地方裁判所宇和島支部第一号法廷。
証言台に座る女の無造作に束ねた髪には、その年齢にそぐわない白髪がのぞいていた。
被告人席には、夫の姿。両脇を屈強な刑務官が固める。その傍らに、女性職員の姿。
この事件の被告は、夫婦だった。

女は時折涙をぬぐい、自己の罪をかみしめるように、言葉を紡いだ。
「最後に何か言いたいことはありますか。」
促された夫は、
「そうですね、こんな事件起こしてしまって、Aくん、Bくんはじめ上の子3人、会社や周囲に大変な迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした。」
と少し早口に証言を終えた。
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🔓ママなんか怖くない~ひたちなか市・小1女児せっかん死事件~

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台所にて

「これ、どうすんの?」
「立たせとけばいいんじゃない?」

女は目の前にいる女児をそういうと手近にあったモップの金属製の柄で力任せに殴りつけた。女児は悲鳴をあげるが、それでも殴打する手を止めない。
やがて女児の悲鳴は獣の咆哮のようなものへと変化。さらには脱糞するまでにいたった。

「汚い!あっちいって」

まるで汚物を押し付けあうかのように女児の体をどつき回す大人たち。

そしてその日の午後、女児はたった6年の生涯を一人ぼっちで閉じた。

平成12年3月23日、水戸地裁の松尾昭一裁判長は3人の男女にそれぞれ懲役4年から6年の実刑判決を言い渡した。
3人は、あの女児の実母と養父、そして、女児と同じ名前を持つ、実母の友人の女だった。